管理人のつぶやき  [ Home ] このページは「Go!伊勢崎」管理人・丸男が日ごろ思う事を不定期に書き綴るもので、掲示板「管理人の独り言」の番外編です。
ご意見等ありましたら「管理人の独り言」からいただければ光栄に思います。




最新はこちら

●過去のつぶやき●



●これ以前はこちら●
2010/3〜2010/7
2009/9〜2010/2
2009/6〜2009/8
2009/4〜2009/5
2009/2〜2009/3
2008/12〜2009/1
2008/10〜2008/11
2008/8〜2008/9

2011/3/16(水)

被災地にできる限りの救援を、こんな時だからこそ心を一つに。

 昨夜から今朝にかけて、真冬のように寒い夜でした。3月に入って、温かい日を何回か迎えてからのこんな日は、特別に寒く感じます。普段ならば何気なく過ごした寒い夜も、今回は非常に暗い気持ちになります。東北地方では雪が降った地域もあったようです。東北関東大震災の被災地の皆さんはどのように過ごしたでしょうか。

 テレビやラジオで聞く被災地の様子は聞くに忍びないばかりです。
 巨大な津波によって目の前で家族と生き別れになった人々、車や家の中で助けを求めもがきながら濁流に飲み込まれてしまった人々。それを高台からなす術もなく見守る人々。
 街全体が一瞬の間に津波に飲み込まれ、未だに街の半数の人口8,000人が行方不明と言う、言葉では言い表せない悪夢のような出来事。
 地震全体の全容が判明するのは、当分先の事、いや全ての被害を掴むのは不可能かも知れない未曾有の災害です。

 命は助かったものの避難所で過ごす人たちも過酷な状況で過ごしています。
 4人で1つのおにぎりを分けて食べ、毛布1枚を3人で使い、救援物資を取りに行くにもガソリンがなくて移動できず、広い体育館で暮らす250人が5台の灯油ストーブで暖を取り、しかもその灯油も間もなく底を突き、命綱の血圧や糖尿病の薬が今日か明日かで切れる不安。余震の揺れが怖くて市役所のロビーで過ごす家族、家や財産を全て失い明日からの生活に絶望し、連絡が取れない妻や夫、子供や孫、おじいちゃんおばあちゃんを探し求める人々。
 本日時点で避難所で暮らす人々の数は43万人を超えているとのことです。

 ほんの一瞬の天災によって、全てを失い全てが変わってしまった被災地の人々。
 亡くなられた方々には心からご冥福をお祈りし、避難所で暮らす方たちには心をしっかりと保ち、頑張ってもらいたいと思っています。言葉にすると月並みなことしか言えない事が歯痒いばかりですが、日本国内はもちろんのこと、世界の多くの国が皆さんを見守り、救援に駆け付け、物資や募金運動が始まっています。誰もが居ても立ってもいられない気持ちで見守っていることと思います。

 一昨日は屋根の上に乗ったまま沖に流された男性が救出され、昨日は96時間ぶりに救出された25歳の男性の話や、92時間ぶりに救出された75歳の女性の話を聞く事ができました。悲惨な話が続く中での明るい話題です。毎日少しずつ明るい話題を増やせるよう、被災地の皆さんと応援する多くの皆さんが心を一つにして、この過酷な状況を乗り越えなければと思っています。

 福島原発の事故で、放射能汚染が新たな不安を巻き起こし、電力供給不足により、東京電力や東北電力の計画停電によって、多くの交通網や企業、商店が打撃を受けています。その結果、製造力が低下する事により、日本の経済力低下を心配する政府や経済界の人たちの意見も聞こえ始めています。実際、世界の株式市場が影響を受け、日本企業の株価の下落が始まったとのことです。
 でも、たとえ経済力が低下し、日本の国力が下がったとしても、今回の地震の被災地を全力をあげて救済することが先決と思います。計画停電に関しても、多くの人が被災地の皆さんの苦境を頭に思い浮かべ、積極的に協力し、節電に努めていることと思います。こんな時だからこそ、お互いが協力し合い、心を一つにすることが重要なことと思っています。


▲ページTopへ

2011/3/14(月)

未曾有の被害、「東北地方太平洋沖地震」
改めてその重要性を認識する地震防災対策

 3月11日、14時46分頃に発生したM8.8(3/13、M9.0に訂正)の「東北地方太平洋沖地震」。

 震源地は宮城県沖や岩手県沖、福島県沖、茨城県沖にかけて広範囲に亘り、太平洋沿岸地区は津波によって壊滅状態になり、亡くなられた大勢の方たちのご冥福を祈り、未だに行方不明の方たちを一刻でも早く助け出し、更にその後の可及的速やかな復興を願うばかりです。

 ご当地伊勢崎においても、地面までもがユラユラと大揺れする過去にない体験をしましたが、幸い、伊勢崎市全体では屋根瓦やブロック塀などの損壊事故程度で、人命が失われたり、怪我人が出る等の被害はなかったようです。

 今回の地震は東北地方のみならず、茨城県沖、千葉県沖、甲信地方など多地点で発生しています。3月12日午前3時59分ごろには長野県北部の栄村でM6.7の地震が発生しています。報道によれば、M5以上の地震が1日に150回発生しているようで、東北地方の太平洋沿岸の被災地のみならず、未だに東北や関東の人達を不安に陥れています。

 今回の地震による最大の被害は、地震によって引き起こされた太平洋沿岸の津波被害と思いますが、内陸部における家屋倒壊や火災、交通寸断などの被害も甚大です。特に今回は福島第一原発においても事故が起き、既に民間人の被爆者が現れ、地震が引き起こす二次災害の怖さを示しました。

 政府の地震調査委員会によれば、平成19年(2007年)1月1日を基準として30年以内に宮城県沖地震が発生する確率は99%と予想されていたようで、今回その予想が当たってしまったことに悲しみを感じると共に、地震予想に対して厳粛に受け止めなければならない事を改めて認識しました。
 またこの事は、東京湾北部を震源とするM7級の首都直下型地震が、今後30年以内に確率70%で発生すると予想されていること(*1)に対しても、厳粛に受け止めなければならない事を示唆していると思います。

(*1)この予想については内閣府・防災情報のページ(http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/taisaku_syuto/syuto_top.html
に詳しく掲載されています。

 今回の地震は、太平洋側の太平洋プレート(岩板)が、関東以北の日本列島を乗せている北米プレートの下に潜り込むことによって起こる「海溝型地震」とのこと。
 この2つのプレートの位置を確認すると、東北から関東にかけてどこにでも起きる可能性があります。今回規模の地震が茨城南部や千葉北部、埼玉、東京付近で発生すれば、津波被害とは異なった都市型被害が予想され、不安が募ります。

 太平洋プレート、ユーラシアプレート、フィリッピン海プレート、北米プレートの4つのプレートがぶつかり合う日本列島に住む我々日本人として、いつ、どこで起きても不思議ではない地震に対して、今後一層、地震情報に注意し、地震発生予想を厳粛に受け止め、防災対策を進めることが必要だと思っています。




 補足になりますが、今回の地震直後、私も遠く離れて暮らす子供たちの安否を確認するために携帯で連絡を取ろうとしましたが、深夜まで繋がりませんでした。メールは送信を完了するもののリアルタイムには届かず、まとめて一辺に届きました。子供たちからの返信が届いたのは、送信日時からすると丸一日後にドドーっと一辺に届きました。
 代わりに、地震直後からインターネットによる中央紙のネットニュースは時々刻々と地震情報を配信し、当「Go!伊勢崎」のウェブサーバも何の支障もなく稼働していました。
 その事にヒントを受け、今回、緊急時の多目的な利用のために「緊急時掲示板」を設置しました。今回の地震は落ち着きつつあり、用途も薄れつつありますが、インターネットが地震等の天災時においても安定した通信インフラであるならば、緊急時の双方向通信手段として、非常に有効であると思っています。

2011/1/30(日)

タイガーマスク現象とウェブサイト。共通点は?

