Go!伊勢崎
近 藤 藏 人 美術館
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近藤蔵人 が 想うこと
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僕らのいわゆる内面というものより、世界は美しくある。
脳科学者である茂木健一郎さんは、石ころでも空でも
空き缶でもとにかく万物は生きているということを
描くことが出来ればきっとその絵は名画になるだろう、という。
風と熱と土と水とで成り立つこの世界には
悪意は存在しないということだろう。
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■感覚と充足■
仏教にもキリスト教のように宗派が多数あり そのなか 原始仏教に最も近いといわれている上座部仏教 後に大乗仏教が小乗と揶揄した宗派だが 座禅の組み方を判りやすく解説している。座する前に右手を上に上げてそのまま水平まで降ろすとき 下りる手に感覚を集中してそのまま腕をおろして座禅とする。無心になるとは意識をなくすことではなく、感覚に集中することらしい。そうして 有象無象を想念することなく感覚だけに頼ると気持ちが晴れやかになり悟りへの一歩となるようだ。
そうか まず 手始めの座禅とは考えることをやめられない人に(そのほとんどは 自分の思うとうりにならないことをどうしようと考えることのようだが)、無心や無になりなさいと言っても無理なので 感覚を正面にすえることにより意識をスミに追いやることなのだ。感じることに集中すると 常に思い煩っているシナプス回路が途切れてくるのだろう。
だが これは 座禅だけの技ではないのではないだろうか・
たとえば 魚釣り 来週の支払をどうしようと時には意識に上るが たいていは 竿と竿先と糸と針に集中している。えさが水中を漂い底にかすったり流れに漂ったりする様をかならず想像できないと釣りとはいえない。感覚だけの存在と化す時間がほとんどだ。そのせいで 釣行のあと晴れやかに仕事に励めるのだろう。仙人が淵に腰掛けて竿を出している図があるが仙人とは霞を食って生きていけるが 彼らは竿と糸とをアンテナにして宇宙と交信しているという。宇宙とはばらばらなものが時々衝突する空間だそうだが魚が釣れることも衝突の一種なのだろう。
また 美術展でカラバッジョなど見ると帰りの電車が心地よいのは 作品の質の良さは当然だが リードのいう作品を見るときは無心でなにものの思い込みも持たないで感覚だけに頼りなさいということであるのではないだろうか?
感覚が作者の感覚と触れ合って作者の生きているその存在にふれるからなのだろう。そのときには カラバッジョがそこまでやってきて描いたもののいちいちが私たちに交信してくるのだ。
絵画はつい意識でみがちだが 音楽にいたっては 音には固有の言葉にはならない作者の息づかいや悲しみが伝わるがそれは 作者の恍惚 愉悦を通して現れ(もはやそこには意識は存在しない)われわれは そのなかから脳のどこかを通ることなく直接こころに響いてくる。
かくいう さほどに 感覚は人には重要な機関である。
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■恋しき石器時代■
冒険映画の中にジャングルの奥地に探検に出かけると真っ黒な体に赤や青の色を塗り、頭には鳥の羽根、首には骨や貝殻の飾り物 何十人もの飛び跳ねたり闊歩したりして 儀式を執り行っているというシーンがある。中央には焼いた鹿の肉、なにか得たいのしれないものへの畏敬とそれへの同調なのだろうか?、村中が集中して獲物の死と食することの感謝を祈っているのだろういるか?
彼らは 数十人規模で集団生活を営み、女子供は芋やら食用の草を採集し、男は狩に精鋭が選ばれる。弓やらヤリでとどめを射すもの、逃げないように左右を守るもの、突進して向かってきたとき押しとどめるもの、そして それらを指示するもの などに分かれて何時取れるか知れない獲物を捜し歩く。数週間の末一匹の鹿が取れると、男たちは肩に担ぎ意気揚々と帰途に着き村では聞きつけた者たちが収穫の喜びを表す。生き続けるために必要なタンパク原が村中のものにいきわたると戦士たちは祝福される、。彼らは自分の為に狩をするのではなく、村のもののために狩をする。
サッカーで最も不思議なことは アウエーとホームという概念のあることだ。
ほとんどのゲームや競技は勝つことが目標だが、サッカーだけはアウエーでは引き分けで十分なのだ。嘗てタイに遠征に出かけた日本の英雄海老原やフャイチィング原田は引き分けなど負けと同じと考えていたはずだ。
ホームでは勝たなければ観衆は怒りを表す。また 勝つようなモチベーションで戦わないと、ビンやらが飛んでくる。だが アウエーでは相手に勝たせればよいと見間違うほど、守備に専念している。観衆のための競技なのだと思う所以である。観衆が同族である限りにおいて。
コンクリートジャングルの中、地面から唸りがおこるような怒声や、歓声がおこる。それは 頭に色とりどりの羽根や被り物に、顔や胸にペイントした老若男女が自分の国のチームを鼓舞したり怒鳴りつけたりする音だ。サッカーのワールドカップはこうして先史時代を再現する。観衆の中狩猟する戦士は獲物をボールに変え、収穫をゴールという概念に変換しているだけである。
何十万年という狩猟採集期間が体内に記憶として残っていても不思議でない。目から出る涙が鼻からでるとは魚類が余剰塩分を排出する仕組みとして残っているのだから。、食うという行為が快楽であると同時に狩猟行為が快楽なのは自明なことである。サッカーは狩猟をゲーム化することで人として最も根源的な食うということに結びつけられるからこそ、最も多数のファンが存在して、もっとも強烈に歓喜できるのではないだろうか。
スポーツは突き詰めれば肉体が行うもので センサーや指令は脳が行うとしても、あ!痛い と棘に刺さった指を動かしたときは、脳が指令を出す前に指は離れている。競技もそういう面があるので脳優先とばかりは言えない。
先史時代以前からの生活の中にある戦うという本能は、人が大脳辺縁系や原始脳といわれる部位があるかぎりなくなりはしない。しかし 文明が戦いを野蛮なものとしたとき、ルールを制定してスポーツとして生き残った。そんなスポーツの中 野球は一振りで4点取る特別ルールによって狩猟を連想することは出来ない。言えば資本主義社会の一獲千金を創造させる。そのところに地球規模で親身になれない理由ではないだろうか?
この大会でイングランドのオーエン選手が怪我をして保証金が支給されるそうだ。週給2000万円と新聞に乗った。ということは 月給では?と余計な計算をしそうになるが オーエンが広大な貴族の土地を買い そこへ親戚の邸宅を建てバカンスには親戚友人一同で出かけると耳に挟んでいるが、彼ら サッカー選手は上記の意味において我々の代表であり、儀式としては神子ともなり、懐かしき 野蛮時代を彷彿とさしてくれる呪術師であるのだから、村上何とか堀江なにがごく個人の私腹の為と道理が違うのでサッカー選手が妬まれることはものを知らない輩の考えることである。
「人の幸福は野蛮に由来し 人の不幸は文化に由来する」という
野蛮なるものが自然全体を指し。文化なるものが人が作ったものを指すととらえると分かりがいい。 われわれは季節ごとに花見をし、海水浴に行き、山に登り、紅葉をめで、冬になるとスキーをし、温泉を愛し、釣りに耽溺する。都会に辟易したとき かのような行為にこころの落ち着きを求める。
実は 人類は意識上都会や人口を愛しているが、意識の下無意識では石器時代に憧れを抱いて生きているのではないだろうか?人工的なものの中だけで生存は、例えば人工衛星などの中で一生暮らすことを考えれば発狂しそうに思える、
そういえば 宇宙から生還した人たちは宗教に敏感になると聞くが、それは 人工な空間とそこから見える宇宙空間や地球との格差が大きすぎて 人口空間に耐えられなくなったとき 見える自然を過大評価した結果宗教的になるのではないだろうか。
中田選手がサッカーをやめるとメールにある。彼のサッカー感から考えるとしょうがないとも思える。スカパーを契約して初めて見た試合のユベントス戦の二点でまさにとりこになった僕には残念であるが。彼もその試合のような戦いを希望したはずが、ローマでボランチ役に戸惑い、ついにはその役をこなせるようになったら、ただ走るだけかよ!と判り、学生のころ何シーン先まで見えたあの感激もなくなり、代表では覇気のない日本人に悩まされ、要するに自分の希求するサッカーから離れてしまったのだろう。しかし サッカー界にいる限り神子であり続けるが離れるとただの人になることは避けられない。
そういえばベルカンプも数タッチ先まで見える そのとうりにボールが動く快感のことを書いていたが、この大会のブラジル戦誰も言わないが、サントスが玉田に好パスを出し玉田は二アサイド上にシュートを入れた。そのどれもが美しいものだが、転びながら右足で振り切った稲本のディフェンダー二人の間を抜けていくパスに驚きを感じる。何であんなパスが通るのだ!とね。
呪術師たる由縁だね。
獲物を追い込みとどめを指すフォワード、左右に逃げられないように追いかけるサイドバック、突進してきても押しとどめる屈強なディフェンダー、そのものたちに指示をだし 矢やヤリを補給するジダンたち そんな空想を起こさせるサッカーという石器時代の残響
「われわれは誰にでも恋人がいるその恋人の名はノスタルジー」狩好きのへミングエーの言葉です。先のフランス対ブラジル戦が終わってフランスのフォワードアンリがライオンと戦った我々は完璧な守備だったと語っている。
このとき初めて我々のために戦っている神子であり戦士であるサッカー選手は同族の誇りとなる。美しきステップ、未踏の地へのスルーパス、頑強な体躯、無回転の揺らめくシュート、サッカーがミスの連続で成り立つものであっても
その一瞬の身体の動きが美しければ 我々は怒涛の歓声をその選手に届かせるだろう。我々のたんぱく質のために起こした行動が、我々の記憶の只中にある歓喜を呼び起こしてくれるのだから。
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■象徴力■
よく言われていることだが 政治経済は女子供の考えることと、しかし これは とんでもない言い草で 生命継続の為には誰でも必須事項なのである。だから 特に女子供ということはないはずだ。
全ての生命は 政治経済によって生きていけるから 人もそれと同等だということである。
アマリリスが野原に咲いているとしよう 大木の根元に咲くか 草原の中に咲くかは純粋に経済のことである、太陽と地中のエネルギーを必要とする彼女達にとって どちらが効率が良いかは長年の計算の結果なのだから、その上 大木が太陽熱の吸収上邪魔者になれば 上手く蜂を使って次の世代には広々とした草原に移動するだろう。そのとき 蜂を引き寄せる政治力学を使用しても アマリリスの悪徳にはならないだろう。
ことほどさように 魚類にしても 爬虫類にしても いわんや高等霊長類にしても 政治経済から 逃れられるものは存在できない仕組みになっている。
酒場でも 社内でも 日に日に変化する株価に一喜一憂することに 恥ずかしさなど持つ必要はないのである。首相が参拝するとか 北の国に怒りをどういう方法で表現するかはそれぞれに 解答を手探りで見つけ出さなければならないのである。全ての生命の宿命なのだから。(だから 小林秀雄は 生活が大変なのは そんなのは当たり前だよ だから 口に出すほどのことではないのだ と知らん振りをする)
でも 考えるに 全ての生命の宿命だとしても 人にはその 考えるとか想像するとか その他の生命に持ち合わせがないある特質がある。人と猿の違いは 人には象徴することが出来るという。その気質こそ人としてあることなのかもしれない。
それでは その象徴する能力を生かすにはどうすればよいのだろうか?
例えば 音楽家モーツアルトが奏でる音色には 政治経済で得るとくとは異なる美しさという感慨にひたれるし。17世紀の画家ラツールの荒野の洗礼者ヨハネの表情にある静けさには 世界は考える者には喜劇となり 感じる者には悲劇となる とウォールポールが言った感じる者の充満に心打たれる。
表現者として 彼らになるにはまず不可能と思われるが 感じる者として彼らを味わうにはすこしの学問で足りるのである。
文学者が世界の普遍を探り当てようと、時代の鏡を見つめようと大多数の時間を思索にあてるが 我々生活の民にも前提をくつがえすという考える行為は必要なのだ。
嘗て 大家族時代テレビや洗濯機や炊飯器と三種の神器といわれた便利機械が発明されてそれぞれの大家族に行き渡ると もっとより多く販売するにはと資本主義の頭脳がニューファミリー戦略を編み出し次男だけでなく長男までも自立して家庭を築き ファミリーごとに三種の神器が飛ぶように売れたのだ。そして 喜んで購入した新家族は大家族というわずらわしい生活から逃れて心底ほっとした。そののち ニューファミリーに行きわたると 一家に一台でなく一人に一台と戦略を変えニューファミリーは幸せから個性は大切戦略に移行して部屋ごとの電気製品を販売することに成功した。
これらは どこにでも起こるごく普通の政治経済行為であるが いつかは感知するとしても早くその戦略を読み取ってその前提から離れたいものだ、それが考えるという行為の一部分である。
人はどういうふうに成り立っているのか?
