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糸市絹のまちめぐり

更新日:2015/2/23、掲載日:2014/10/5
 10月4日、「糸市絹のまちめぐり」と称して、伊勢崎市景観サポーター(会長・佐藤好彦さん)主催の境のまち歩きが行われました。後援は伊勢崎市都市計画課。一般参加者28名、伊勢崎市景観サポーター11名、伊勢崎市職員7名、合計46名の参加者が2班に分かれ、境赤レンガ倉庫を起終点として7つの建造物遺産を見学しました。説明員は景観サポーターの皆さんが分担。事前に下見や研修、会議を経て、この日に臨みました。今回の催しは伊勢崎市景観サポーター主催行事としては初の試み。
 翌5日からは、大型台風18号の影響が心配される中、この日はまずまずの天気。青空は期待できなかったものの、終日穏やかな一日。境の街中に残る貴重な建造物の建築的特徴や歴史などを目と耳で確認し、かつての例幣使道の宿場町であり絹産業で栄えた境のバックグランドについて学びました。
 ところで、実は私も景観サポーターのメンバー。ぶらりサイクリングで境の路地裏を走るのが気に入っていて、当サイト開設後、恐らく3桁に近い回数は訪れていて、その都度少しずつの知識を得ていますが(→境街なか風景)、人に説明するとなるとまた別の話。今までの散在した知識を再整理し、「境風土記」(篠木弘明著、境町発行)や「金子仲次郎の生涯」(金子緯一郎著、境町発行)などを読み直して準備し、何ヶ所かの説明員の役を分担しました。
 散策ルートの一部として歩く国道354号(旧例幣使道)は交通量が多い割には歩道がなく、路肩を歩く参加者の事故も心配。サポーターや市の職員さんが保安指示棒を手に持ち、交通安全にも気を配ります。
 一般参加者にはアンケートが配布され、この行事の感想などを問いました。景観サポーターの活動の示唆を得ることと思います。次回のまち歩きが開催されるかどうか、今後に委ねられますが、まずは今回のまち歩き「糸市絹のまちめぐり」の様子をご覧ください。(2014/10/5 記)

※掲載した写真は主に当日のA班の様子ですが、私自身が説明員などで撮影できなかった場所や撮り忘れたシーンは、下見や別の機会に撮影したものを掲載します。2010/12/18の日付けは(財)境地域いきいきアイ主催のまち歩きです。


境まち歩きの起終点となった赤レンガ倉庫と参加者の皆さん。

糸市絹のまちめぐり」ルート。歩程約1.7km。→当日配布した上図を含むマップ資料はこちら

掲載日:2014/10/5 ▲ページTopへ
開会と全体説明

佐藤会長のご挨拶 2014/10/4

サポーターの栗原さんの全体説明 2014/10/4

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赤レンガ倉庫と買場通り
境赤レンガ倉庫特集はこちら

A班の赤レンガ倉庫見学(説明はサポーター加治屋さん)
2014/10/4

A班の赤レンガ倉庫見学(説明はサポーター加治屋さん)
2014/10/4

赤レンガ倉庫 2014/9/6

赤レンガ倉庫のキーストーンに刻まれた「さ」のマーク
2014/9/6

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宏遠館と三夜堂跡

A班の宏遠館見学(説明はサポーター岡部さん)
2014/10/4

A班の三夜堂跡見学(説明はサポーター岡部さん)
2014/10/4

宏遠館 2014/10/4

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土蔵造り商家

A班の土蔵造り商家見学(説明はサポーター岡部さん)
2014/10/4

2010/12/18のまち歩き
土蔵造りを知る上で貴重な建築的要素が
建物各所に残されています。

2010/12/18のまち歩き
旧板倉屋薬局

A班の板倉屋薬局屋敷内見学(説明はサポーター岡部さん)
2014/10/5

2014/8/9

2010/12/18

2014/8/9
旧板倉屋薬局さんの3階建て洋館は昭和8年建築。
旧蚕業試験場旧世良田村役場と同様に
当時の群馬県職員・小林半治氏の設計。
壁面はモルタル洗い出し仕上げ。