▲ページTopへ

 昨年のクリスマスの日、群馬県前橋市の養護施設へのランドセル寄付に端を発し、その行為に感動し共鳴した人々が全国各地で同様な善意を繰り広げ、本日時点で既に全国で1,000件を越えているとのことです。

 年齢層も小学生2年生や90歳になる方まで幅広く、寄付する品物もランドセルだけじゃなく、現金やおもちゃ、文房具、食べ物、衣類など、多岐に亘っているようです。

 子供たちへの虐待と言う暗い話題が多い昨今、これらの善意が人々の心を明るくし、感動の輪が広がり、また新たな善意を誘っています。

 寄付する人達は決してお金持ちじゃなく、むしろ自分も精一杯生きている貧しい人たちが多いんじゃないか、自分がギリギリの生活をしているから困っている人達の立場、気持ちを理解できるんじゃないかと言う予想がメディアで語られていて、多くの事を考えさせられます。

 現金や品物に添えられる手紙には、
「ランドセルじゃなくて済みません。(現金や品物が)少なくて済みません。
でも、あなた達の事を見守っている人がいる事を知っておいてください」と
児童達を励まし、尊い行為をしていながらもその姿勢はまだ謙虚で、心打たれます。

 寄付行為にはユニセフ始めいくつかの世界的な受け入れ組織があって、オードリーヘップバーンや黒柳徹子、アグネスチャン各氏の活動などでも世間に知れ渡っていますが、これらの組織的な寄付が、寄付を渡す人と受ける人との関係が直接的には見え難いことに対し、今回の日本のタイガーマスク現象は、寄付したい人が自分の善意と気持ちを、徒歩やオートバイ、車で施設に直接に届けることによって、個と個の関係が非常に明確で、そのこともこれらのニュースを聞く私たちの気持ちをスッキリと分かり易くしてくれます。

 人々が社会の中で個と個の繋がりを確認し温かい気持ちになれることは非常に基本的で重要なことです。分かっていても個人が孤立し、喧嘩し合うのが世の常です。だからこそ、今回のタイガーマスク現象がたった一ヶ月と少しの期間に、これだけ多くの人々の心を動かした要因になっていると思っています。



 ところで話が一挙に飛びますが、ネットを利用している皆さんはウィキペディア(Wikipedia = wiki+ encyclopedia) をご存じの事と思います。ネットで何かを検索すると、百科事典(Encyclopedia)の如くに色々な記事を表示してくれるサイトで、その恩恵を受けているネットユーザは数知れない事でしょう。サイト運営はボランティアや寄付で支えられ、記事執筆者はネットユーザ自身です。(実は私も記事を書いた事があります)

 ウィキペディアに限らず、世界には数多くの親切なサイトが存在します。
 日々のニュースや天気予報、テレビ番組、動画や音楽、旅行案内や旅行記、動植物の生態や写真、工学や科学、化学の各分野の細かい情報など、デイリーな「動的」な情報から図鑑や事典、辞書、専門書のような「静的」な情報まで、実に幅広い情報が配信されています。
 これらのサイトの閲覧や利用は一部有料サイトを除き大半が無料で、それがまたネットが普及している理由にもなっています。

 WikipediaやYoutube、Facebook、Googleなど・・・今では巨大化したこれらの組織や企業も、元を辿れば一個人が何かの動機で開設しています。

 フェイスブック(facebook)を題材にした映画「ソーシャルネットワーク」が今、伊勢崎のプレビ劇場でも上映中で、先日観て来ましたが、エジプト市民のデモを誘引したともされるこの巨大なSNSも当時ハーバード大学の学生だったマーク・ザッカーバーグが個人で開設しました。

 当サイト「Go!伊勢崎」もこれらのサイトに比較すれば全くの末席ですが、私・丸男が地元の伊勢崎市を少しでも元気にしたいとの思いで個人的に開設・運営しているサイトです。

 「個人ができる事なんて大したことはない。
 そんなことは国がやるべきだ、行政がやるべきだ」
 と言う意見も悲しいかな当たっていて、そのような自治体や国を構築できれば素晴らしい事ですが、世界不況の中で翻弄されて迷走している日本の現状を見ても、期待ばかりしていても何事も始まりません。
 リーダーの責任や義務を追及すると、首相でさえ悪びれもせずに次々に降りてしまう日本の現状があります。
「そんなに厳しい追及をするなら、ボクちゃん降りちゃうからね」
みたいな感じが現状です。

 エジプト市民を動かす原因を作ったfacebookだけじゃなく、世界経済を引っ張りつつある中国も、中国国内のフラストレーションを爆発させないためにGoogleやインターネットに規制をかけていると聞きます。

 個人でできると言っても、facebookやGoogle検索エンジンなどは流石に誰にでも作れるものじゃありませんが、タイガーマスク運動やボランティア活動、またウェブサイト作成や協力などは、一個人の自発性でできることで、個々の規模が小さくてもジワジワと人々の心に波及し、やがては大きな力に成長する可能性を秘めています。

 「インターネットの発明はダイナマイトの発明以上である」とか、「インターネットは個人が巨大企業や組織と同じ土俵に立てる」と特徴づけられています。

 タイガーマスク運動に接して、その共通点と可能性を改めて考えた次第です。


2011/1/23(日)

またまた仲間はずれの北関東3県

▲ページTopへ

 先日の読売テレビの「秘密のケンミンShow」での話。
 各県の話題の合間になぜか北関東3県の話題が。ところがゲスト出演者のお笑い芸人やタレント、俳優の皆さんの大半が群馬、栃木、茨城の北関東3県を認識していません。日本地図で北関東3県の位置を当てる街頭インタビューでも、関西地区では正解者は誰もいませんでした。

 あるゲストが「そもそも北関東って言う呼び方があるんですか」と。
 「え〜、それはないよ〜!」
 関西出身の芸人が
 「群馬、栃木、茨城なんて場所も知らないし、興味もない、行きたいとも思わない」
 と思いっ切り否定して、ファンを約1名減らしました。

 更にガッカリしたのは、街頭インタビューで、北関東3県を当てられない人たちが東北6県は全員が当てたことです。

 富山県出身の柴田理恵さんが
「え〜、私は知ってるわよ〜、昔、茨城県の人と文通していた事があって、富山から見れば北関東は東京の内で、東京の人と文通しているって思ってたもん」と唯一ホッとするコメントを語っていました。柴田さん、良い子。

 私は20代から30代前半まで東京の会社に勤務していましたが、職場は北海道から九州までの地方出身者が大半でした。
 親しくなった長野、福井、三重、北海道出身の友人の実家に遊びに行ったり、各県の話題で見識が広まったりと、今振り返るに、職場で時々「秘密のケンミンShow」が繰り広げられていましたが、話題が各県の自慢話に至ると雰囲気がちょっと変わり、
 「埼玉や千葉は『ダサイ玉』、『千葉の女が乳搾り』とかって馬鹿にされるけど、まだ話題になるだけいいよな、群馬なんか話題に出た事ないし。」と容赦がありません。