生き死にとはどういうこと?
自然はひとにとって何なのだろう。
狂った人間はもう狂わないというが そのものたちと同じように狂わざるを得ないのか
写真を撮ると魂を抜き取られると恐れた民は全ての物に魂が宿っているのだから 写った写真に魂が有るとするとその魂は被写体から移動するので ようするに抜き取られると思うのだ。山川草木すべてに仏心あり。とはよく言ったものだ。その考えでいくと アルタミラの洞窟壁画は世界にあるバイソンなどの神聖でかつ食物ともなる魂の呼び寄せであると思われる。
ひとであるとはさて こういうことであることだと私は考える。。
政治経済は動物的であり 人的であるとは 政治経済から一休みする時という。
やはり 政治経済は動物的である女子供とお似合いだ・・・・・というと波風がたつので
一括して ひとであるには象徴力を十分使うということに尽きるのではないだろうか?
そうでないと いくら高等な教育を享受していても動物的行動にあくせくしている限り人とは呼ばれないし 人としての感動も味わう事が出来ない。
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■春■
まだ 底冷えのする3月の朝 犬が臭いを嗅ぐ道草の中に 紫の小さな花が数個咲いていた。両側が堰堤の川の淀みに3,40センチもある鯉が上流に向かって尻ビレをゆるやかに動かしている。3月は例年まだ雪が積もることがあるのに 小花も鯉も大丈夫なのだろうか?濡れた雪の重みと冷たさに花は しおれ、鯉も冷水に腹を見せて目を大きく開け口をパクパクさせないだろうか?
2月のふとした あたたかさと 3月のそうしたあたたかさには 違いがあるのだろう。
間違いなく 3月には 生命の息吹がそこここに現れる。そのうち 何割かの命は早く目覚めすぎて一瞬の命を散らせるのだ。
もうすこし 本格的に暖かくなって目覚めればよいものを ほんのちいさな兆しに反応する命に 何を見つけて柔肌を厳しい残り冬にさらすのだろうか?と考えていると
昨年読んだ イシス最期のインディアンの彼らの生活を思い起こした。
秋にタラフク食べ 蓄えられるものを 身辺に集め これからの長い冬に備える。
その 蓄えものも なくなり 今か今かと狩や木の芽の採集に出かけられる日を待ち望む。体は痩せ細り2月の太陽 3月の香りを嗅ぎわけ 雪がとけたある印の日 一人一人と野原に狩と新芽をつみに出かけるのだ。
彼らは 空を見つめ印の日を待ち焦がれているのだ、それは 食料が乏しくなった1月の中ごろから 毎日 春よこい 春はいつか? と 木々に問い 川の流れに訴え 太陽に願うのだ。春はいつになったらやってくるのか?と・そのとき 星たちは間違いのない春の到来を知らせる。夜 凍てつく足もと きらめく星の話し
我々 が 石器時代を思い起こしても 冬と春の関係は これらのインディアンと変わらないのだろう。待ち焦がれる春なのだ。
春は最高のめでたさなのだ。
その 待ち焦がれる気持ちは 人々だけでなく どんな生命にも同じようにあるだろう。
紫の小花は 2月の末から一日たりとも来る春を願わなかったことはないのだ。
息も絶え絶えになるかもしれないその鯉は、上流から流れてくる雪どけ水に過敏に反応して 山は春だ もうすぐ虫たちが流れ落ちてくるぞ、と刻々の変化を感じ続けているのだ。
気温の変化で もう一度寒い冬がぶり返してきても 待ち焦がれるきもちに あせりはつき物なのだから 生死の堺は 食わずに餓死するか それとも凍死するか それは めでたい春を待つものたちの全ての 選択肢なのだろう。
僕達文化人は お正月もマンネリズムに陥り口先だけの おめでとう に 春も夏も秋も同じものを食べ、美味さ不味さに口先だけで興味を示し インディアンが食べたその春の一番最初の新鮮な木の芽にも 感動することはない。
季節を感じ続けること
到来する季節を味わい めでたさを満喫すること
インディアンは 何ヶ月ぶりに摘みたての新鮮な葉っぱを食べたのだろう。
春のめでたさは 一年の中でも 最も大きなもの
あけましておめでとう。はようよう迎えた生命の息吹の春のコトなのだ。
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■質感■
平成16年2月8日神子本釣行
北風が吹き荒れ 4日間渡船不能だったそうだ。釣行予定の日 連絡すると明日は渡船するという返事。用をすませ 昼過ぎ伊勢崎を出発、夜遅く下田の南 田牛の宿に着く。 神子本島は伊豆 下田から高速船で南西に走り 嘗ては人家あったそうだが 今は 白い灯台が 樹木のない荒れた赤茶けた岩肌の上に立っている。早朝 下田より船に乗る 昨日までの強風の余韻があり そと海はうねり高い、 甲板に水しぶきが入り込み足元に溜まった水が右往左往する。ときおり 船底空中に飛び跳ね どしーんと着水 そのまま 壊れてしまうのではないかと 生きた心地がせず 眠気もさめる。物事は起こった事実が大切なのでなく その味わう質感にこころが染みるのかもしれない と船中40分の行程にぼんやり思う。 波頭が舟より高く泡だった壁が目の前を過ぎて行く。これでは船頭にはなれない。
神子本は風吹きすさび 水温冷たくそのせいで 魚食い気ない。13.5度だと船頭叫んでいた 棚深く探ればいいと 船頭 客に教える。
水温が2度下がったそうだ、急に温度下がれば 魚自分の体温もその分下がるので一時の冬眠状態になってしまう。(急に上がると 熱中症にでもなるのか やはり食いけがない、それも 時とともに活性する)
それでも 釣り止める気なく 撒きえのタイミング 潮の方向 強さ 錘の調整 底立ちなど調整する、その間も 後方から 容赦なく隙間なく風が走り抜ける。
一度の当たりなく 幾時間過ぎる
足元にせっせと撒きえ打つも いつまでも音沙汰ない 右前方の小島の赤い上着の釣り人
磯替えの為 船に乗り移り 潮の上のもっと小さなふきさらしの磯に上がった。
波が白いしぶきを上げると 風の力でしぶきだけ 海面を滑っていく
釣りの友が 釣り場を移動して 左横にやってきた その時 穂先が水中に引き込まれる あわせると糸の先の獲物は 反転して水中に逃げ込もうと尻尾を振るが 重さのわりに勢いがない だが 重い! ずしんずしんと 竿に力がかかる 竿立てると 潜水艦でも釣れているようにゆっくり近づく だがすぐ 締め込みが来て 竿先水面に引きこまれる 糸数メートル出す 潜水艦は動きが止まる 竿と魚の力の平衡点だ 満月の竿を持ち上げると徐除に上がってくる 何回かくりかえす 竿下で釣っているので 道糸の出は少ない 魚体現れる 赤い! ブダイだ!と友言う それにしても 重い 水面に現れた魚は 頭にこぶがある カンダイだ!と僕声を出す 僕の玉アミでは入りきれない 友 今回 潔く 玉アミ持ってくるから 泳がしていろ と声かけ 大物用のアミですくうも 折れそうになるので 玉網ごと引き上げて抜いた。
磯に上がった そいつは 狼ではないが 強烈な歯形をしている。歯並びがわるく とがっていず 小さな小指のような すきっぱが一寸ほどの長さで数本ならんでいる これは 大魚も 小魚も食えず 海草は切り取れず 貝専用の歯並びだ だが 指でも挟まれようものなら 穴が開き 骨までつぶれそうだ(後日 腹をさくと 貝殻だけ少量入っており あれほど念入りに撒きえしたオキアミは一匹もみつからなかった だが 僕の針には オキアミが付いていたのだ、多分 海底にへばりついて自然な状態でいたオキアミを不用心にも飲み込もうとしたのだ)
下田に帰って つれない他の釣り人尻目に計測すると5.3キロ。63センチの頭と額が突き出たカンダイだ。彼らうわさによると にごった時は穴から出ず 透明でまわりの景色見渡せる時のみ泳ぎ回る、敵を遠くで確認し急な鉢合わせをしたくないのだ 食味でもわかったが 快速の泳ぎがにがてなのだ。その為 鯛のさしみを4.5日置いたように柔らかな身だ。貝を食すにはその程度の筋肉で十分なのだろう。
これで 1ヶ月か二ヶ月もつだろう。その程度に狩猟をかかすべきでないと思っている。 いちいちの質が心にあふれ そのあふれによって溜まった不純物や毒素が流れ出すように思う。[人の不幸は文明に由来し 人の幸福は野蛮に由来する。]というが 文明によって本来の生命力を隠されたままの生活が続くと 人は野蛮に憧れる。その野蛮の表れは様々だ。
破壊にも創造にも力を発揮する。もし破壊に現れるならわが身を恨まねばならない。
人は 機能を喜び、量を求めるが 恋する人をその基準で決めただろうか?キレイでも恋する人にはなりえないときがある。相手の質に恋するのではないだろうか?なんともいえない恋したい質感がそれぞれにあるものだ。それは 感じが良いとしか表現できなかったものだ。その他のことは付属物でしかない。
芸術は物語だとか、メロディーによって質を表現することで始めて芸術といえる、名人に演奏されて始めて質があらわれ 流れる時間のなかの音楽の魂が聞き手の心に怒涛のように迫ってくる その時メロディーもリズムもなく作曲者と演奏者の思いだけの世界が表れる。絵画においても あるものがあるものとして画面にあってもあるものの質が描けなくて 人を感動させることはないだろう。すすきをなびかせるさわやかな秋の風であったり 幼子の将来を思って悲観にくれていたり 釈迦の涅槃に動物たちが集まってあるものは 空に向かって吠え、あるものは 釈迦の足裏を舐め その不在をなげくそれらの「質感」に感動するのだ。
認知学では クオリアが こころを解き明かすカギになるのではないかと クオリア【質感】の研究が行われている。質感が心のありかを知らしめる。 波間を漂う船のなかの不確かな生の質感。 風が吹きすぎる 空気の質感。 波 小島 この足元の岩 それらの中にたたずむ天から地上までの質感 。竿にごつんと響く魚の動く質感 魚と細竿でやり取りする魚への質感。 むなびれの後ろにスイス製アーミーナイフをスーと刺す,かんだいの全身をそりかえらせる力でナイフが折れる その手許と折れた瞬間のかんだいの丸い視線大きく開けた口の真っ白な歯 。それらは 脳が感じる こころといえる部位の感覚 その部位の充足する生存感 その部位が 存在する足がかり:科学が相手にしなかったそれぞれの主観
質感には ひとを寄せ付けない質感がある。それらは 多分 人工物で長年の記憶にはぐくまれていない物だ。(切れやすい人の 少しの理由に 自然のものでないものに囲まれた住居のいたたまれない質感による 苛立ちがあるのではないだろうか?)