2014/10/5

2010/12/18

2014/8/9

2014/8/9

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井筒屋
井筒屋さんは大正末期から昭和初期の建築。

2014/8/9

屋根には鯱(しゃちほこ) 2014/8/9

2階軒部分の卯建つ(うだつ) 2014/8/9

壁面はモルタル洗い出し仕上げ 2014/8/9

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土蔵造り商家:斎藤家

斎藤家(国道354号側) 2014/8/9
斎藤家は明治42年(1909年)建築で、典型的な町屋形式。
国道側と西隣のガスト駐車場からの眺めが素晴らしい。
A班の斎藤家見学(説明はサポーター関口さん)
2014/10/4

敷地内で最も古い土蔵。左下は井戸端。2014/8/9

敷地西側に建つ土蔵。大正4年建築。 2014/8/9


東隣り(画像左)の斎藤本家は、壁の額縁や鬼瓦等が
一回り大きい。右が当家。 2014/8/9

町屋形式を顕著に示す西隣のガスト駐車場からの風景。 2014/9/6

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織間本陣跡
現地に立つ説明板(下記)

 旧例弊使街道(*)、境宿織間本陣は寛文二年(1662年)に伊勢崎藩士鶴田弥太郎氏の家を当地に移築したもので、わら葺平屋建ての主家と片袖付門構えは古い建築様式をそのまま残し旧本陣として境町の町指定史跡であった。本陣跡の建物は門をくぐり大玄関を上ると九個の室を配し、広い土間(ダイドコ)や貴賓の上座の間を有した。
 上座の間から見る中庭には見事な松樹があり来遊した江戸の学者、古賀?庵は織間本陣を蒼松幹と命名し、また文学の名をもって有名な安中城主板倉甘雨亭候はここに御小休されたときこれをほめ讃えて蒼松幹の軒記を書き与えたのである。
 本陣は例弊使街道を上下する諸大名をはじめ、とくに毎年四月京都より下向する例弊使や公卿門跡衆の休泊を主とした。そのとき門前に掲げた関札と呼ばれた泊り札が現在も五十余礼保存されており、当時の面影を残している。
 寛政三年(1791年)四月十二日、小林一茶は江戸から信州へ行く途中、織間本陣の家主である俳人専車を訪ねたが不在で会うことができなかったので
  - 時鳥我が身ばかりに降雨か -
の一句を残して立ち去ったことが一茶の帰郷日記に書きとめられている。

境町教育委員会

(*)「例幣使街道」は、現在、正式な呼称を「例幣使道」としていますが、ここでは原文のままとしました。


織間本陣跡の石碑。一茶の句が刻まれています。
2009/7/25


織間本陣の間取り。9つの部屋。



織間本陣の側面図

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絹の館

絹の館(旧金子仲次郎居宅) 2014/9/6
 絹の館は、明治20年、境町下武士に生まれ、機織業として成功した金子仲次郎の居宅を、仲次郎の死後、夫人と子息が境町に寄付した建物です。工場敷地も同時に寄付され、そちらは境図書館本館と駐車場として利用されています。
 下記文章は、寄付を受けた当時の境町町長・新井暢太郎氏が建立した金子仲次郎顕彰碑の全文で、「金子仲次郎の生涯」を引用しました。
■「金子仲次郎の生涯」顕彰碑文の解説、■昭和58年1月21日 発行、■発行者 境町、■印刷所 桜井印刷