 流石に、職場の同僚の中に北関東3県の位置を知らない人はいませんでしたが、話題の優先順位で群馬が上に行った事はありません。職場の仲間と尾瀬登山や榛名湖のスケート教室、片品村のテニス合宿、赤城山登山に行きましたが、自慢ネタとしては微妙な位置付けでした。

 「東京から北は北海道じゃないの?」と、神奈川出身のシニカルで口の悪い友人が冬に我が家に遊びに来た時、伊勢崎に到着するや否や、「あれ、雪が積もってないじゃん」と、あたかも豪雪地帯を予想して来たかのような発言をしました。
 確かに、テレビの天気予報で、関東圏がほぼ晴れの予報の時に「群馬北部山沿いは積雪50cm」などと予報するので、伊勢崎であろうがどこであろうが、同じ群馬なので同じように思っているのかも知れません。
 伊勢崎辺りが最近は東京よりも降雪が少ないことは多分全国的にも知られていないでしょう。



 戦後の首相出身者が4人で最多県であること、建設中止で話題になった八ツ場ダムのこと、日本三大名湯の草津温泉があること、毎夏、日本一の暑さを記録する伊勢崎市や館林市、萩原朔太郎や「ここに泉あり」の群馬交響楽団の存在、伊勢崎出身の「タッチ」や「H2」の作者・あだち充氏、・・・地元では強い味方の事柄や著名人も、全国区でのトップセールスには不十分のようです。

 むしろ、今話題なのは高崎出身のイケメンモデル&タレントの「ジョイ」です。お笑い芸人やMCと絡んでのトークが面白く、テレビの露出が多く、現時点では群馬一の宣伝マンと思っています。



 2009年の日経の地域ブランド力調査でも最下位の我が群馬県、その時に、45位が茨城県、46位は栃木県で北関東3県でワースト3を占め、今回のテレビ番組はその時の事を思い出させました。

 数年前のテレビ番組で、お笑い芸人が一人ずつ47都道府県の位置を当てるバラエティー番組があって、最後に残ったのが栃木県と群馬県で、最後の回答者もこの2県を反対に回答し、結局、栃木県と群馬県は誰も当てられませんでした。

 また別の番組で、あるタレントが「北関東3県は関東から外れて欲しい。南東北と呼べばいい」と発言すれば、東北側から「東北の仲間にもしたくない」と拒否され、受け入れ先のない嫌われ者みたいな存在で、イジメに会う生徒の心境が分かったような気分です。

 一体なぜに?

 「秘密のケンミンShow」では、あるゲストが
「この3県は努力が足りないんじゃないの!」と強い口調で言ってましたが、内心「ドキッ」としました。

 ほどほどに東京に近く、ほどほどに都市化も進み、田園や山岳地などの自然環境にも恵まれ、観光地もほどほどにあり、台風も少なく豪雪地帯でもなく、この何でも「ほどほど」なのがいけないのでしょうか。

「最下位」とランクされ、あなたは
「しょうがないんじゃないの、だからって別に困ってないし・・・」
とクールに無視するか
「何とかしようぜ、最下位はヤバイよ〜!」
と熱くなるか、どちらですか?

私は?
もちろん熱くなる方です。


2011/1/1(土)

本年もよろしくお願い申しあげます

▲ページTopへ

 のっけから私事で恐縮ですが、昨年母が亡くなりましたので年始のお祝いの言葉は控えさせていただきますが、昨年中は「Go!伊勢崎」を訪問してくださった皆さま、多くの情報を寄せていただきました皆さま、また掲示板に色々なご意見や情報を書き込んでくれた皆さま、本当にありがとうございました。
 休日サイクリングの趣味の延長で開設した「Go!伊勢崎」も早いもので5年目に入りました。休日のサイクリング&取材と、夜なべ仕事での編集作業と言う開設以来の基本スタンスは変わらぬままですが、最近は平日の昼間にも本業の合間を縫って編集したりと、以前にも増して力を注いでいます。本年もその姿勢を変えずに運営して参りますので、皆さまには昨年同様、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 まずは、新しい年を迎えて、今年度気に掛けている事柄を整理してみました。
(→は当サイトで紹介中のページへのリンクです)

道路や橋梁建設 (かっこ内は事業主体)
・上武道路の渕名高架橋(国土交通省)(
・東毛広域幹線道路(354BP)・境工区(伊勢崎市、群馬県)(
・東毛広域幹線道路(354BP)・韮塚工区、玉村BP(伊勢崎市、群馬県)(
・北関東自動車道の太田桐生IC〜佐野田沼IC間(NEXCO東日本)
 (平成23年3月19日に開通。この開通により、北関東自動車道が全線開通)
・境平塚の道路改良(群馬県)(
・(都計道)米岡上武士線(伊勢崎市)
・名和幹線(伊勢崎市)(
・上武大橋・架け替え工事(埼玉県)と北側道路(群馬県)
・東武伊勢崎線・立体化工事(
・その他伊勢崎市内の新設道路、既存道路の改良(

工業団地整備、その他
・宮郷工業団地造成(伊勢崎市)(
・三和工業団地内の企業誘致や工場建設(企業局や民間企業)

商業施設
・前橋みなみモールの第二期工事(コストコ、他)(
・街中B級グルメ()や既存商業施設のトピック(

公園)やサイクリングロード()、街中の花と緑(
 紹介済みの公園やサイクリングロードについては、四季折々に見せる異なった顔を紹介するなどして記事を追加し、未紹介の公園についてはマメに掲載を追加したいと考えています。
 「街中の花と緑」は公園に咲く花や街路樹だけでなく、河原や堤防、田園に自生する野の花なども紹介できればと思っています。

神社仏閣
・市内に現存する神社仏閣の多くは数百年の歴史を持ち、春祭りや秋祭り、また他では見られないユニークな行事を継承しています。それらの行事は固定日の場合が多く、なかなか時間の都合が付きませんが、タイミングが合えばマメに取材に出掛け、紹介したいと考えています。

イベント
・伊勢崎市内の数多くの恒例イベントについては既に大半を紹介していて、最近は取材していても気持ちの余裕が出て来ていますので、その余裕を新たな視線探しに向けて、新鮮な紹介ができればと考えています。また、地域の様々な団体の皆さんが催すイベントも、アンテナ感度を上げて情報を掴み、きめ細かに紹介できればと思っています。皆さんからの情報を大いに期待しているカテゴリです。

島村、島小)、遺産)、今日の風景
・養蚕農家群の世界遺産登録や田島家の国指定の申請の動きなど話題の多い島村地区ですが、書物などで調べた事柄に加えて、自分の足で歩いて感じた事などを記事にできればと思っています。
 遺産はぶらりサイクリングの途中で偶然に遭遇し、情報が後から補足される場合が大半で、今年もその自由気ままな探し方は変えられませんが、何ヶ所加えられるか自分でも楽しみなところです。
 「今日の風景」は、ごく日常の風景が四季折々の変化、また夕焼けや草花でお化粧した時に見せるちょっと気に入った姿を紹介できればと考えています。多分に自己満足の世界ですが、肩肘張らないページとして充実できればと思っています。