インディアンの写真に写る表情は厳しい自然の中生きつづけた者がもつ質感にあふれている あの老木の表情と似たものだ、屋久島に育った杉は天候不順に幹はこぶだらけで皮には幾万のしわがより空中そびえるまばらな葉とあいまって まさに インディアンの浅黒く皺だったほほ肉と同質のようだ、蓄えた食べ物の切れる冬の終わりはやせ細り つぼみが膨らみ始める春には野山に食料の採集や狩猟に行動しだす、ただ 厳しい自然の過ぎゆくままに厳しいだけで、現代人の苦悩とはかけ離れたものだと思える、かれらの質感とは狼や熊が感じる質感とさほど変わらないのだろう。自意識があるか ないかだけの差だと思える。そして それが われわれ人類の忘れられない記憶の奥深く潜んだ大切にしたい質感の元になっているのだと思う。全てが対等な時代のことだ。それが 何万年も続いたのだ 。鹿と婚姻を結んだ花嫁の子供、雌と幼子は親戚のよしみで 殺さない決まり。木や草花と話をし 大地をくわで傷つけることなど出来ないという。 それは 母親の体にナイフをあてるのと同じだと耕作ヲなさないので蓄えはなく動物たちと同じ繁殖数(人類の原罪は農業にあるという研究者もあるほどだ 貯えることによって起きる様々な出来事を想像する)
若者よ労働するな!と言う 狩猟は労働ではないようだ かの王侯貴族の唯一の楽しみが狐狩りであったように。
(浅草 浅草寺境内の幾本かの木は、戦火に犯され うろは火にあぶられ 人に毎年枝払いされ 土と言える場所はその根の数十センチ周りだけで 怨念がただようようだ 人と同じに いじめられ続けるとその性質が宿ってしまうのだ。すくすくと育つということと その差は見れば解る)
南米の先住民族 白人の調査にかりだされ 何日もの野山の移動の途中 有る日太陽が昇り始めても動かない。 その理由問うと 早く歩きすぎて 心が付いてこないので 心が追いかけてくるまでしばらく待っている と言う。その数人の者集まって何をするでもなく 途方にくれて座っている。( 旅行に行った朝 いつものように食パンのヘタを残す 何故残したのだろう?犬は自宅にいるのに 犬が側に座って最期のパンの一切れを待っている光景を思い起こす。毎日かかさずヘタを楽しみにしている我が家の犬は着いてきていないが ぼくの心が自宅にまだ居ると言うことか?。) 沖縄では失神した者の魂を路上に置き忘れたと探しに行くそうだ これは犬にでも食べられると大変だということだ。
こころが 追いかけてこれないほど遠くへ早く走ってしまった僕たちはどうすればいいのだろう。先住民のように追いかけてくるまで待つとしても 僕らにはその時間は残されていない。 忘れ物をした自覚が チャイニーズタウンや 韓国人街や兵庫県人会を作ったのだろう。人生は記憶だというが 回想しても故郷を失った者たちは こころが追いかけてこれないので 体を故郷へ引っ張るのだろう。だが それでも 無くした物は帰ってこないのだ。そして なくした なくしたと思いつづけながら ふるさとに足をむけるのである。
「誰にでも 恋焦がれる恋人がいる。。。 その恋人の名は ノスタルジー」とヘミングエイが何かに書いていた。
仏教書に極楽とは 無何有郷なり そこで お釈迦様も散歩しているという。何もないがふるさとがあり 優しいお釈迦様が側に居てくれる所という。
イングランドの科学者 エクスタシーの研究によると 最も多く感じるときは 自然との邂逅というが(夕焼けや 虹を見たときを思い起こしてください)その中 回想もエクスタシーをはらむとあります。懐かしさに浸っている時がそうなのです。
「私たちには 時間という壁が消えて奇跡が現れる神聖な場所が必要だ。日々の些細なことがらを 一切忘れるような空間と 一日のひと時がなくてはならない。」と神話学のキャンベルが言うが「本来の自分 自分の姿を純粋に経験し 引き出せる聖地と言っていい場所だ これは 創造する孵化場だ 人は聖地を作り出すことによって その土地を自分の物にする そして 住んでいる土地を霊的な意味の深い場所に変えるのだ」 毎日の気分は 些細なことがらに 右往左往してしまうが 冷たい風の感触や夕日のダイナミックな影響を目にすると すぐさま 豊かになれる時がある、 そのことが キャンベルが言っていることのはじまりだと思う。僕たちに必要な質を感じることだと思う。
遠くではなく ほんのひと時の移動で 自然を感じ 日々の些細なことがらを忘れられる所は 誰にでも必要だ。 そこに 本質やら実質といえる空間を見つけるのだ。
自閉症という生まれながらの症状は 前頭葉の未熟と伝えられるが 動物の感情は手に取るように感じられる が 人のこととなると 火星の人類学者のように 地球にすむ人類の感情をファイルにしてこの怒りはこういう風にして成り立ち そのため こういう風に対処すると いちいち ファイルから引き出して考えなければわからない。なので 幼稚園児のとき 子供が 先生にあの子変な音出していると言う 先生見に行くと 泣いていた、泣くことさえ 解らない。
怒り 嫌悪 恐怖 可愛がるが哺乳類初期の感情の元といわれるが われわれは自閉症の末裔だ。動物のような シンプルな心の働きから 同類が片寄せあってきて 複雑な信号を発するようになったが その複雑さに辟易することがあるのだ。
自分を 火星の人類学者のようだといった動物学者 少女のころ 母親やおばに抱きしめられると動けなくなるので拒否したが 抱かれる快感も覚えていた、学者になって どうしようもない精神状態になった時 圧縮抱きしめ機をベッドの横に作り置いて 入ってスイッチを押す。そうして 締め付けが始まると 徐除に落ち着きを取り戻す。人を愛するという感情は 解らないと言う。だから 一人で始末しなければならない。
子供の心も 大人と同じくワケが解らないという。赤ん坊でも 動物とはかけ離れてしまっているようだ。文化は赤ん坊の動きまで複雑な働きを与えたようだ。
しかし 彼らの一点に集中する力は思わぬ成果を発揮する。そのチカラは僕たちが家畜と化す以前の能力と 捕らえる考え方がある、自然の中 強力な野生の力が必要な時代のことだ。ウイトゲンシュタインやサティーや アインシュタインもその仲間といわれている。
自閉症症状を抑える薬があるが気分はぼんやりして集中力がなくなるそうだ。かの人類学者 だから 私は自閉症でいい 薬をのんで 治そうと思わない。という。 [詳しくは オリバーストーン著 火星の人類学者]
鼻から出る涙は我々が魚類の時代の名残だ。目に溜まった塩分を鼻から出す必要が魚類にはあったが、人には必要でなくなった。がそれでも 未だに残っている。徐除に大きくなった脳には色々な時代が潜んでいると考えられる。 だから 人生は記憶と言ったのだ。
日本の冬 50センチ以上積雪がある地域が多いことは世界でも珍しいそうだ、そのことは 行動の自由が利かない分 家屋内で手つくりの工芸品の精度が上がったことと関係しているそうだ。完璧の粋の漆製品は手で触ることもはばかられることを思えば理解できる、そのような 工芸品は世界に認められ貴重な宝物として尊重されている。これは 日本人の気質の良い面の現われだ。
ある建具コンクールがアメリカで行われ 日本の組子障子の精度は入場者の賛嘆の的となったようだが コンクールには優勝できなかった。ヨーロッパの頑丈なドアがその時の賞の対象だった。 また イタリアで行われた ヘアーのカット選手権では 髪の毛一本に丁寧なはさみが入り 日本の出場者同士で関西の選手に注目が集まったというが 優勝したのは 丁寧な風はどこにもないのだが 遠めには美しく自然に見えた と出場者の感想。
人工の粋を尽くし 完璧で完全な製品を作ることの出来るわれわれは 考えてみれば 自然からの恵を 自然から一番遠く離れた位置へ持っていってしまった。
子供という自然の扱いもそのようになしてきた。完璧をめざすひとたちは いちいちの動作や発言に規制をかけたのだ。親が出来ない教育は時間がなしてくれる と イスラムの教えにあるそうだが すべては 親の責任で工芸品に仕立てたいのだ。そして子供たちは依存症に陥ったのだ。
そのように つくってきた 全ての製品はプロと呼ばれる人たちが {短時間できれいに見えるように 多数の人に売れるように}を原則に質感を無視してつくり続けてきたのだ
質感によって ああ気持ちがいいと感じることができるのだが 機能を重視したものだから 便利だとか 簡単だとか 手がかからない 長持ちするとかに製品の重点をおいたのだ。当然 手に入れても 質感によってこころに当たることがない。、ひとは環境によっても 変化するいい加減な存在なのだから 完璧に程とおく 完璧にあこがれても 完璧に指図される自分に気がつかない。 子供の不幸は機能を重視しすぎていい加減な存在だと誰も認めてくれないことによるのではないだろうか?。質感の有る子が 成績と言う機能より優れていると思うことだ。質感が合うから友人や恋人になれるのだから。
サッカーのゲームは どのスポーツも失敗の積み重ねにより勝利者になるのだが その中でも もっとも失敗のおおいゲームだ、そのせいで 失敗にクレームが付くことが少ないように見受けられる、また 数センチの差異により成否が決まるゲームと違って ラインを踏んでも見逃され この機械全盛の時代 審判の判定はその器量に任されている。 リプレイを見ると審判の判定が間違っていても 審判に対するクレームを禁じている、 審判の目だけに頼って あい争う両チームを落ち着かせ 公平ともいえない裁きにも人とはそういうものだと それが一神教の神の伝統だとすれば 仏教ではどのような ゲームになるのだろうか 唯一の神の居ない世界には ことさらゲームに頼る習慣は作れないのかもしれない、仏教徒は享楽におぼれてはいけないとスポーツさえ存在しない。楽しみより不幸を避けることに全力をそそぐのだ。日本の神さまは相撲をお好みだが その審判は行司と呼ばれハッケよいと勇ましく戦う後押しをする役目だ。何の武器ももたずに生まれたままの姿で勝敗を神にささげるのだ。石器質なことだ。
サッカーを好む人口の多さはたぶんにそのいい加減でもゲームは成り立つし そんなもんだろーと文明批判に一役かっているところに 有るのかもしれない。まるで
地元と敵地では審判の基準も選手たちの闘争本能も違うのは、同じ村の声援が 嘗て 一匹でも動物を仕留めてくると 村中の人々にたんぱく質がいきわたったので 地元でだけ 活躍すればよいと思っているようだ。そして 敵地では 自然の中徘徊しているその狙われる獲物に成り切って 獲物と捕食者の関係を交互に演じているのだ。なので 審判者は獲物を捕獲する者の見方なのだ。村全体が審判に期待というプレッシャーをかけるのだ。獲物になりきったアウェイーの選手は相手をやっつけるより 相手にやられない様に気をつけることが大切な様式だ。
臨床心理学に箱庭療法というカウンセラー療法の一種があるが 箱庭療法にもっとも必要なことは 安全で心配することなく まるっきり自由に振舞っても良い空間を作ることにある。カウンセラーは横に座って感心して見ているだけでよい。そうして 思う存分 患者が箱庭に集中して心のおもむくまま制作を続けていると 自分のことに 思い当たったり 抑圧していたものが発散できたり して症状が軽くなっていくという。 では 安心で自由な場所とは 他になかっただろうか、、、、、。家庭はそんな場所であったはずだ。が その 家庭から箱庭療法にかからなければならない子供たちが現れてきている。家庭こそ 安心で自由な場所のはずなのだ。そうあることで 社会からの圧迫を緩める役目を果たしていたのだ、それが なくなった子供たちの行く場所はどこにあるのだろう。家庭に圧迫としてはいけないことと両親の言うとおりに行動することだけしかないとしたら、テレビに熱中することしかないのだろう。自発的に行動することは悪いことなのだから。
天才たち 例えばモーツアルトは幼い頃から演奏会場でじかに勉強した努力あっての天才なのだが 一瞬で曲の全体を知り後は筆記するだけだったといわれる。それは 環境に安全と愛情があふれ フロー状態という脳のシナプスの発火に規制がかからず 抑制が外れた脳の状態で現れる 。カウンセラーに必要な環境と同じ環境が必要で。そのとき脳内は全システムがいっせいに働くから天才活動ができるようだ。安心と愛情にあふれた空間は仕事でも学校でも当然家庭でも創作のためだけでなく 精神衛生上必要だが 自分に与えてもらいたくても 他人に与えることができるのだろうか?