金子仲次郎顕彰碑

境町長 新井暢太郎謹書

 秀麗な赤城嶺の姿を北空に仰ぐ境町に、金子仲次郎は、明治二十年一月二十六日(一八八七年)父助作母いその長男として生まれる。幼少の頃からそのオの閃きを見せ、長じて群馬県立伊勢崎染織学校に学ぶ。父は不慮の災難のため多額な負債を残し、明治三十七年六月四十八歳で没した。そのため仲次郎は十八歳で家業の内地向織物製造業を継承し、また弟妹の父親代りともなって苦難の道を発足した。しかし天性の秀れた経営手腕と不屈の精神は次々と新機軸を生んで、家業は急速に繁栄し多額な負債もまたたく聞に返済した。またその製品の独特な優秀さは、一流デパート三越の厚い信頼を受け
て、直接取り引きをするまでになった。こうして大正五年三十歳には一流機業家としての名声を広め、昭和二年四十歳の時伊勢崎織物組合の重鎮となり、以来伊勢崎銘仙の進歩発展のために多大な貢献をした。またおされて境町議会議員ともなった。

 絶えず新知識を求め創始の業を開く仲次郎は、昭和七年四十六歳の時、大きな転換を遂げた。未来への明断な見通しと英断をもって三越等との内地向安定市場を自ら捨て、その企業を輸出向織物に切り替え、当時の東毛業者たちにとってその先駆者となった。以来しばらく続いた苦難の道も克服し、金子輸出織物工場は隆盛を極めて、その名は関東関西に広く知れ渡った。こうして企業は愈々躍進を続ける途上、不幸にも病魔に犯され、昭和十三年五月二十一日(一九三八年)前途を惜しまれながら他界した。享年五十二歳。

 仲次郎はその生涯を通し「富を残さず徳を残せ」等の自らの信念を貫いた。町の学校や公共福祉の諸団体にしばしば私財を寄付しその死に際しても同様な寄付を遺言として書き留め、その志を果たした。また一族への世話と共に恵まれぬ幾多の家庭の子弟には、学資を援助しその育英に温い手を差し伸べた。工場従業員には厳しくもまた寛容な心で接しその成長を末永く見
守ったと聞く。その他陰の美徳は数知れず仲次郎を「陰徳の人」とも語り伝えている。これら数多くの遺徳は後進の人々への薫り高い教訓となって今もなお生き続けている。
 金子輸出織物工場は、昭和十六年に勃発した太平洋戦争の影響を受けて、止むなくその業を同十八年に転換し、仲次郎夫人るい氏及び子息政志氏がその後を守って今日に至った。

 このたび、両人は仲次郎の遺志を継ぎ、その居宅約三一九平方米及び同工場の敷地等約五三二三平方米を境町に寄付された。その行為は偉大であり、奇特の極みとする。このたび、同工場敷地内に一碑を建て金子仲次郎の業績と人徳を諮え、これを後世に伝える。
昭和五十四年十二月十一日建立
建立者 境町長 新井暢太郎

絹の家を南西側から 2009/7/25



南東側から 2009/7/25



北東側から 2009/7/25

絹の家の玄関 2009/7/25

2つの碑が建物の西側にあります。
2009/7/25

母の碑 2009/7/25

金子仲次郎顕彰碑 2009/7/25

輸出織物時代の金子工場の一部(合資会社金子輸出織物工場作成の絵はがきより)
(「金子仲次郎の生涯」の挿入写真を引用しました)

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全体まとめ、アンケート記載など
 この日、A班B班共に、多少の時間差で絹の館に到着し、受付で渡された栄寿堂さんのきんつばを食べ、お茶を飲んで一息し、全体のまとめや質問、アンケート記載などを行いました。
 「糸市絹のまちめぐり」の約2時間半。歩程約1.7km。地元の街をゆっくり歩きながら見学し、歴史を知ること、意図的に作り出さないとなかなか得られない機会と思います。
 次回開催があるかどうか分かりませんが、皆さんなりに独自に歩いてみてはいかがでしょうか。またこの催しが、赤堀地区やあずま地区のまち歩きの刺激になれば嬉しいことです。(2014/10/5 記)

2014/10/4

散策マップ

掲載日:2014/10/5 ▲ページTopへ

境・糸市・絹のまちめぐり 散策マップ

(→上記マップのPDFファイルはこちら(1.30MB)

案内

掲載日:2014/9/21 ▲ページTopへ

※上記案内を印刷する方法→(1)案内文のどこかで右クリック (2)「画像を印刷する」
チラシのPDFファイル(543KB)





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