■ウェブソフトの作成
 伊勢崎テスト()やシニアチェック()のような、cssやHTMLタグだけでは表現できないページを作成し、皆さんがサイトに参加できる機能を持たせたいと考えています。どんなページが面白いのか、なかなか自分でアイディアが思い浮かばないのが悩みどころです。



 「Go!伊勢崎」にはままだ多くのカテゴリがあって全ての抱負を語り尽くせませんが、どのカテゴリもできるだけ多く更新できるよう、また飛び入りや新規カテゴリも加えながら今年も頑張って行きたいと考えています。
 皆さまにはサイト閲覧や情報提供、掲示板への書き込みなど、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 


▲ページTopへ

2010/12/26(日)

比較して悲しくなるのはつまらない
上でもなく、下でもなく

 私の子供たちが小さい頃、こんな問答をしたことがあります。
 子供の一人に
 「おこずかい500円もらったら嬉しい?」
 「うん、うれしい♪♪」
 「それじゃ、その後、○○に1,000円あげたら?」
 ○○はもう一人の子供です。
 「・・・う〜ん、ちょっとヤダ!」
 「だって、500円もらえるんだよ」
 「・・・う〜ん、でも〜・・・、両方同じか、両方もらわない方がいい!」

 子供の正直な気持ちですが、大人でもその心境は余り変わらないように思います。

 東京にいた時に勤務していた会社で、同じ職場で気が合った友人のTさんが、別の部署に務める同期のKさんがこんな事を言っていたと半分怒ったように言ったことがあります。
 「Kが『僕は慶応だったからクラスの中じゃ落ちこぼれさ、皆なほとんど東大へ行ったからね』って言うんだけど、嫌味な話だよな。俺なんか駅弁大学だしさ」
 Kさん、東大進学率で有名な進学高に通っていたとのことで、仲間内じゃ慶応大学でも肩身が狭かったようです。本音なのか虚栄なのか実際のところは確認しようもありませんが、本音だったのかも知れません。いつも「駅弁大学」と卑下するTさんが卒業した大学は国立大学ですが、地方にあったので本人がひょうきんに「駅弁」の冠を付けていました。

 昇給や賃金などももらった賃金に感謝すべきところを、同期との差が気になったりします。昇格についても同様で、昇格に喜びながらも同期の中で遅れ気味だったりすると複雑します。ましてや後輩に追い越されたりすると、モチベーションが下がったりもします。「あんなに頑張ったのに、どこで差が付いたんだ」とか。

 国家資格なども同じで、三級がある試験ならば二級や一級が欲しくなり、「補」が付く試験ならば「補」の付かない資格を目指します。
 オリンピックにおいてさえ銅や銀メダルじゃ満足せず、金メダルを取れなかった悔しさで涙するシーンを見ることがあります。オリンピックに出るだけでも常人には成し得ないことですが、当人にしてみれば、金以外は自分を認め難いことなんだと思います。そんな中で、1996年アトランタ五輪女子マラソンで見事銅メダルを獲得した有森裕子さんが「自分で自分をほめたい」と語った言葉は感動を呼びました。みんな、「そうだよ、それでいいんだよ」と思ったのだと思います。

 もっと身近な話題でも、もっと高く、もっと高級で、もっと上位で、もっと多く、もっと速く、もっと大きく、もっと贅沢に・・・と枚挙にいとまがありません。



 それ自身は素晴らしいことなのに、なかなか絶対的な価値観をもって受け入れる事ができずに、何かと比較してその相対差によって悲しくなったり、落ち込んだりするのが日常の世界。
 世の中に存在する序列や等級は人々のモチベーションの設定に必須な事と思いますが、その設定を成就するための努力は素晴らしいことと思いますが、その結果に対して他者と比較して悲しむことなどはつまらないことと思います。努力したこと、頑張ったこと、それだけで十分なんじゃないかと思います。表彰台に乗れなくたって、肩書や資格が上位じゃなくたって、自分で設定した目標に対して精一杯努力したならば、有森さんの「自分で自分をほめる」姿勢でいいんじゃないかと。



 話がちょっと変わりますが、私が子供の頃の話しを少しばかり。

 私が子供の頃の昭和の中頃は、どの家庭も一様に貧乏でした。貧乏と言っても今の時代から比較しての表現であって、当時は誰も貧乏と言う自覚はなかったように思います。
 家は機密性が悪くて隙間風が自在に入り込み、車やエアコンを所有する家などどこにもなく、暖房と言えば練炭炬燵だけ。しかも練炭が消えればそれでその晩の暖房は終了です。今のような機密性の高い家ならば、二酸化炭素中毒で死んでしまいますが、都合良く隙間風が入って換気するので大丈夫です。
 家の中には土間があってかまどがあり、燃料は薪です。いまでこそ「かまど炊き」なんて言うと美味しそうな響きですが、食事の度に薪から火を熾(おこ)す訳ですから、タップリと時間がかかり、家の中は煤(すす)で真っ黒です。
 トイレはもちろん「掘り便」で、四角いチリ紙のトイレットペーパーがあれば上等で新聞紙も活躍しました。風呂は焚き木を燃やし、釜は五右衛門風呂が標準。中にはドラム缶風呂で設置場所は家の庭、雨が降れば傘を差して入ると言う家もありました。お風呂ブームの今ならば「露天風呂みたいで楽しい、しかも薪で沸かした風呂は温まる」なんて呑気な声が聞こえて来そうですが、好んでドラム缶風呂にした訳じゃなく、それ以外に方法がなかった訳です。今、意識ある人々の間で話題の「スローライフ」そのものでした。
 食事と言えば麦飯と米飯が交互で、おかずは野菜や納豆、卵、漬物。肉や刺身は年に数回。ややもすると野菜の値段が肉や刺身とあまり変わらない現在ならば、「健康的で贅沢」なんて言う意見も飛び出しそうですが、当時はタダ同然の野菜に対して肉や刺身は桁違いの高値。嗜好の問題じゃなく必然的に健康的な食事でした。
 部屋の照明も部屋の中央に三角の白い傘が付いた裸電球が一つぶら下がっているだけで、部屋の隅などは薄暗く、遅くまで起きていても仕方ないので、結局は早寝早起きで健康生活。
 そんな状態から脱却するかのようにテレビ・洗濯機・冷蔵庫が家電の『三種の神器』として登場し、以来、止まるところを知らずの勢いで電化製品や車が普及し、オリンピック景気からバブル景気に至るまで、新幹線網と高速自動車網が全国をカバーし、核家族化と住宅建築需要を背景にGDPを伸ばし続けました。
 お陰で全国各地にイタリア風やスペイン風、あるいはカナダ風の家が建ち、トイレはウォッシュレットで世界一お尻のきれいな日本人になり、風呂もボタンひとつでいつでもOK。レトルト食材と電子レンジで料理不要の食事がいつでも用意できて、車も成人になれば一人一台。何でも売っているコンビニで買物も24時間365日いつもでOK。

 この半世紀の生活レベルの変化は語り尽くせぬ程に便利になりましたが、残念なのは今から比べれば比較にならないほどに貧乏だったはずの50年前の方が、大人も子供もゆったりと豊かな気持ちでいられたように感じることです。幸せにするはずだった物質文明がエンドレスの欲求を刺激し、なかなか幸せのゴールが見えて来ていないような状況です。