モーツアルトは美しく悲しい天上の音を曲のあちこちに作曲しているが 無何有郷の地にお釈迦様もキリストも誰も居ることを想像できない孤独に一人遊んでいる子供のようだ
その遊ぶ様を我々鑑賞者はお釈迦様全として 天上から見つめていると その子供完全なる孤独であるにかかわらず 遊び道具を宙に浮かせては捕まえることを繰り返している
この子の母親はどこにいるのだろう 兄弟は?と周りを探すがどこにも人の影が見えない では この子はどこへ帰るのか?だれに食べさせてもらうのか?だれに夜具の準備を頼んでだれが 布団の中で抱きしめてやるのか?ととめどなく 心配するが 砂場でひとり遊び続けている。その姿がモーツアルトなのである。ドイツの善良なる魂とか心と言われる由縁である。全くの孤独でありながら天上に思いを馳せ天上への憧れを歌った美しさは悲しみも追いつかない。
芸術が質感の表現にかけているとすると 味わう我々は彼らと同質であるという確認作業でもあるようだ。自然からの質感は 記憶するところの想起といえるが 人の表現行為のなか 自然をリアリティーとして表すのなら 我々にも無理なく 似ているから 美しいまで味わえるのだが 感情や思想を表現したものには そうだ そうだ と共感して初めて 感動できるのだ.無いところから表現により現れたものが 鑑賞者の心ねに深く入り込む芸術は共感が目的なのだろう。
18世紀以降 人の価値が下がったようで ベラスケスやレンブラントや人のみ描いて 画面は十分な迫力と深みとが感じられたが 19世紀になって 人を描いていいものが少ない。
それには 神は死んだとニーチェは言ったが 実は 人が死んだと言いたかったのではないだろうか 神は人の作ったものなのだから。人に地球を任せられないと 先人は気がついていたのだろう。苦悩を表した表情が崇高な様だとは考えられないほど落ちぶれたのだ しかるに 芸術は時代の鏡にしかなり得ないのだ、真理だとか 永遠は人が生きていた頃の物語なのだろう。
ヨーロッパの有るところで お茶をしていた人 勘定を払う段に 店員の横柄な態度に憮然としたと言う、その人 日本に帰って マニュアル語を話す店員と比較して どっちがいいか考えた。人だからマニュアル語の裏には このオッサン早くしろよとか 感情を押し殺して ニコニコしているコトも有るだろうと、かたや そのときの気分を率直に出す横柄なやから。しかし 日本人は 日本で 横柄な口の聞き方をする店員や営業マンには 過剰に反応して口の聞き方が悪いと投書などするが マニュアル語には有難うの返事もしない。そうして大方の日本人がマニュアルにそって生きているところを見た日本に来た外国人は 日本人は生きていないという。 そのとおりかもしれない。村という全抑圧装置がいまだ効き目を発揮して 個人の行動を自己規制させるのだ どこか無理を通す国などあれば そんな時は生きるために率先して 戦いにいくのかもしれない。生きるが普段のことでなく ハレの行動でしか想像できないのだ。
気分で話されてもこまるが 次の日 昨日はどうしたんだ なにかあったのかい?と接触はあるのだから かの人マニュアルより良いと思ったそうだ、マニュアル語は質感を削除する。質感の乏しい生活は過剰な生にゆだねやすくなる。切れるとはそういう症状ではないだろうか。
人には 純粋質感享受者と言う種類の生活をしている者がいる
何でも望むものをのべよ 貴公の業績に祝して 与える と王が 言うと その賢人 では その位置から少し動いてもらいたい 太陽の心地良い暖かさが 王の 影になって得られないから と言った。かの人 何よりも 太陽の質感を選んだのだ。
釈迦が死の言葉として 世界はうつくしいと言ったという。死の前には 生活に楽しみがあふれていたようだ。世界は美しいは 世界の質感を肯定の目で感じ続けることではないだろうか?
アリストテレスが 賢人は享楽を求めず 苦悩を避けるを選ぶと述べている
享楽 幸せは幻影だが 苦悩は現実だからと理由を言う。
それは 釈迦が出家する動機と同じだ。仏教用語に幸福がなく楽と安心が四苦八苦から自由になった時に得られると説く。四苦八苦の為釈迦は四門出立した
質感享受するものは 幸せに酔うわけではない、。質感は現実感なのだ。
こころは 自分の中に存在する 外に起こる事、物、人、に反応して心を感じる
それは 質感が外と中の交錯により発生することを思えばこころと 同義語で有ることがわかる。
クオリアの研究では 感覚クオリアと志向クオリアがあるといわれている、まだそのほかにも研究中だそうだが 感覚クオリアはそこここにあるもの 志向クオリアは意識することによって作り出す物といわれている。肯定することによって起こる楽しさは志向クオリアの産物ではないか。
かつて 伊勢神宮の式年遷都により 20年おきに新しく作り直した建物に
あらたまる という魂を入れたとある
新し物好きの一因がここにある
新しいものに新しい魂がはいるのだ。
人はあらたまらないと 生き続けにくいところがある、そのため 一年の初めに新たな年を迎える行事が必要だった。季節を感じることも新たな生の実感に必要だった。あらたまの春の花と古人は書いた
それが 年中同じになると 正月もあらたまることが出来ないと 人生一直線に続き 無間地獄となり 個人の裁量であらたまる行事を創作しなければならなくなった。
そして 新しいものに耽る体質が出来上がったのではないだろうか。
新しい土地に出かけるとあらたまった精神が得られると。
中国に 川があっても船に乗らず、山があっても越えていかない民が居るという歌がある
その土地の生活に満足してかの地を夢見ることもない生活を想像できるだろうか?
時間を経た家屋や物は当然古くなるが 古く傷だらけになると 紫外線は乱反射をおこして 人に与える刺激が少なくなるのか 居心地がよくなるのだが、古臭いとか古ぼけていると言って 臭いとか ボケていると古いものを嫌ったのだ。
今いる場所を見回しても 新しいもの 紫外線が刺激しそうなものが 身の回りに 氾濫しているのは 質感から受ける感受性を(無意識の記憶)、意識的に避けて 新しいものに耽らないと 年を越せないと 強迫観念のように染み付いているのだ。
古いものは 我々がいて その祖先がいて そのまた祖先がいて成り立ってきたが、その祖先の人々の臭いが染み付いているから気味悪いのだろう。そして 家屋の中の心休まる質感を壊し続けて 人の臭いを避け続けて 見回して見ると新しい物だけの家屋に大脳皮質は満足したのだろう、 しかし 人には 大脳辺縁系 記憶の底 無意識の庭に自然と自然への憧れと 人への懐かしさが存在するのだ。合理脳にだけ任せては 人は無理な時代に入って行ったのではないだろうか?無意識を想像しなければならない。無意識は光の乱反射のある古い凸凹だらけの空間に安心して、無意識は自然の中の反射の音を良い音と判断する。平行と直角の空間の音には安心できないのだ。
嘗て 山本夏彦老が古人は今人に劣るのか?と食事にことよせて レンコンのさくっとした歯ざわりと引いた糸が 古人には当たり前のこととしてあったが 今人は質のない米 野菜 ブロイラー 歯ざわりのない糸も引かないレンコン などどれをとっても 味付けを重ねないと食することのできないものばかりを食っている と嘆いている。それを受けてか 養老先生 東南アジアの野菜はそのものだけで甘く美味しいのに 日本に帰ると ドレッシング屋さんが商売繁盛するように 味のない野菜ばかりだ と言っている。鶏の騒動の時 身動きできない檻が無数に並び卵を生む機械になってしまった鶏から美味しい卵が生まれるわけがないとも 量の為に質はおろそかにされる例はいたるところに見られるが いっそ テレビに出る商品は[テレビの中のものは全て商品]最低のものと理解すればいいのかもしれない。テレビに映っているものは 質を考えていなく 量だけを優先したものたちです だから いいものとおもってはいけないのです 劣悪で最低のものが テレビに出るのです。とこんなことを考えていたら かつて 深澤七郎がテレビにでるのは 三流 と批判していた。作るのは二流、出ないのが一流。
そういえば 嘗て マスコミは電通を通して広告を出すが その電通PRセンターの「戦略十訓」に「もっと使わせろ」「捨てさせろ」「無駄使いさせろ」「季節を忘れさせろ」「贈り物にさせろ」「流行遅れにさせろ」と公表したとおりの結果が世の中に現れたが これは25年も前の企業に向けた経営方針の伝授ともいえるもので 大方の一流企業はこぞって無駄使いさせろと消費者を愚弄し続けた。商品は買った者が エライとマインドコントロールされたわけだ。そんなわけで 欲しがったわけでないにかかわらず 欲しがらせられて 一杯働いて一杯買い物して 物にあふれているがそれでも物足らない。 質にあふれないので充足できないのだろう、 。
テレビに出ると 人はしばらくすると恥知らずに変化する。その恥知らずに成りたいものたちで町はにぎわっているのだから 慎み深くなど望むべくもないことだ。さて 今人のほうが 勝っているのだろうか?
養老先生の母は解剖学だと思われるが 父は山本夏彦だと感じる。言葉の使い方 世の見方 自然と人口の対比 など と思って山本老の文章になじんでいると 出版記念会に一人隅っこに養老先生出席していたとあった。
昨年山本老が他界したとき 養老先生 忘れてはならない人だと書いている
跳ね上げ棒つき井戸水汲み機は 柱を立てその上を支柱にして方や井戸の中心もう一方はその長さの数倍のばして 人が両手でおすと先につけた桶があがってくるように作ったもっとも機械としては初期のものだ。
その機械の付いた井戸には水面までの回り階段が元々あった。村のものは 便利だ助かると順番を待ってはねあげ機で水を持ち帰ったが 一人の長老 機械あれば機事あり 機事あれば機こころあり と重い桶を階段を上がって持ち帰りつづけた。バカだなーこんな便利なものと 村のもの隠れて話し合ったが 紐が切れ 木が折れる事件おこると 紐の為走り 乾いた木を探す旅に出 今度切れたら 誰が紐を出すのだ と心配した。 その間も老人 毎日変わることなく 回り階段を通って水を運び続けたということだ。それ以降自動車から飛行機と機械にまみれて 事件や事故を増やしその度に内の子自動車事故にあわないだろうか?と心配を増やした・。機械あれば機事あり 機事あれば機心あり 2千年も前の言葉の重さよ。
川島雄三の撮る映画に 大岡正平原作の花影がある
15で女給にならざるを得なかった女の35歳で自害する2年間の物語だ
監督というものは 本から女性像を想像して女優を選定する 薄幸で負けん気が強い池内純子がその映画の主人公だが その役柄葉子にどこまでも いじらしく 慈しみをこめて 見続ける監督の視線がある。自分で創造した役柄にほれ込む または心配する そんなことがあるのだろうか?と考えてみるが シーンのいたるところにある葉子の行動に 不安げな心配そうな 緊張した画面があらわれる。桜の花が光にきらめき また 夜桜をしげしげと眺める主人公は桜が枯れる前に散るように 年を重ねる前に死ぬのだと決めている。大切にしてくれる男は瞬間で 女はそのあとの被害を全部背負うのだと、男に頼りきれない。それでも 帰り狼にならない思いやりありそうな美術評論家を敬愛するが、その男も そういう手法で葉子に取り入っているとやがて知ることになる。病院の眠り薬をすこしづつためて死を待っている。 評論家に嘗て一緒に死んでやろうといわれていたので 死にますと伺うも 人間は自死できるほど偉くないと取り合わないので ついに一人決行日を決める。
その日になって 葉子はいろいろなことに腹が立ってきたという
その腹がたった葉子と 登場した男どもに何とかしてやれなかったのかと 監督がおこっている最期のシーンに惜薄な涙など出ないのだが 画面よ消えるな そのまま 我らの不幸を知らしメよと しばらく見続けることになる。監督が最大限の思いやりを葉子に与えた映画なのだ、葉子とは花の命ほど短くなく一生を自然に過ごしてもらいたいという意味の名ではなかったのだろうか?
桜の花の影を背負った若くして死期にとりつかれ女。そして その監督の視線は観客にも乗り移る。
北野武の「花火」を ゴダールはこれは普遍だ 誰でも撮ってる だが日本映画に現代を撮るものが見当たらないと言った。16世紀 シェイクスピアが演劇は時代の鏡でなければならない と言ったことを受けての発言だと思うが 日本映画に時代の鏡がかけているといったその一言は ゴダールファンの多い日本の監督たちに多大な影響を与えたのではないだろうか?それからというもの 時代の鏡が目に付いた。
鏡に写った像を追うのでなく 人そのものを かつての 名作といわれた映画のように撮るものはいないのかと思う。制作動機に美しいものを作るとか 愛している物を書くとかは何故少ないのだろう。新しくないということ?しかし 美しい物を見ないで美しいものがわかるのか?美しいに価値がないのだろうか?