 今、日本は元気がありません。かつて日本が世界一だった市場が次々に中国や韓国に取って代わられています。特に中国経済の急成長は日本の数十年前の様子を見るようで、日本だけじゃなく世界中が中国マネーに媚を売り、翻弄されているようにさえ感じる昨今です。
 中国から発信される映像を見ると、次々に物を欲しがる光景が、かつての日本の姿を見るようで、他人事ではありません。
 中国が今後、物質の豊かさと共に平和と幸福も手にするのか見守りたいと思いますが、私たち日本においてはグローバル経済の煽りを受けて、物質文明を追求する時代は峠を越したように思います。この機を勉強材料として捉え、物がなくても幸福だった時代を検証し、新たな価値観を創り出す必要があるように思います。

 みんなが一様に貧乏だった時代、比較するにも隣家も同様に貧乏なので無駄な競争が発生せず、顔を見れば「今日はいいあんばいだいね〜、お茶でも飲んで行かね〜かい」と、白菜やナス、キュウリの漬物、きんぴらごぼうを摘まみながら、縁側に坐って他愛ない事をひとしきりお喋りします。近所の人は誰彼となく交流し、どの家も開けっ広げで、ちょっとの留守には鍵も掛けませんでした。盗む物がない時代だったと言うより、泥棒がはびこる世相じゃなかったのだと思います。
 立派な家を建てて物が増え、その分閉じまりも慎重になって家財を守ります。「守る」と言う事は他人を排他する側面もあり、お互いに心を施錠した社会を作り出します。
 物が増え、生活レベルを上げ、更に上を目指す事。人々の多くがその流れを支える継続力に自信を失いつつある現在、新たな価値観による幸せを探し出す過渡期のような気がしています。



2010/12/8(水)

長引く不況・一旦肯定してみれば見えて来る社会

地方の優位性


▲ページTopへ

 「見えて来る社会」などと偉そうな発言をしてしまいましたが、あくまで地方都市・伊勢崎に住む一市民の素人考えとしてお読みください。

 まず、現在の社会のサイクルをキーワード連鎖でざっと説明してみます。

 長引く不況→個人の収入が減る→物を買わない・売れない→価格が下がる→それでも売れない→企業が疲弊→グローバル経済で生産コストの安い国へ生産拠点を移動→国内の雇用機会が減る→個人の収入が減る→不況に輪をかける。

 企業の疲弊→税収が減る→公共事業が減る→社会保障が減る→教育費補助が減る→出産や老後の不安→人口減少→住宅ニーズが減り空家が増える→住宅供給過剰→オフィススペースや工場が余る→不動産価格の下落→地方は過疎化し都市へ利便性と職を求めて集中→都市間格差→地方経済の低迷。

 実際はこんなに単純ではなく、様々な連鎖が発生するでしょうが、大方の流れはこのようではないでしょうか。

 今まではこの状況を悲観し「何とかしなければ」と言う焦りと不安の気持ちで捉えましたが、ここで、一旦これを全て肯定して考えてみました。

■新しい価値観、新しいライフスタイルの出現■

 最近、マスコミで「草食系男子」の若者が増えたと言う話を聞きます。物を欲しがらない、物を消費しない、欲張らない、闘わないと言う特徴があるとのこと。貨幣経済を支えた物質や出世への欲求が希薄なので、不況時代への適合性大です。恋愛に対しても無理しないとか。
 世の中が全て「草食系男子」になってはそれで社会が成立するのだろうかと不安がありますが、これを極端な例として位置付け、現在の世相を眺めてみると・・・

●自分で自分の事や地域の事をする

 雇用機会が減り勤務時間が減ると時間が余ります。その分、お金をかけない生き方ができる(せざるを得ない)ので、自分の家の事を自分でするようになり、家庭菜園や日曜大工・和洋裁等生活を補う趣味が定常化し、日常の仕事の一部に。
 我が家の付近の農地は、農家の方が無料で貸しています。雑草を管理する手間が省けるだけで助かると、むしろ借りると喜ばれます。また、我が家は季節ごとに近所の親しい知り合いから路地物野菜や柿や柚子、栗などをいただき、いつも助けられています。

●税収が減って公共事業が減るので、地域の事を自分たちでする社会に

 自宅脇の道路や近所の公園等は自分の家の一部と捉えて、街路樹の下枝の剪定や落ち葉・雑草管理、側溝のゴミ拾い等は地域住民が行えば、常に快適な環境を維持できます。市役所にクレームを入れている暇に自分でやってしまえば、早めに解決するし気分も清々しいものです。
 その結果、ボランティア活動を促進し、地域交流を促進します。公民館など地域の公共施設の管理も同様です。
 この流れによって、人と触れ合う機会が増え、野菜や手作り料理などの物々交換が増えたり、得意な事を教え合ったりの相互扶助も促進します。私が子供の頃の昭和の中頃まではこんな風景が日常的でした。

●自然のサイクルを利用し自然と共生

 生物の多様性を見直し、森林・里山や休耕田、空き地を見直し、自然と触れる時間が増え、自然と共生することができるようになります。ゴミの再利用(燃料や堆肥)によりゴミの減量化を促し、有機農法で循環型農法が復活し、自然環境も回復します。農業生産性は落ちますが、人口減少傾向と食糧不足問題に対してはむしろ適合。エコロジー問題は自然に解決。いわゆる、持続可能な循環型社会を創出(回復)します。

■都市と地方の優位性が逆転■


 以上のように、現況を肯定する考え方で捉えると、そう言った社会も悪くはないと思えるようになって来ます。そしてこの流れは実は自然が多く残され、広い土地がある地方に取って有利で、都会では種々の課題が残ります。

●都会では都市機能をいつまで、そして誰が維持するか

 舗装と構造物で覆われた地表面はヒートアイランド化の原因になり、地表面の流失係数は高くなり、地盤の浸透係数は下がり、その結果、雨水に弱く都市型集中豪雨も増えて都市の課題になっています。

 高層ビル群や網の目交通機関のエネルギ補給と維持管理費は膨大です。これらを需要と供給の関係でいつまで維持できるのか。密集住宅街の非常時安全対策も必要です。
 都会のシニア世代や職に就けない人たちが野菜や米作り・畜産を行おうとしても、軒がぶつかり合うような狭い住宅地やマンション街では、実現の可能性は低いです。
 空いたオフィススペースで24時間365日、照明と温度管理を施して野菜作りをしていると言う話題も耳にしますが、それも人工的エネルギを供給して成立しているので、そのエネルギ供給をいつまで継続できるか。地方のような太陽の恵みを受けての生産ではないので、無理があります。

 地方の視線で地方を見ると、地方の優位性はなかなか気が付きません。都会の弱点を検証することから、見えてくるものが多分にあります。



 長引く不況で暗い気持ちからなかなか脱却できませんが、ここまで長引くと数十年前の好景気の復活は望むべくもなく、それならばこの状況を全て肯定し、新たな生き方を模索した方が賢明と思い、あれこれと考えた次第です。共鳴した点がありましたでしょうか。


2010/11/25(木)

前橋市新清掃工場整備事業に思う

▲ページTopへ


 本日付で、前橋市新清掃工場整備事業の関連で進められている「駒形下増田線」と「前橋市道00-330号線」の建設現場近況を掲載しました。
 その中で、隣接する伊勢崎市の区域で建設反対のポスター等が新たに増えていることにも触れ、「Go!伊勢崎」の掲載姿勢についても述べました。以下の文章はそのページに掲載した内容ですが、当ページにも転載しておくものです。