蹴りたい背中 蛇にピアスどちらも 時代を表す題名だ、小説の世界も普遍より時代なのだろうか?時代ごと変化する人類を追うことは マリオ プラーツがいみじくも 19世紀以降の美術には 興味はない 只見るとしたら現状の把握の為見るだけだと述べている。そして 現代美術を見るぐらいなら 工芸を見ているほうがましだ とも言った。
かく言うこの雑文も時代に絡め取られている。
193、40年頃の日本映画には 人情物で優れたものがある。
我が愛する「桃中軒 雲衛門」成瀬映画の初期のものだが 雲衛門は傷だらけでござると 息子にたんかを切るシーン お父さんを完成された者と見るんじゃあないおとうさんは傷だらけなのだと息子に会いたがらない雲衛門が言った言葉、芸人として張り合った三味線の女房の見舞いにも行かない<この三味線の音色と合いの手の美しいこと>芸のためだ と死に際に伝えると わかりました 女であるより芸人で死にます と事切れる。
「人生とんぼ返り」これは マキノひろしの作 澤田正太郎が新国劇を盛り上げるとき 殺陣師団平がリアリズムに徹して殺陣を考える。歌舞伎上りの団平が恋女房と交わす台詞に良き時代が現れ 関東に一座が旗揚げすると 肺病で病んだ妻の帰れの電報も無視して芸の道一筋 一同が団平を帰らそうと勤めるが 帰らない そんな時妻死すと電報来る。
団平 中風で寝込むが 枕元には恋女房の位牌 それでも 澤田の芝居見たがり 殺陣に口を挟む
この二本 が 芸道のキャンペーンを作り上げたのではないだろうか と思わせる
芸人は道徳より芸のためなら命も投げ出しても惜しくないと、観客も当人も認めた。
さめざめと演技者と同調して涙ぐむ観客は男は芸のため女子供をないがしろにしても そのものたちは 我慢して耐えねばならない と学ぶ。
そして またもや 可愛そうにとまぶたを腫らすのだ。
人には 他人を見て自分に置き換え涙を流したくてたまらないクセがある。人を思いやったり可愛がったり いとしんだりしたいのだ。
その思いは 過剰な人いきれに犯された現在の都会人には 鼻持ちならなくなっている。
思いやりは気持ちのいいものではなく 処世術の一つと落ちぶれてしまったのだ。そして できるだけ 離れて顔をあわせなく生活したいのだ。
その代償として ペットがいるのだろう。かわいい カワイイペットが人情ものの現代版なのだろう。野菊の墓の民サンの様な犬や、仁義なき戦いの兄貴と子分のような犬がこちらの自由に扱えるのだから 反抗しようものなら 焼き場へ送るか 違う犬に買い換えればすぐに 子分のような犬は手に入る。だから 吠えようものなら 気も狂わんばかりにしかりつける。子供の数よりペットの数の多い理由だろう。その上 言葉を話さない。
拾い犬が一才を過ぎたころ三ヶ月目のメスの小犬を飼い始めたその小犬喜びを隠すことが出来ない性格で 兄犬に遊ぼうよーと飛び掛ると兄犬 うるさいとうなりつけるが小犬でも その勢いに負けず挑みかかりすぐに 二匹の盛大なバトルが始まる。時々 強く噛む犬のせいで きゃいんーと悲鳴上げるも 両犬とも腹など見せずほっとくといつまでも 終わらない。飼い主は驚くしかなく あまりの激しさに 止めさせようと離さなければならない そのとき 小犬可愛さに 兄犬をしかったり 殴ったり 棒で叩いたりした。そのせいか 1年以上はバトルが続いた。兄イヌでなく小犬をしかればもっと状況が変わっていたように 今になって思う。兄犬のおどおどしたところはそのセイかと思う。それとも ただ バトルを見ているだけでよかったのかもしれない。
ようやく順位が確定し 小犬が2歳になった頃 兄犬に敬意を表すようになった。
兄犬 いやなとき うーとうなれば 妹ちじこまり 兄犬さまと言う態度に変化した、それで ようやくバトル収まり 時々 妹遊んでよーと兄にせがむが 兄腹を見せて遊んでやる。そういう状態になって いよいよ 妹兄に頭上がらず おにいさまと顔色うかがっている。犬は群れ成す為順位づけが大切な処世になっており 群れなす動物には最もひつような社会性である。とりもなおさず 人類も社会を築く動物である為 その社会をスムーズに機能させる為に順位ずけは必要なのだろう。
日本人がディベートが下手なのは 敬語を間違いなく使用しながら激論を戦うコトに無理があるからのようだ。敬語は順位付けの表れなのだから いかに順位が大切かと知らなければならないのだろう。
アメリカから離婚の波が押し寄せているのは いつまでも 順位に不満を持ち バトルが終わらないからではないだろうか?何時の頃から平等思想がはびこり 気質的に異質な男女を同じ土俵に上げるのは無理がある。脳の内部では左右の脳をつなぐ橋梁が平均的に4分の1女性の方が多いそうだが 幼稚園の男女の違いを見れば 明らかだろう。元気で明るいのは女の子で静かでおとなしいのは男の子である。また 言語能力の高いのも女の子で 元気で男の子を負かし 言葉でも男の子を負かせるのだから そのまま バイアスがかからず 成長して 私の言うとおりにしてと言われても男にはプライドでもなければははーと思い通りだが バトルが全盛なのは 60になってもいちいちの言動に女性の原理主義が覆いかぶさるので 男としては 気質が違うだろと寄せ付けられないのだ。
話に正義が宿っていると思うやからも 犬の世界のように正義が尊いのでなく強弱が優勢なことが大事なのだ。強弱は現実だが 正義は幻想なのだから。だから 男は切れることでしか 強さを表現できなくなっているのは かつて 社会がハンディキャップを男に与えていたという大方の意見に組するのだ。
県庁の入口から中に入ると 広間の床は大理石で壁天井も豪華に、さも我々の県は裕福な県ですと 訴えているようだ。そこへ作業着で用事を済ませに行くときは モチベーションを高く保持しないと 気後れすることがある。上下汚れの付いたカーキ色の服では来ないでもらいたいと その空間は思っているように感じるからだ。しかし 当然造り手はそんなことを感じてもらっては困るのだと想像できる。誰にでも 気楽に訪問してもらいたいと言うことだろう。しかし その質感は不自然なものに感じるのだ
東京のビルのエントランスの鏡面の大理石に とんぼが盛んに卵を産もうと尻の先を空中から押し付けている、光っているので水面に産卵しようと勘違いしているのだ、この質感はトンボにとって水面に間違いないものだから、何度も何度もチャレンジする。
トンボがいつまでも止めないで居る様は 人も光ったもの便利なもの機能的なものを作り続けることに似ている。
そのトンボは力尽きて植木の下のつつじのなかで腹をくの字に曲げて尻の先を真っ赤に染めて倒れてしまっているだろう、だが人はそんなに簡単に倒れはしないが 光ったものは良いものだと思っていることは 手入れが簡単で高価に見えるからだが そんなものに包まれて眠れるか?と考える。 それでも 大脳は良いと考えている。あのトンボと同じに狂ってしまったのだ。水面と石の面との違いがトンボに解らなかったように 人は 何によって気持ちが良いか感じる力が少なくなってしまったのだ。機能に便利がっても 機能では充足しないことが。
質感を感じなくてはこころは動じない。
映画はあるリアリティがなければ なりたたない。荒唐無稽であろうと物語りがなくても 造り手の現実感がなくては 映像の真偽だとか迫真の演技だとかも超えてあろうとするものが必要だ。 その上に台本と役者が存在するのだ。
その中 質感は 映像の質 台本の質 役者の質 監督の質と四段階ある。当然全ての質に満ちていれば傑作に相当することになるが 現代の映像に質が満ちていることは珍しくなった。天然色と白黒の差かもしれないとこのところ疑っている。人が見ているカラーは人だけのもので 犬はグレーがかり昆虫になると同じものと感じられないほどだ その色は人の印象を表現するが 印象にとどまるように感じる、その上即物的である為 重量感に欠けるのではないだろうか?
現実の物にへばりついている色は表現する時 表現物に乗り移る事は希なのではないだろうか?絵画も映像も色のリアリティに迫ることなく氾濫しているだけのようだ。
成瀬や溝口や川島の白黒映画の画面は 制作者の思いに満ちている 画面に揺るぎがないのだ。人はカラーで瞳を覆っているように考えるが 実は 白黒の上にカラーを上書きしているだけなのではないだろうか。そのカラーを取っ払ったらリアリティーが現れるのだろう。
白黒の写真とカラーの写真との差だ
実は脳の回路はデジタル稼動している あるかないか オンかオフか 0か1か コンピューターと同じだ 脳がデジタルだからコンピューターが出来たともいえる。だから アナログになる理由が難しいらしい 例えば赤色は神経細胞から飛び出たシナプスが発火して電気が送られ隣の神経細胞に伝わることを繰り返して そのとき 伝わるシナプスと伝わらないシナプスがあるだけだ。その 一瞬の過程に赤色だと赤色を意識することはどうなってそうなるか理解できないそうだ。だれか それらを統一して見る存在を思い浮かべないとオン オフ でしかないのだから 赤にまで行き着かないのだそうだ。 しかし これかあれかのシナプスの世界は白か黒かにモットも近いのではないだろうか?それゆえ 現実感があるのではないだろうか?