 「Go!伊勢崎」は、そのカテゴリの中で、伊勢崎市と近隣の建設事業を多く取り上げています。当ページの新須永橋の拡幅や道路新設工事もその一環での掲載です。
 当道路事業が前橋新清掃工場建設に伴う事業である事は掲載以前から掴んでいましたが、伊勢崎市民の住民感情的に過敏なこの状況下で敢えて掲載しているのは、「公共事業とは何であるか」を関係者だけでなく、広く市民が考えるいい機会であると考えているからです。

 道路や上下水道の整備、または公共施設の建設など、いわゆる公共事業は公共の利に供するための社会基盤の整備が主目的です。ところが、清掃工場や下水処理場、斎場などのいわゆる迷惑施設の建設の場合には、それが必要な施設でありながらも、ほとんど例外なく地元住民から反対運動が起こります。これらの所管自治体が建設候補地に悩んだ挙句、境界ギリギリの区域を選定するのは、管轄内住民の反対をギリギリに抑えたいためです。昔の家屋がトイレの事を「ご不浄」と言って、家の隅の方に追いやったのと同じ発想で、自分たちの権利区域の中でギリギリ遠くへ追いやる考え方なのでしょう。

 今回の前橋新清掃工場の建設地は、広瀬川や荒砥川を挟んだ対岸は伊勢崎市と言う境界ギリギリの場所で、前橋市に取っては南東端部の過疎地であっても、対岸の伊勢崎側は商業地および住宅地として発展目覚ましい西部地区で、また竜宮浄水場と言う水質的に監視が厳しい区域を下流に控え、景観的にも荒砥川や広瀬川の合流地点で自然が守られている場所です。
 このような状況下でこの地へ清掃工場を建設することは反対運動が起きて当然と言える流れですが、この背景には人間が共通に持っている本質的な気質が原因しているようで、解決は簡単ではありません。

 境界問題は今正に国の外交問題でも重要課題で、尖閣諸島、竹島、北方四島などは未解決でかつ難儀な課題です。お隣の韓国と北朝鮮の38度線では11月23日、ヨンピョン島で相互に砲撃を行い、世界中に話題を発信しています。
 地方自治体レベルでも、地元周辺を見ても、桐生広域圏の清掃工場(カリビアンビーチ)は旧赤堀町に接し(小菊の里)、波志江一丁目(私の町内です)の伊勢崎市斎場も旧伊勢崎市ギリギリの位置で、建設当時は旧赤堀町に隣接していました。当時も「霊柩車の行列を見たくない」と、建設地周辺には建設反対の看板が立ちました。伊勢崎市の新しい清掃工場も利根川を挟んだ対岸は玉村町で、平塚の下水処理場も伊勢崎市の南東端部です。
 もっと簡単に個人レベルで語ってみれば、宅地の境界にブロック塀や堅固な構造物を築造するのは自分の境界を守る理由が大きく、この意識が過ぎれば隣家の枯葉が落ちて来ても気になります。住宅地内の公園の紅葉は多くの人が「紅葉が綺麗だ」と言うでしょうが、「枯葉が家に入って来て迷惑だ」と言う人もいます。
 自己の権利をギリギリ一杯主張すると言う気質が人間にある限り、自治体や国とは言え、所詮は人間が治めていることなので、今後も永遠に繰り返す事と思います。それは有史以来の歴史を見ても明らかです。

 前橋市の新清掃工場の建設地決定がいつ頃、誰の考えで行われたのか調べていませんが、また、現時点で建設地が白紙撤回になるのか予想できませんが、「他人には迷惑でも自分の利を主張する」と言う人間の本質的な気質、これが今回の清掃工場の問題であり、残念ながら前橋市に限らず多くの場面で古今東西繰り返している事です。

 当サイト訪問者は伊勢崎市、あるいは伊勢崎市の関係者の方が大半だと思いますが、どこかには造らなければならない他の自治体の公共迷惑施設について、皆さんがどのように考えるか、あるいはひょっとして前橋市の関係者の誰かの目に触れて、その方達がどのように考えるか、その辺について大きな関心があることと、また、事業の背景はとにかく、新須永橋や下増田の地区内道路が整備される事は、伊勢崎の商業集積地に近接しながらも、2つの川に挟まれた過疎地のような場所だった地区に大きなインフラが整備され、それはそれで地域発展には寄与するのではないかと言う単純な視線があるため、当サイトではこれらの話題提供として掲載しています。



 「他人の幸せや利益を最優先にする」・・・このような社会がいつの日か訪れれば、外交も経済も上手く回るのでしょうが、果たしてそのような日が訪れるのでしょうか。


▲ページTopへ

2010/9/25(土)

難儀な問題、領土問題
うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる
うばい合えば戦争 わけ合えば平和

▲ページTopへ

沖縄の尖閣諸島沖で海上保安庁の巡視船と中国漁船が衝突した事件で、
25日未明、船長が処分保留で釈放され帰国したとのことです。



栃木県足利市に生まれた相田みつをさんの詩集「にんげんだもの」の中で、
わけ合えば」と言う詩があります。

一部引用させていただきますと

うばい合えば足らぬ  わけ合えばあまる
うばい合えばにくしみ  わけ合えばよろこび
うばい合えば戦争  わけ合えば平和


と言う詩で、読む度に納得してしまい、
自分の生き方にも大きな影響を与えています。



現実世界では、
親子兄弟、友人、恋人などの関係では分け合えることができても、
これを越えた関係では奪い合うことが多いのが現状です。
時には親子兄弟においても骨肉の争いを展開する場合もあります。
心の豊かさを失っても奪い取る方を選択してしまう訳です。

企業対企業や自治体対自治体などでは譲ることは稀です。
譲ったとしても何かの交換条件が付くのが落ち着きどころです。
ましてや国と国との領土問題となると譲り合うケースは余り知りません。



ロシアとの北方領土問題、
韓国との竹島問題、

今回の中国との尖閣諸島問題然りです。
日本が過去の歴史的史実を根拠に自国の領土であることを主張しても、
ロシアや韓国、中国はそれぞれの主張を続けます。
日本国民としては、他国の主張は理不尽なものに聞こえますが、
きっとそれぞれの国民も同じ感情を持っているのでしょう。

これらの国がゴネ得狙いや外交問題の材料として利用しているだけなのか
あるいは本心から自国の領土と考えているのか実態は分かりませんが、
難儀な問題です。

難儀故に決着が付かないまま歴史が過ぎ去り、恐らく今後も過ぎて行くでしょう。
洋の東西問わず、過去においては戦争の理由の大半は領土争いでしたが
核でバランスしている現代では、戦争での決着は考えにくいでしょう。
その代わりに経済的制裁が実行され、産業界への影響は無視できません。



中国政府は自国の種々の課題に対する国民のストレスを
外交問題をガス抜き材料に利用することがあるとのことで、
今回の尖閣諸島問題もその一例だと言う見解も聞きますが、
一般的には領土問題は領海の漁場確保、領空の空路確保、
あるいは地下資源の権利確保
など
いわゆる自国の権利を面的に押さえたいことが主目的ですが
各国が自国の理論で主張し合うので、なかなか平和的決着が付きません。

経済のグローバル化は進んでも領土のグローバル化は進まないようです。
陸続きのヨーロッパ諸国が
ユーロ圏として一つのヨーロッパ
を目指していますが、
領土問題は円満なのでしょうか。