毎日用事に明け暮れている 身過ぎ世過ぎなのだから 用におどろかないが 用の為の時間と空理空論する友のいる喜びと山本老が言うように用でない時間の持ちように苦労することはある。実は用以外の時間があることに皆が驚くのだ 用以外には遊び時間しかないと思っているわけだから 用が主で遊びが従というわけだ。それ以外の時間は存在しないと思っている。昔の人は身も世もないと嘆き身過ぎ世過ぎがどの時代も人生の基本なのだが 仙人を空想し 極楽を無何有郷なりと想像するひと時もあったのだ。それは 人の世を考えることだったり 本質といわれるものを感じたいと言う時間であった。 質感享受することが生きる事でそれ以外は用を足すことでしかないということである。
歴史上の文明発祥地は その当時の都市にあたるが エネルギーを森の木に依存したから数千年経った今では木を切りつくし 砂漠化してしまった
ヨーロッパも例外でなく 全ての森は人工林だそうだ。イングランドの景色に野生の森が見られない理由だが そういう土地に住むと木々の自然が大切に思えるようで わが日本は過剰な力にあふれた自然に 刈ってもすぐに生えてくる雑草を去勢しても 後悔することはないようだ、自然は大切な感覚でなく静かに落ち着いてもらいたい脅威として感じているようだ。脅威の自然と大切にしたい自然との差は歴然のようだが 人がどう思おうとも脅威の国に自然が豊富なのだ。
イギリスのガ-ディナーの庭が荒れ果てた手入れしていない風に見えるのは 自然のままが大切なことで かたや 日本では区画された人工的な庭でないと 大脳が許せないのは過剰な自然にもう少し人の身になってくれと成敗にかかるのだ。
明治期を境に自然の感じ方がヨーロッパと日本で逆さになったのだ。
日本の科学技術は人という自然人の部分を消したものが良いものとして 日本に君臨し続けている。つやつやしたもの てかてかしたもの ぴかぴかしたもの 同じであり続けるもの 手間が子供のようにかからないもの(子殺しはこの辺に理由があるかも)キレイもの 掃除しなくて良いもの 長持ちするもの 時間を思いどうりにするもの あげれば切がないほどだ。先日の児童殺傷事件もそんな臭いがするが その児童の教師がパニクッテ事件に対処できないのは 人工でできた都市の安全な民の宿命だと感じる。有機的な身体をサイボーグに替えるのが積年の夢なのだろう、
スイスアルプスからドイツを通りオランダに抜けるドナウ川の両岸は都市の中それも船が停泊する場所だけに コンクリートが見えるが それ以外は川面から堰堤もなく草原が広がっている。川を制することは為政者の念願だから 多分あの水面の終りには水の中頑丈なコンクリートの塊が附せられていて しかし 見るに忍びないので水の中だけにコンクリートを使っているのだろう。この差が何かを作るときの質感の大きな信頼感の差となって現われる。人が作るにしても出来るだけ自然感は損なわないようにという配慮だ。
人工的な物に価値を置いた日本の製品に自然への憧れを表現した物ができないのだろうか?壊れゆく様を表した古く見えるもの それは 人が作った物人工物が朽ち果てて自然に帰る途中の状態なのだ 人工でありながら自然に憧れている状態だ それほど マニエラスチックになさなくっても 質感を自然の憧れで表すことは出来るはずだと思うのだが。
機械で作った大量生産品の品物とハンドメイドな品物とでは価値が異なるはずだ。それは 人が好きなのか人を嫌っているのかの差だ。だから 大量生産品は最低の商品といわれるのである。
2千年も前のこと 中国の尭帝の時代。都から離れた田舎に乾公という男が居た。この男近在の物から慕われモメゴトや諍いごと 日照りの事や長雨のことなど 問われれば事上手く解決したそうだ。それを聞きつけた 尭帝 将軍を7名乾公に使わした。母屋で将軍を向かえ用件を伝えられると乾公吐き気を催し とりあえず歓待の席に招待して 自分は下の川に出向き川の水にて我が耳を洗い始めた 右の耳の次は左の耳と丁寧に洗っていると 毎日山の庵から牛に水を飲ませに降りてくる仙人のような申子 乾公さんそんなに耳を洗っていかがした?と聞くと 乾公 今しがた都より将軍が来て天下をまかせるから政治を願いたいと申された あまりにも汚らわしい事を聞いてしまったのでこうして清めて居るのですと答えると かの申子 そんなに汚らわしい言葉を洗った水を我が牛に飲ませるわけにいかないと そのまま山に帰ったということだ。
フランス人であるキニヤールのお得意の話しだが ああ恐ろしい天下を取りたい我が心が憎らしいと耳を洗う乾公が解るかというオチである。天下を取ると我が心ねが変わってしまう。今のままに居させてもらいたいと 嘆いているのである。
昨年 「マックス ウエーバーの犯罪」と言う本が出た。
日本の研究者がウエーバーの引用句などを 丁寧に読み解き ルターやベンジャミン フランクリンの書き残した物を 故意にプロテスタントの思想と合致させようと偽装したことを突き止めたのだ。その当時プロテスタントの考えでは職人が仕事にいそしみ 蓄えを増やすことは お祈りを欠かすことに障害となるので 仕事を過ぎるのは良くないとお触れが出ていたのだが それをねじまげ フランクリンが元々険呑な性格で仕事に精を出し 蓄えを持つことは自慢になるとメモ書きした書類を 神の啓示により働く事と たくわえを始めたと自著である資本主義とプロテスタントに偽って書いたのである。これらの発見はウエーバーが故意かどうかわからないが 難解で苦渋に満ちた文で有名なように解りにくく書くことによってどの研究者にも指摘されることなく 日本でもウエーバー学派が資本主義の権威として君臨しこの研究書も日の目をみるに5年を経過した しかも 本場のドイツから発表されたのだ、
明治以後資本主義は西洋文明とともに 世界を駆け回ったが買えよされば幸せを与えんと作ること 買うこと 働くことは幸せのためになくてはならない三種の行為として あがめられたが 物にあふれて まだ 物に踊らされ そのため 時間をおしんで労働し 機能と量にからめ取られ あげくは 不満な毎日は この ウエーバーのなした犯罪が大きな意味を持っていたのではないのか?
ブータンでは テレビを禁止し 貨幣価値はすくなく ほとんど物々交換の経済だそうだが 現在でも思想があれば過去と同じ生活が存在する良い見本なのだが 昔には戻れないとほとんどの人は考えているのだから。 ブータンはHNP国民総ハッピネスが国として最大のなさなければならない目標として立てている。GNP国民総生産はウエーバーが示す方向だが お金と 物で幸せが計れるかとブータンの国民は資本主義から自由な国民であるのだ。
家督を継ぐ者は長女で ブータンでは女性にコケットリーを感じる人は絶えて見ないそうだが 選ぶ立場のものは 生き方が決まっているのか 日本でも長男は長男であることで嫁を選べる その為ブータンの女性はお化粧っケなく 見られる存在でなく 見る存在の為だが 帰って選ばれる男性がおしゃれで洗練されているとは面白い傾向である。
洗練というものも 見る側と見られる側でこうも違うのである。
それら文明の名の下に古い習慣を西洋の習慣に変えることもなく 仏教の教えを大切に守っている。西洋資本主義だけが文明ではなく それぞれが幸せになることは無理にしても 人生が時間つぶしだとしても 流れる時間を元に戻し 都市より田舎が どこにでも 自然があふれた生活に つい 4,50年まえに戻りたいものだ。季節を惑わす物もなく夕焼けと田んぼと自分が一体で すべてのものは自然に帰る成分で ガラスさえも時間に丸め取られ あぜ道にへびとかえるが往来し、入道雲はまっしろで 夕立の水しぶきに縁台の足はぬかるみ 雨にけぶる遠くのみね あれは樋が付いていないので雨はすべて目の前を落ちていたのだ
ほとんどの夫婦は 最低の亭主に最低の女房で出来ている 飽きたからといって 次のと取り替えても間違いなく最低の女房が来ることになるので それが解っているので 交換しないだけだと いう。そんなことはないよ と理解しない輩も自分の中を覗いてみれば肯定せざるを得ないという。
演劇シネマが時代の鏡であることは 生の人間が演じるところに理由がある。美を表現しようにも 最低の人と知れて舞台に立つものは理想に頭脳をやられていない限り 美など表現出来るはずがないということだ。ゆえに 美とは絵画 音楽 思想としての美は文学で表現できても 演劇 シネマ にはリアリテ(醜)であるしかないのだ。
美術とはよく言ったもので 美術には美の接近を許されている。そのなか 音楽にも音の流れの中慟哭を誘う美しさが存在する。
例えば 山や海や空が口をきけば 人は最低というだろう。
昆虫や木や花も最低と言うに決まっている
爬虫類にいたっては 憎悪おびただしいだろう。
人意外の生命で人を憎まない生命があるのだろうか?
人が良いと言うものは 一時の良い時間をもった人との関係だけなのかもしれない
しかし それは幻想で最低でしかない人間に良い関係を長続きさせることは出来そうにない。人は最低理論は幻想を持たさない。
朝取りの自家栽培のトマトは最高というものも 美味いと思って食べれば美味いので 嘗て 真っ赤に熟れたトマトをほうばったとき 青臭いなか 甘みと酸味が濃厚に口の中広がり 今の甘いだけの水っぽいトマトとは品種が違うのだ。その上連作で美味いわけがない。
美味いトマトが先に頭脳にあるから 美味いのは だから 幻想と呼べるので、美味くないけど食べなければという 姿勢とは格段の違いが有る。
とにかく人は最低なのだ。それは 認識のはじめの覚悟である。
しかし 人が最低でなく最高と呼べるときもある。
生きている人は最低だが その人が作った 考えた人との共感を目的とした芸術には ただただ 立ち尽くすしかない。
資本主義は金の価値をグローバル化して一様な意味づけとした。金に貴賎の差をつけなくしたのである。すると 泥棒の金と詐欺師の金と職人の金とは 同じ価値ということだ。
それは 汗水たらして仕事をするより とにかく手早く稼げる職業を選定する動機となる。
賭博で稼いだ金は湯水のように使う金だし おなじに 芸人の稼ぐ何億と言う金も遠慮なく使う金になる。ただ 毎日こつこつ働いたお金は毎日少しずつ使うお金である。先の2億の宝くじは湯水のごとく使うお金であるから、ああいう使い方ができるのだ。しかし たいがいの人は コツコツ型だから チラシを見ながら夕飯の買い物に精をだす。それが 生活というものである。
テレビの影響でその生活にはなんら魅力なく 金の力でなんにでも変身できると思いたいのだ。売春ということも 身体を投げ出すことに少々の抵抗はあるだろうが それより 欲しいものをあきらめることのほうに より抵抗があって人と同じかそれ以上でないと 生きていけないとかんがえているのだ。
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人類学者クロード・レヴィ=ストロースは
「仮に人類の過去を千年、二千年の間消去しても現在の歴史は
変わらない。唯一その期間に生み出された芸術作品を
失うことには耐えられぬ。」と述べている。
世界を見る目が幻影であろうとも
世界は限りなく美しいが故にこの世界を贈与された人類は
返礼としての芸術作品を生み出す。
世界を認識するため図らずとも人類への友情のための
悪戦苦闘によって世界は人類とつながっている。
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■たましいという■
昨年アメリカコロンビア大学で、サボテンの奇妙な実験があった。
数人の人間にサボテンの前を歩かせ その内の一人がサボテンを蹴る、 その後に一人ずつ歩かせ その蹴ったものが通るときだけ 電極がなにやら反応するという実験である。サボテンは蹴ったものが解るということだ。
蹴られた!と思うのか?こんちくしょうと思ったのか?
また 植物のネムリソウの眠る動きをする筋のようなものは 人の筋と同じ成分であるという実験もある。ということは だいたいの生命体の筋は大体同じということか。
その上に面白い実験があって 脳に入力を受けて筋で出力をすることは当たり前と思っていたが、綺麗な花と視覚に入力するから 触ってみようと手の筋肉が動くということだが、急激な反応の必要な筋肉の働きは 脳に入力が到着する前に 筋肉が活動することが解ったそうだ。(脳のシナプス間を電流となって動き回る時間が測定できるのだ)
では 脳が命令しなくて だれが 筋肉を働かせるのか?
サボテンが日々空を見上げながら いや 視覚はないのだから 気圧を感じるか 水分を知るか、太陽の向きと暖かさを感じていても 何ら不思議の作用ではない。だが 僕達がカブト虫を取る時クヌギを足げにしてかぶとの落下を待ち構える時 クヌギはこのやろう!と思っていたということではないのだろうか?それとも かぶとを取るつもりで 木をゆするだけで 木に危害を及ぼすつもりがないことは 知っているだろうか?サボテンのように倒れやすくないゆえに、
だが
サボテンが特異だとは思ってはならない 生命現象のすみずみに感受性はあると取るのが アミ二ズムである。 ブータンの仏教徒や 自然と生活を共にするあちこちの先住民の感受性だ。それこそ 彼らもその他の生命現象のいちスタイルと思っているのだろう。
アメリカのインディアンの語録に 白人はどうしてあれほど饒舌な木の言葉が解らないのだろうとあるが ともすると 木の枝の向きやら 皮の状況やら 生理的なコトに思えるが 実は 生理的な事柄でなく 心理的な事柄を指していることがサボテンの感受の話で わかる。
だから 植物よりも活動的な動物にもっと高等な感受性の存在を知ることも自然な成り行きだ。熊は我々が知っていた熊でなく、狼も我々より自然を知り尽くした私達と同等の生き物、それとも 崇拝せざるをえない神々しい存在。サボテン以上に我々に話しかけていると思っても間違いではないだろう。殺生を禁止するのは仏教徒だけではないのだ。新石器時代までは、生命体の同格は自分達の存在の為にも必要だったのだ。
僕達は夕闇に包まれた森の中に魑魅魍魎の存在を感じる。そのざわざわした空間に恐ろしさを痛感する、それは 一匹の熊を怖がる恐ろしさとそんなに離れていない。親密さを感じられなくなって 解らなさが恐ろしさに変化したのだろうか。(それとも 本当に 恐怖を与えようとしているのか?熊が立上って両手を広げて威嚇しているように)。
ブータンではホテルのコーヒーにハエが入ってもウエイターは指でハエを取り出し窓から逃がしてやるそうだ。ハエと目が合うのだろう。ハエの感受性が解るのだろう。
僕達の意識は 書くことも 話すことも制御していないように思える、考えて話しているのではなく はなしが 無意識の領域で進んでいるだけだ。書くことによって初めて意識的になれるのだから。そうか こういうことだったのか は書いたり話したりしてやっと解るということは 日常的にあることだ。
小説家が 始めの想像したプロットだけで仕上がった作品より 途中から興に乗って脱線したほうが 良い物が出きるということはよくあることだそうだ。
それでは だれが 話させているのか?
考えさせているのか?
ボクが 話しているのはそのとおりだ、
僕の脳が考えているとそれも知っている。
だが それらを出力させている当のものは ボク自信なのだろうか?
無意識を動かしている者が脳の中に存在するのか?
サボテンは痛かったのか?
サボテンは倒れそうになって 死に至る恐怖を味わったのか?
胸のところが 蹴られて水分が中からにじんできたのか?
何故 そのやろうだと 特定できるのだ。
そやつの足音か、体臭か?それが 感じられるのか?
サボテンのほんのちょっとした震えが現代科学で解ったのだ。
そして 蹴ったそやつの感受性を君の感受性がキャッチするのか?
それでは その感受性の名前はなんと言うのか?
それを たましいというのではないだろうか?
仏教では山川草木皆仏性有りという そのことが
現代科学が幾時代を経て理解しつつあるということではないだろうか?
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■漫画と綺麗と息つく暇なし■
日本から発信した漫画が世界各国で受け入れられGNPを押し上げるほどの影響力があると聞きます。かの地の漫画文化発生あるところでは一部のもの好き程度のようです。なぜ この国が抜きん出て漫画の大量発生にいたったかは、養老先生の言われる漢字がそもそも漫画の形式を持っていたということに 理由がありそうです、漢字にルビをつける行為が漫画の絵とせりふの吹き出しと同じ構図だということです。長年漢字の使用で漫画的図像が自然に現れたということです。 だが もうひとつ考えることができます。
日本の美術史を扱った辻惟雄の「奇想の系譜」という美術書は 題名に現れているように日本美術は奇想で成り立っているという。それは 中国の図像が自然を見た通りに描く方法をとるのに 同時代の日本の草花を描いたものは そばの小石も後ろの光景も描かない デフォルメされた花や草が美しいと思える奇想の図像の 差異となって現れています。どうして 日本人は見たとおりに美意識を感じなかったのだろうか。画布の中は別世界として 一度脳内を循環させて意識的に意識したものを描こうと考える癖があるようだ。
それは 見えるものが全てではなくて 一元化することに意識を集中しているように思われます。たとえば 雲の形や波の形を図案化することには秀でたものを感じますが 雲や波の全体を表そうとは思っていないと思われます。商品はたぶん一元化することで価値が現れるのでしょうが そういう行為に思えてしまいます。「あんたのキャラと違うデー」と一元化された他とは違った個性が売れるのでしょう。日本美術はその差異で成り立ってきたように思われます。
その 一元化する日本人の癖が漫画を生んだと考えられないでしょうか?
漫画には全体としての人物像は必要ないとおもいます。それぞれの シーンにもっとも近い表情が表されれば良いのです。それが 日本人が描こうとする表層ではないでしょうか?琳派にも狩野派にもリアリティーに優れたものはあるのですが マヌエリスチックになって図案化することは 漫画化することになってしまいます。
また 西洋ではゴシック時代までは キリストはイコン画として漫画化されていましたがルネッサンスにはリアリティーある聖人に変化してきました。イコン画の成り立ちは詳しくないが 聖なるイエスの聖なる様を一元化したのではと思われます。
16世紀にカラッバジョが道行く人物をキリストに仕立て描いたのはイコンの漫画に飽き足らなくなったのではと思えます。カラバッジョは明暗を自然光でなく 画面の効果を狙って暗いバックを発明しそれがあの時代のスペインからオランダまで瞬時といっていい時間で広がったが、人物には緊張を持たせ 何かに集中している様を信じられないほどリアルに描いています。その迫真が何時の時代にも迫ってくるのです。それは まぎれもなく一元化からは得られない効果です、
しかし 日本の宗教美術はどうでしょうか?
どこのお寺に行っても イコン画と同等な仏像が仏様の威厳を表してたたずんでいます。
仏様に仏様としてのイメージに恐れ入っても リアリティーとしての恐れも威厳も慈悲も感じることが出来ないのは 正真な仏教徒でないからでしょうか?
そのなか 天平時代の仏師が鑑真和上や奈良の東大寺隣にある四天王を 漫画化から影響されずに製作したものがあります。鑑真は後になって芭蕉が見たとき 「若葉もて 御眼のしずくぬぐわばや」と歌ったのです。唐から何回も渡航に失敗してついに失明してまで日本に仏教の戒律を教えようと発願した鑑真像は悲しみに打ちひしがれているわけではありません。それでも 芭蕉はその涙若葉で拭いたいと見たのです。鑑真像はなんとも形容しようがないのです。芭蕉のように 涙とも慈悲とも言葉ではいえません。ただ 鑑真が存在するだけなのです。 世界中のどの彫刻にも負けない強い存在感が僕たちを打ちひしぐのです。唖然とさせるのです。 芸術の最高の状態ではないでしょうか。脳が意識化して言葉に還元できない説得力は言葉の芸術以外に携わっているものの芸術に賭ける思いです。
音楽にもリズムもメロディーも超越して魂とか作曲家や演奏者の思いだけが漂って聞こえてくるときがありますが、そのとき 眼前にとうに死んでしまった作者が現れているのです。
それから年月が経って鎌倉時代、運慶が現れます。その間鑑真がありながらどうしてその流れが消えてしまったのでしょう。運慶までまたなければ
ならないのです。 漫画的な仏像だけが大量にだから 民衆的に作られ続けるのです。
運慶の世親・無著は菩薩立像と名づけられています。どうみても肖像ですが仏様なのです。
1212年鎌倉時代イタリアに先駆けて日本にカラバッジョが現れたのです。この2像の存在はあの聖カラバッジョと並べてみても劣ることはありません。強いて言えば無著には慈悲のまなざしを感じ、世親には宇宙の恐ろしさに観念しようとする気配を感じますが そのリアリティーには一元化の兆しはありません。
その後も彼らの意思を次ぐものはあらわれません。今でも仏師として職業が成り立ち仏様を彫り続けていますが さて 感激して感涙するのは 信心深い信者だけではないでしょうか。
漫画には画像だけでなく物語りという大切な要素もあるのですが 我々は 画像に一元化を求める癖があり そのため 商品化が得意だとか 他人に抱く思い込みが単純だったり
脳化が障害なくすすんだり 有り余る自然に雑草という概念を植えつけて自然を制御することに罪を感じなかったり、思いのほか一元化には功罪併せ持って影響が強いように思われます。
室町時代平織りの織物に綾織りという技法が現れ 織り目の形態の違いに綺麗という字を発明しました。派手でうつくしいこと、嫌悪感を誘う濁りや汚れをとどめないさま、と広辞苑にでています。それまでは うつくしい 美しい 愛しいと肉親への愛から ちいさなものへの愛 可愛らしい 慈愛(うつくしび)と使っていたものが 可愛らしくない美しいものを綺麗と言ったととれます。それから 大声で 「綺麗にしなさい!」と変化するのです。
古語辞典によると「うつくしい」はいつくしみという言葉からうつくしいに変化したようですが もともとは 肉親への愛 わが子への愛がうつくしいの本来的意味合いだと思われます。わが子を育てるとはきれいごとですむわけが在りません。
綺麗とうつくしいはそういう違いがあって使いわけられていますが 実は 使い分けられていないのではと思い至るようになりました。
なぜなら 綺麗は一日に数回使われますが うつくしいは一年に数回使うでしょうか?読書癖でもないかぎりうつくしいとは言わなくなっているのです。
思うに 漫画化一元化から うつくしいは遠いのです。うつくしいと感激したとき時として汚れや濁りも包摂する場合があるからです。現に子育ては大便も小便も子供が出てくる上下に通じていて だから 子を降ろすとき大中小の間の中絶というのですかね?とは冗談ですが。そういうものも含めてうつくしと言ったのです。
しかし 現在 匂いも汗もほこりも汚れも 人間の特質の一部を嫌悪する時代となってしまいました。それで 愛だとか 尊重だとか敬愛だとかの感情が変化なく続くわけがないと思われます。他人に自分の望むところのみ求めるのは ひとを全体として見る癖がないことを意味します。一元化のもっとも危惧するところは 人格形成にも関わる ひととはどういうものか を問うことのないところにあると思われます。ひとを漫画として愛するということです。
綺麗な建築が最高の状態で今に至って 綺麗なものとは大いなる規制を受けて成り立ち その故 その空間は住まい手にきれいにしろ!と規制をかけているのです。
ビニールクロスと塩化ビニールの印刷した扉とその木目の枠、床は塩化ビニールか 木とも思えないフローリングでプラスチックの冷蔵庫にライトにパソコンに机とくれば すべてが おめえ きちんとしろよ!と毒づいていることを感じないでしょうか?
時には 古い農家や明治時代の洋館に入って自分の気がリラックスしていることに気がついてもらいたいものです。
自然とは我々に規制をかけない環境です。それは 全体だからでないでしょうか。上記の家の素材は商品化された一元的意味しかもっていないのです。たとえば 室内に左官材や木や紙や畳で構成されていれば それぞれは 自然材を手入れして作ったものと 自然材を創造もできないほど加工したものでは 人の感受する質感の差異は歴然です。我々は機能に感謝してもすぐになれてしまい 質感によってのみ感動すると知るべきです。
山登りをして早朝雲の切れ目から光が漏れ始め黄金色の太陽が覗くと 人は手を合わせて涙するといいます。自然との邂逅にもっともエクスタシーを感じるとイギリスの科学者の研究結果があります、ちなみに2番目は愛だそうです、エクスタシーを導くトリッガーの研究ですが 次は法悦 運動 回想 知るとき 創造 とありますが 当然美しいものを見たときも上位に入っています。だが かなしいかな 早朝太陽を拝んだ人々はうつくしいとは発せず きれいねーと言うそうです。
うつくしいと言うとき対象と自分が一体感があるとおもいますが 綺麗というとき一種突き放し一体になることを避けているように思います。たぶん 涙する人は何事も発せず手を合わせるのでしょうが。自然との邂逅に綺麗と使わざる得ないことに何故か危機感を感じてしまいます。
綺麗とは大脳皮質が言わせ うつくしいとは大脳辺縁系がつぶやくと言えるかもしれません。
ドイツの思想家フランクリンは充足した状態は心臓の周りの環状動脈が勢いがよいときと書きます。それは 自然の赤や紫の花々や 白い雲や 小川のせせらぎなどを感じたときの状態だといいます。明日遠足だからうきうきしていても 動脈に変化なく充足の状態でないと、フランクリンはナチの収容所の中でそれらを見て感じる人に生き残る可能性が高かったといいます・。充足感は満ち足りた状態のことです。
我々は言葉の発達によりサバン症的特質した記憶力だとかをなくしたといいますが、石器時代という長期の経験記憶が未だ優勢で大脳皮質のいうことなんか聞くものかという側面があるように思われます。一元化を編み出した日本人が良くって一元化にしたのだろうからそのまま一元化に賛成していれば いいのにとも考えられますが(きっと先鋭の科学者は大脳皮質サイボーグを作りたいでしょう)
しかし 仏教ではひとは大脳皮質に頼らず大脳辺縁系にまかせると考えているようです。仏教が石器気質なゆえんです。何も無い 空とは般若信教にたびたび出てきますが なぜか 狩猟採集の時代のことではないかと思えてしまうのです。
「わたしの幸福は野蛮に由来し 私の不幸は文明に由来する」ということは 山登りしたり、水泳したり 格闘技したり 紅葉をめでたり 温泉にはいったり 木の家にこだわったり 釣りをしたり 狩猟をしたり これらはみな 石器時代の経験記憶に違いないと思います。野蛮を味合うことは 自然への愛着なのだと思いますが、一種居心地のいいものと感じても 人が綺麗に作ったものでないと受け入れられなくなっているのは コンピューターが大脳皮質の代わりに活躍している現代が経験記憶を無意識の奥の奥にしまったとしても そのほうがかえって 現代人の行動にトラウマとして影響するだろうと思います。
東京芸術大学の保険の先生であった三木茂夫先生は 東大での講義で何十億年もの生命の発生の時間を胎内にいる時間に味わうと語り その宇宙的な語り口に聴衆は涙する人もいたと伝えられていますが、かの先生 人の心は息にあると言います。
息苦しい 息切れ 息詰まる 息抜き 自分の心と書いて息と読むのです。緊張したとき人は息をしていない。それを息詰まりといいます。そのとき深呼吸するとこころが晴れる 息が抜けたのです。息が合うとはこころが通じるともいえます。
われわれ 日本人はこころはどこにあるのかと問うと 脳の中にあると言うか胸を指してここにあるいいますが、息遣いがこころの状態だったのです。そのこころが息つくことなく詰まり続けているのが今の現状ではないでしょうか。
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■魚釣り■
魚釣りは思うことあってこの五月に止めたが どうして人生の半分以上もこの行為にかけたのだろうと考えることがある。魚は買えばすむことだし、捕まえようと思えば釣りなんていう 原始的な方法でなく 機械式とか薬品的とか 電気式とかのやりかたで捕まえられる。そういう方法を考察せずに 細い竿の強度とか見えにくいハリスだとか とにかく竿糸針に執着する。これは 原始人類が発明したスタイルのままだ。
それでも リールとか撒きえさ、浮きとかの付属部品に凝るものも 現れているが基本は竿糸針なのだ。
また どうしてスポーツなんてものが存在するのだろう?サッカーは狩猟行為で 獲物をボールに変換し ホームをたんぱく質を何週間も待ち焦がれた我が村の同僚たちと捕らえると夢中になる動機が理解できる。アウエーは獲物の仲間か獲物を守る自然のこと。
石器時代に行った状態を復元しているようだ。
ボクシング、レスリング、など格闘技は肉体だけが価値のある狩猟期そのものだし。
トラック競技が近代的だとはだれも言わないだろうし
バスケット バレーボール 等球技はサッカーに準じる。
しかし 野球だけには 石器時代の親近感を感じない ホームランで4点も取るとは資本主義のサクセスストーリだ。
では なぜ人は 近代合理主義を旗頭に行動しているにも関わらず 公然と石器時代的な行いをするのだろうか?