このような状況においては相田みつをさんの詩も無力なのか
あるいはこのような状況だからこそ重く響くのか、
じっくりと考えてみたいと思います。

うばい合えば足らぬ  わけ合えばあまる
うばい合えばにくしみ  わけ合えばよろこび
うばい合えば戦争  わけ合えば平和



2010/9/9(木)

北関東自動車道の全線開通を控えて、
伊勢崎ICと波志江SICの位置付けを考える。


▲ページTopへ

北関東自動車道が来春のGW前に全線開通するとのことです。

未開通区間は太田・桐生IC〜佐野・田沼IC間の延長18.6km
全線開通を控えて、北関東3県はそれぞれに誘客合戦を繰り広げています。
群馬県においても、2010年9月3日付の「群馬建設新聞」によれば、
群馬県監理課が9月1日
はばたけ群馬・県土整備プランフォローアップ委員会』を開催し、
フリー討議で、北関東自動車道開通後の社会資本整備の方向性について
議論を行ったとのことです。



誘致合戦に関しては
マクロ的に見れば3県の競争あるいは連携になりますが、
市町村単位のミクロ的に見ると
高崎や前橋、伊勢崎、桐生、太田の競争や連携
になります。
これら5市にアクセスするICは、
前橋南IC、駒形IC、波志江SIC(*1)、伊勢崎IC、
太田藪塚IC、太田桐生IC
の6ヶ所のICです。
また高崎市は関越道と東毛広域幹線道路(国道354号BP)の交差地点(*2)
に「高崎SIC」を設置するとのことで、
これを加えれば5つのIC、2つのSICとなります。

(*1)SIC:スマートインターチェンジ
(*2)北関東高崎ジャンクションから南2.1km




全線開通に向けて各自治体が不安視しているのはストロー現象

『はばたけ群馬・県土整備プランフォローアップ委員会』においても
観光、物流といった面は欠かせないが、
とにかく本県を通り過ぎず、インターから下りてもらうことが大事

と言う意見が多数出されたとのこと。

ストロー現象とは、ごく簡単に言えば、
交通幹線網が開通すると、
吸引力の弱い経済圏が大きい方の経済圏へ飲み込まれてしまうこと
」で、
高速道路で言えば、利用者は魅力のあるICへ向かって走り、
途中のICは通過、あるいは流出してしまい、
開通によって発展するどころか衰退してしまう場合もあると言う現象
です。



先の会議では具体的に
前橋南インターチェンジ付近に、
高速道路を利用した日本海と太平洋の海産物を取り扱う施設をつくれば
集客につながる
」と言う意見も出たとのこと。

前橋南ICでは
当サイトでも紹介している前橋南ICショッピングセンターの建設が進行中で、
今年度内には第一期の商業施設がオープンします。
Bゾーンにはアメリカの会員制倉庫型店舗・コストコの誘致も交渉中とか。
現時点ではAゾーン、Bゾーンの総面積約23万平方メートルですが、
Bゾーンの西側にはまだまだ水田が広がっていて、
Cゾーンへの拡幅の可能性も大です。



ここでご当地伊勢崎市を考えてみると、市内および近接するICは
波志江SIC、伊勢崎ICおよび駒形ICの3ヶ所があります。
この3つのICに対して高速利用者が感じる魅力とは一体何でしょう。

波志江SIC開通後の利用者データの推移は当サイトでも紹介しましたが
波志江SICに関して言えば、土日祝祭日の利用が減少することから
平日の商用利用、あるいは通勤利用が主と考えられます。
伊勢崎ICと駒形ICについては利用者データを掴んでいないので、
主な利用目的は予想できませんが
休日の観光や買い物目的の利用者は少ないのではないでしょうか。



最近の観光の傾向は、有名観光地への宿泊客が減少し、
海産物や産直野菜、グルメ店が集まっている道の駅へのドライブが人気
とのことで、この観点からすると、
有名な観光地を持たない地域であっても、十分に商機があります
近隣では「ららん藤岡」が産直野菜等の話題で良くテレビに登場し、
2009年に「関東好きな道の駅」の人気投票で1位に選ばれていますので、
成功した好例でしょう。

この辺の施策を立て、整備を進めたICにどんどんお客が集まり、
その結果、吸い出されてしまったICの経済圏が徐々に衰退していくこと

例えば、前橋南ICが整備されて誘客に成功し、
太田・桐生IC辺りも何らかの整備を行った場合、
途中の駒形、波志江、伊勢崎、藪塚辺りのICが
ストローで飲み込まれるように既存の力も吸い出されてしまうと予想すると、
ちょっと不安です。



伊勢崎ICは三和工業団地と言う工業立地が主目的ですが、
波志江SICにはPAもあり、すぐ北側は波志江沼環境ふれあい公園に接し、
PA周辺にはまだ農地が広がっています

現時点でもPAの北側の道路沿いには広い空き地があります。

以前、波志江PAには日帰り温泉施設や農産物や農業関係施設がつくられ、
波志江沼環境ふれあい公園とPAを繋ぐ歩道橋が架けられ
付近一帯がアミューズメントゾーンとして整備される
と言う計画を聞いた事があります。

その後改めて聞く機会もなく、
この不況で白紙に戻ってしまったと予想していますが、
北関東自動車道の全線開通を控えて、
周辺の自治体が積極的な動きを示すと、
我らが伊勢崎市が取り残されて行く
ような、
そんな不安で寂しい気持ちになります。

他の自治体の動きを手をこまねいて見ている間に
好機を逃してしまったと言う事にならないように
切に願っています。



▲ページTopへ

2010/8/29(日)

街中の空き地の草むしりを続ける年配のご婦人
井戸端会議の中から垣間見る街中の問題
解決は共存共栄の精神か

▲ページTopへ

昨日、いつものように街中をブラリサイクリングしていた時、
元西友の南側のホテル建設予定地だった空き地で
年配の小柄なご婦人が
腰をかがめて草むしりをしているいるのに目が止まりました。
この土地の地主さんか関係者かと思って
「きれいになりますね。地主さんですか」と声をかけると
「いや、違うんですよ。この辺に住んでるんだけど、
街の真ん中に雑草がはびこっているんじゃみっともないからね」と。
私も予想外の返事にビックリして
「あ、そ、そうですか。ボランティアで草むしりを・・・」
「そんな、ボランティアなんてかっこいいもんじゃないです。
息子からは『頼まれもしないのにみっともないからやめろ』
って言われるんだけどね」



そのむしり方はとても丁寧で見事で、
小さなスコップを雑草の根っこの部分にグサッと刺して
その後、草を掴んで根っ子に付いた土をバタバタと落として
むしり取られた雑草には泥が付いてなくて
「きれいにむしりますねぇ」と感心すると、
「泥付きのままじゃ、雨でも降ればまた生えて来ちゃうからね」

この場所、当サイトで以前「ABCホテル建設予定地」として紹介した場所で
敷地面積は1,137平方メートル。

「ホテル建設は中止になってしまったみたいですね」と問うと、
「不景気で不動産屋さんがつぶれたらしいねぇ」と事情もご存知のようで
ついでに持ち主の話なども伺いましたが、
建設中止理由や持ち主の事情は兎に角、
長い間街中の空き地が草ぼうぼうで放置されるのは歓迎できません。
それを誰に頼まれるでもなく草むしりを続けること。
ご婦人に年齢を聞くのは野暮なことと控えていると
「息子たちはみんな外へ出ちゃって、たまに一家で里帰りするんだけど、
息子たちもみんな還暦を過ぎてねぇ・・」
息子さん達が還暦を過ぎたと言う事はひょっとして90歳に近い?