山登りは? 海水浴は?
もっといえば もみじ狩 温泉浴
どうして 木の家にこだわるのか
どうして 子作りは生身のままなのか?
何故 自然食にこだわるのか?
これら すべては われわれは 石器時代の生活が恋しいのだといっているようだ。
疲れたときには 石器時代に帰る この法則が生きているようだ。
この夏伊勢神宮を訪ねて見せなければ神秘性はあがるとした建物群をうっそうとした杉の巨木が守っていたが、あれらの巨木でない細い頼りない木しか植わっていなければこれほどの価値はないと分かると インディアンがいう 白人には分からないのだろうか?あれほど語っている木の話が と言う言葉の意味。
イギリスでは落ち込んだとき タッチツリー木に触るとよいという。
南米のインディオを連れた探検隊数日後 朝になってもインディオでかけようとしないので 理由聞いてみると 早く歩きすぎて魂がついてこないので待っていると言って動かない。たぶん 我々の魂は石器時代にいまだ居ついているので かの人のいわく 「我々の幸福は野蛮に由来し 我々の不幸は文明に由来す」とのべたのだ。
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■小学生の子供たち■
小学生の子供たちは2,3年生までは僕と散歩する愛犬に興味を示す。それも男子で4年生女の子で5,6年生であの愛想がなくなり、時には 不幸のどん底のような顔をして学校に向かう。小学生時代ぐらい 人生華やかで楽しみに満ちていると思うのは どうも 僕たちの時代のことのようだ。
養老先生本に帰国する外人が口にする言葉に 日本人は生きていないと言うとある。それは サラリーマンが就業人口の70%を超えたその大人たちのことだと思われるが 生きていないのは もう10歳に満たないうちから現れると思う。
どうやら 人々は高速道路を運転している神経で日々を暮らしているのではないだろうか
子供たちは大学へ行かねばならないので のんきに遊んでいられないのだ。
アイザック ウオルトン卿が男親は子供に何も教育できないが 釣りだけは教えてやれると 青空と流れる川の流れに身をまかせ自然と一体になった至福のときを味わう方法を伝えたが、その 根源的な生の肯定時間を (釣りに限らず)終生もち続けることに 必ず訪れる絶望のとき 助けとなるのだが、 警官となった母や父に監視されながら過ごす高速道路を運転するときのように緊張した毎日は 人生にはすばらしい時間があることすら知らないで大きくなる。そのうえ コンラット・ローレンツが言うには 現代人は不快に敏感で種類を増やしているが 快感に鈍感になり減らしている。と見る。これでは 人生何を楽しみで生きていけと 子供に教えるのだろう。 お金持ちになれば高級車が買えると真顔で教える親になるしかないようだ。
今 子供の数よりペットの数のほうが多いという。
都会では 自分の思う通りになるペットを 可愛がるという超快感を少ない楽しみのうちの一つにするが それは 子供にも 妻や夫にも気をつけてものを言わなければならないが こと ペットにはどんな言葉も言いたい放題 その可愛がるといいたい放題がペットの最大の」魅力だが、そんな ペットのいないところがある。
島だ。僕の知っている島の数はわずかだが 日本海の孤島粟島には ペットがいない。
500人を少しこえる島民には 言いたい放題のペットの代わりに大自然があるのだ。荒々しい冬の海、ゆったりとたゆたう夏の海 ウオルトンの生の肯定時間が目の前にあるのだから ことさら 自分をなぐさめるものを必要としないのだ。
自然は住民に人工的な規制をかけない、人工的なものとは 物を作るとは いろいろな規制を守ることだ。コップひとつも ガラスの溶かし方 冷やし方 熟練工に習わなければ習得できない、そのことが 物を作る規制となる。その規制は見る者に君も規制をかけようと挑んでくる。
都会はその挑みに囲まれた空間だ。人工物だらけだ。
石膏ボードとビニールクロス 薄くはられたフローリングにサッシのアルミ
住宅のひとに挑む量はいや増すばかりだ。切れやすい子供の無意識の原因のひとつだと勘ぐっている。
音の愛好家が言うには 乱反射の壁面が良いというのは 自然とは直線を嫌うというように乱反射だらけで 平なものはなく 木や紙や土の表面はざらざらした質感のものばかりだ。その自然の反響により近い音が良い音と認識する。
また 光も 乱反射することで 紫外線のきびしさが和らげられ落ち着くといわれている。
ことほどさように 自然によって落ち着かせられている島民に ペットなど考えられないのだ・(生活の厳しさは都会も田舎も変わらない)
また 床材を無節の柾目、内法材も無節、壁は機械で引いたようなまったいらな左官では、質感は自然素材でも それを選んで使ったという規制が自然観のじゃまをする。
節だらけの木にざらざらした左官の一間にいると 好きに生きていいですよ と空間に説得されるので気持ちがいいのだと思う。節だらけで傷は目立たないし 壁もざらざらだから ひびがいっても 傷がついてもかまわないというように聞こえる。
僕たちは美しいという言葉を忘れている。自然の景色に感激してもきれいという。しかし 綺麗はきれいにしなさい!を含んでいる。都会の僕たちに挑みかかるものが綺麗の本質だ。綺麗は人工的なものの形容詞として使われるべきなのだ。
うつくしいはきたないことも含まれている、そして 相手との陶酔感がある。
だから 自然をも綺麗といってしまうとウオルトンの肯定の意味が消えてしまいそうだ。
モーツアルトを聞いていると 人工であるにかかわらず綺麗ではなく美しいという。そこに 芸術の意味 芸術は美を目指すが現れる。芸術は綺麗を目指さない。綺麗は工芸品につける」賛辞である。
養老先生がこどもなど 原生林に一週間放り込めばどんなやつでも健康になるとおっかないことを言う。
しかし そのぐらいのあら治療が必要なほど 子供が可愛そうだと思う。
社会にでれば 生活は植物でさえ苦しいのだから 人間が苦しみから逃れられるわけがない。イングランドの小説家 ウオールポールが 世界は考える者には喜劇と見え、感じる者には悲劇となる。という。そういう世界だからこそ 小学生ぐらい美しいささやかな瞬間を作ってあげるべきだと思う。
この夏 伊勢神宮外宮に行った、20年の式年遷都が新し物好きで古いものが嫌いな国民性を作ったと考えているが、まず どのお寺や神社も犬をつれても何にも言われなかったが 入口で警備員にここは神聖な場所だから 犬はだめですと初めて告げられた。いいでしょう この土地の持ち主の好き嫌いもあるだろうから と 家内と別々に見せてもらったが大切なところは 隠して価値を上げるとか、何々だからここは権威があるだとか なんだか勿体ぶっている印象がおこった、それでだろうが 通路以外に 杉の巨木がいたるところに生えているのを見て、なあんだ 大木があるから あんた神聖って言えるんじゃあないの と、この木が直径10センチぐらいの高さが2,3メートルぐらいの木に囲まれていたら と創造するとこの桧皮葺の建物が 変に惨めに見えそうだ。
そうだ もしかして われわれはこうして 木に守られているんじゃあないだろうか?とあらぬ 疑問が沸いてきた。サボテンで論じたように 木に備わっている感受性が我々を守ってくれているんだ、と そうだ 二酸化炭素を酸素にして供給してくれているのも 木ではないか。庭に木立があれば 夏の暑さからも守ってくれる。西北に生垣あれば冬の寒さからも守ってくれる。
しかし 木は我々を守っているのだろうか。
使われているだけなのではないだろうか?
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■18年1月15日■
昨年は手の込んだものいただきました うちの津久井など何時作る時間があるのでしょう?と自分の家事しないことを棚に上げて心配しています。
家内もツクイも鳥の肝は食べられません だから こちらに来て僕の口に入らないわけです。入らないことさえも忘れていたのですが 昨年の美味しいお弁当で思い出してしまいました。一度は僕の要望で作ってくれましたが そのご とんと 作ってくれません。
女性は料理番組を勉強のために見るのでなく かわいい犬を見るごとくただただ 美味しそうだと見るだけです。いつも見ている料理番組の美味しそうな料理が何時出てくるのかもう だいぶ前にあきらめていますが。
結婚話3題
その一 「先生惚れた女がいるのですが 結婚すべきでしょうか?」先生 「どしどしすべきだよ!良妻なら幸せだし 悪妻なら 哲学者になれるから」だから 現代は哲学ブームなのですよ。ソクラテスです
その二 「どこの夫婦も亭主は相手を最低と思っているし 女房は相手を最低と思っている だけど 交換して新しい者と一緒になっても 最低がくるに決まっているから 交換しないだけだ」「それは 自分の心の中身を覗いてみればわかるだろ!」ともいっています。
人類はわがままで飽きっぽくて最低だと。言いたいようです。山本夏彦
たぶん生命体はどの固体も親分(自分の思いどうりにしたい)になるべく生まれてくるようです。ゲノムでの話しです
その三 「結婚というものは 快楽だとか幸せを得るためにあるのでなく、不快な隣人を増やして 究極の不快のもとである子供と それらと共生することに 意味がある。理解も共感も出来ないものとの共生が結婚の根源的な意味である」
ユダヤ人のレビナス老師です。彼らはホロコーストを受けてその復讐を果たすことなく、復讐することはナチと同じになるからですが、考えも慣習も違う他人との共生を深く考えたのです。
ソクラテスおじさんは その後 「人生とは長くはない辛抱だ、」と締めくくっています。
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■こどもたちへ■
自分が ほしいものは そのひとに あげると 手に入れることが出来ます。
バレンタインのチョコレートはそのためにあげるのです。
チョコレートという意味のこもったものをあげると、ホワイトデーの日に意味のこもったもらいものがあるのです。
それは お友達にやさしく接していると あいてもやさしくしてくれる ということです。
いじわるする子に やさしくしてもらいたいときにも それは ききめがあります。
その子に「かぜだいじょうぶ?」とか 心配してあげると 相手もじょじょにやさしくしてくれるはずです。
お母さんにも それはききめがあります。
お母さんに「もっと私のことわかってほしい」とおもうなら、さきに お母さんのことを考えてあげれば きっと わかってくれるでしょう。
ほしいと思ったら まず それをあいてにあげてください
そうすると ほしいとおもったものが 手に入るのです。
それが バレンタインというぎしきの意味だと思います。
大昔から じんるいはそうして ひとびとと つきあってきたのですよ |
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