その年配のご婦人が腰をかがめながら
街中の300坪を超す空き地の草むしりを行っています。
しかも誰に頼まれるでもなく。
何日前から始めたのか聞くのを忘れましたが
既に3分の1くらいを終えています。
「最後までおわる頃には最初の場所からまた生えてきちゃうんだけどね」
とそれもまた仕方ないことと、気にしている様子はありません。

「坐ったり立ったりで腰とか痛くないですか?」と伺うと、
「平気ですよ。運動になってかえっていいみたい」と。
素晴らしい!素晴らし過ぎます!
還暦を1年過ぎたばかりの私など、ちょっと腰をかがめて作業をすると
立つ時に「お〜、イテテテテッ!」
としばらく腰が曲がったままになってしまうので
恥ずかしいばかりです。(体重を落とさなければ。)



話は色々と広がって、いよいよ井戸端会議へ。
息子さん達がお盆やお正月に家族連れで帰って来る話、
街中のホテルの意外な存在理由や、
故郷を離れた子どもたちと故郷で生活し続ける親の関係、
街中にはそんな家庭が多い事、
そんな中でも築かれている親子の絆のこと、
世間話でありながら、今の社会の様々な問題を考えさせられる話でした。



その中で印象に残った話を一つ紹介します。
それは街中にあるベイシア伊勢崎店のこと。

私が「高齢化が進み、街中のお店が撤退してしまうと
車に乗れない街中のお年寄りたちは不便しますよね。
『買物難民』なんて言葉もあるようですし」と話すと
「そうなんですよ。西友も閉じちゃったし。
だから私ら年寄りたちは、ベイシアが撤退しないように
何でもかんでもベイシアで買おうって言ってるんですよ。
実際、一年中いつでも安く打ってるし。
若い人たちがあっちが1円安い、こっちが5円安いって車で出掛けるけど
ガソリン代かけてればどっちが得なんだかねぇ」

街中の大型店舗が経営的判断で徐々に撤退して行く事、
進出するのも撤退するのも経営側の自由な判断でしょうが
その判断の中には、
その街がその店舗があることを前提に整備発展して来た事への配慮は
少ないんじゃないかと思っています。

存続を賭けた会社の判断に口をはさむ事はできませんが、
交通弱者は過疎地だけじゃなく高齢化によって街中にも増えています。
既に「買物難民」などと言う言葉も生まれて、
コンビニやスーパーがデリバリービジネスを始めている話も聞きます。

住民も商業施設や医療施設も
共存共栄の姿勢を前提に
健全な街づくりのメンバーとして寄与貢献したいものです。


2010/8/15(日)

終戦記念日のこの日、現在の状況に感謝し
それを支えてくれた過去に深く感謝したい

▲ページTopへ

私は昭和24年生まれの団塊の世代。
7男2女、9人兄弟の末っ子です。
すぐ上の兄と私が戦後生まれで他の7人は戦前の生まれ。
父は明治41年、母は明治44年の生まれ。

父の出兵先は内地で、私が父を通じて知った戦争は
父が着用したカーキ色の軍服
形がいびつに凹んだ古びた水筒、飯盒などを
家の納戸部屋で見た記憶がある程度で、
父から詳しい戦争体験を聞いた記憶はほとんどありません。
父も上の方の兄達には色々と話したようですが
末っ子の私じゃ物足りなかったのか、兄達へ話すだけで足りたのか
父が亡くなった今では確かめようもありません。

ただ、子どもの頃、家の裏庭に防空壕が残っていて、
用途を失った防空壕に入って無邪気に遊んだ記憶が残っていて
これだけがかろうじて戦争に触れた体験です。



そんなことで、私の戦争の情報源は
小説やドキュメンタリ、漫画や映画等が主でしたが
生々しい感覚で戦争を感じたのは旅先での体験でした。



一回目は沖縄旅行。27年前のことです。
南国気分を味わいたいと言うシンプルな理由で家族で訪れ、
沖縄のあちらこちらを観光して回り、
その中で沖縄の南部戦跡を訪れたのですが、
その場所は大勢の民間人を巻き込んだ沖縄戦の悲惨な痕跡。
観光コースと呼んでしまっては、
戦死者を冒涜していると思わざるを得ない厳粛な場所でした。
吉村昭の「殉国」を読んだのが旅行の前だったか後だったか覚えていませんが、
沖縄戦の史実をリアルに表現した「殉国」と南部戦跡の見学は
私が実感を伴って戦争を感じた最初の体験です。




二回目はサイパン旅行。21年前のことです。
ハワイ旅行気分で社員旅行で訪れたのですが、
マニャガハ島ツアーの往路で見た海底に沈むゼロ戦
帰路で見た海底深くに横たわる日本戦艦の巨体
島の北端のバンザイクリフ
米軍に追い詰められた日本兵や民間人が、
「天皇陛下、万歳!」と叫びながら身を投じたという断崖絶壁

その近くに残る塹壕には砲撃弾の跡が残り
島の何ヶ所かには壊れた大砲や戦車が残されています。
バンザイクリフではるか北方の日本の方向を向いて立ち、後ろを振り向くと、
そこには断崖絶壁がそびえ立ち、名前をスーサイドクリフ(自決の断崖)
やはり米軍に追いつめられた日本兵や民間人が
多数身投げして自決した場所
です。
断崖絶壁の下はジャングル状態で、
当時の説明では遺骨収集は全く進んでいないとのこと。



三回目は義兄が父親の遺骨収集団に参加した時の話。
義兄の父はパプアニューギニアのマナス島で戦死したのですが
マナス島では全員が玉砕だったとのこと。
ロスネグロス島が玉砕し、生き残った将兵がマヌス島へ移り山中で抵抗を続け、
最後は全員玉砕したとのことです。
ラバウルへ移った者たちは多くが生還したとのことで、
義兄も「父もラバウルへ移れば生きていたかも知れない」と。

遺骨収集団が案内された場所は山中のじめじめした湿地帯のジャングル
将兵たちの多くは最後には病気や飢えで命を失ったようで、
義兄が慰問団として現地に足を運んで望んだのは、
義兄の父が銃弾一発で命を落としてくれていたろうかと言う事。
この地で病気になって飢えて死んだと思うと、可哀想で耐え切れない」と。
動けずに死んだ兵士たちの手の届く範囲の雑草はきれいに食べ尽くされていた、
と言う話が、現地の最後を裏付ける話として余りに重過ぎます。



広島や長崎を除けば、
日本本土では見る事の少ない戦争の爪痕。
それを皮肉にも沖縄や海外で接し、戦争を実感した事。



戦後65年が経つ今、戦争の話は年々風化しつつあります。
戦争を語り継ぐ人々も年々減っています
長引く不況で先が見えない不安感に包まれている日本ですが
敵の砲撃に怯え、病気と飢えと闘い、
雑草を食べて飢えをしのがなければならない人はいません。

今の日本の状況が平和であるという認識、
またそれが多くの戦争犠牲者の上に成立していると言う認識

多くの日本人から消えつつある認識でしょう。

常に成長、発展を目標として前進する事は人類史上、不変の流れで
それを否定しては多くの価値観を壊してしまうでしょうが
終戦記念日のこの日、現在のこの状況に感謝し
それを支えてくれた過去に深く感謝したい

と改めてそう思うところです。





Site view counter since 2006/9/17

▲ページTopへ