伊勢崎風土記について
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 (この文章の前半は『伊勢崎風土記』に関する記述で、後半は、『伊勢崎風土記』(「群馬県史料集 第2巻 風土記編Uの訳及び校註を書いた故渡辺敦先生のことである。渡辺先生は、伊勢崎・佐波に関する郷土史研究の恩人というべき人であり、著述は古代史、中世史、近世史のみならず、民俗学にも及び、伊勢崎市立図書館にもその原稿を綴じた写本が多数ある。しかし、過去のひとになり、多くの人達に忘れられた存在となってしまった。この場を借りて、『伊勢崎風土記』を系統的に研究された渡辺先生のことも故橋田友治先生の解説から引用しておきたい。)
 
伊 勢 崎 風 土 記 解 説  橋 田 友 治 『伊勢崎風土記』は、伊勢崎藩酒井家の藩老関此面重廃 (このもしげたか) の著作で、寛政十年(一七九八)五 月、藩主酒井下野守(後駿河守)忠哲(ただあきら)に 提出された漢文で書かれた伊勢崎領の地誌である。重靂はこの著述に当って、浩斎常見要蔵一之の「伊勢 崎古老伝記」(一名赤石風土記)星野本太夫依親編の 「伊勢崎町新古日記」、更に元文三年(一七三∧)藩が 代官柴崎尉太夫に命じて、領内各村々から提出させた 「古来の儀書上帳」等を資料として参若したものと考え られる。重廃は序文で、地志は「室中にて周ねく四境の事を知 り、坐(い)ながらにして万邦の風俗を察し、億兆の情 に通じて、而して能く風化を成す。」ためのものとして いる。 「伊勢崎風土記」が重疑により編述された当時、領内の 全貌を知る書物として識者から珍重されたが、何分出版 の不自由な頃のことで、ぜひとも必要とする人々によって、次々と転写されて用いられた。 特に重痩が蟄居中に朱註を加え、追加附録を執筆する等のこともあって、数種の伝本に多少の差異があり、ま た旧伊勢崎領内の各地に伝本するものの数も多い。これ らの中で比較的善本と考えられるものは次の六種である。  @相川考古館所蔵本(閑重疑自筆本)
 A佐波郡役所旧蔵本(岡田義謙筆写本)
 B伊勢崎町役場旧蔵本(筆者不詳)
 C伊勢崎小学校旧蔵本(柳岡留書筆写本)
 D戸谷塚飯島家蔵本(飯島義清筆写本)
 E相川考古館所蔵写本(筆者不詳)
 この他にも数本があるが、今回の訳註に当って、渡辺 敦先生は、昭和十一年刊の訳文伊勢崎風土記の底本に用 いた@の重嶷自筆本を使用されたい考えで、相川徴子さんに借覧方を申入れ、徴子さんも捜して下さったが、夫 君が病臥中のことでもあり、収納箇所が不明とのことで Eを提示して下さったが、これは現在伊勢崎市立図書館が所蔵するB及びCと同様に写本であるため、渡辺先生 は訳文伊勢崎風土記出版の折、自筆本と校合されたCを 底本として、B及び訳文風土記を参考として、今回の訳 註の原本原稿を作製された。
 この間渡辺先生が種々心を砕かれたことは毎日机を並べて仕事をしていた私の、親しく目賭した処である。以上の様な事情で伊勢崎図書館本を底本として多少の校訂を試みられた様子である。しかし諸種の異本がすべて誤用している文字、たとえば勢田郡の田、由良戌盤の盤等 は、閑重疑自身の誤用と考えられて、勢多郡、由良成繁等に原文においては訂正されずに、原本の体裁をなるべ く残そうと心がけられたあとがうかがえる。
 訳註に当っては、先生の五十余年に捗る郷土史研究の藷蓄が遺憾なく発揮され、頭註という労のみ多くして、 評価されることの少い仕事に心血を注いで没頭された。 七十八歳という高齢の先生が、昼夜の別なく原稿用紙の 上部五字分の研日の中に、一行十字二十字宛端正な細字 で、びっしりと書き込みをされてゆき、時には頭註というよりも、先生の研究にまでも捗る箇所が少くない。こ のことは渡辺先生の多年の研究の凝縮されたものが表れたのであり、伊勢崎地方の郷土史を研究する後学の老に とっては貴重な手引きとなるものである。しかし先生御自身は、頭註としての字数の超過を苦慮されて、何度も 書き直しをされて、原稿用紙の上に鋏と糊で細い貼附を 行っている。所によっては二度三度と訂正して字数の超 過を極力抑止しょうと苦心した跡が歴々としてうかがえて、通例の著述以上の辛労であった事と考えられる。
 特に急逝される一週問程前まで、この頭註の訂正を続けられたことは、今となっては生命を削るお仕事だった とさえ感じられる。 これ程苦心された頭註も、漢文脈の文語体であった 為、他の筆者との振合い及び、読者〆便のため、口語体 の文章に改めることとなり、その役割が私に課されるこ ととなった。
 文語体の文章を口語体に直すことは簡単なようであり ながら、さて実際にとりかかるとどうして生易しい仕事ではない。どうしてもニュウアンスに微妙な違いが出て来るし、しかも出来るだけ先生の文章の体裁を残したい と考えた為、思いのほか苦しい仕事となった。従ってこの頭註の文章については、不備な点はすべて私の責任で ある。
 なおこの伊勢崎風土記訳註は渡辺先生の遺稿であるので、先生の書かれた原稿は、そのまゝの形で残したいと 考えて、印刷用原稿は全文私が筆写して編集委員会に提出した。先生の原文について見たい御希望の向きは、伊勢崎図書館に収蔵しているので、ついて見られたい。    渡辺敦先生は明治二十年群馬県新田郡太田町で、当時小学校長で漢学者だった建太郎の三男として生まれ、県立太田中学卒業後群馬師範本科第二部卒業、教員生活二十年の後伊勢崎図書館に職を奉じ、昭和二十五年図書館長の職を退いて後も、終生の仕事として伊勢崎市誌編纂の仕事に没頭されていた。
 郷土史研究は、明治四十三年群馬県令による「伊勢崎 町郷土誌」の編纂委員の仕事が振り出しで、伊勢崎地方史の研究をライフワークとされ、地味ではあるが堅実な 研究業績を多く残された。特に関孝和系譜の発見、松陰 私語第一巻の発見等の他「伊勢崎風土記訳文」「伊勢崎 市の今と昔」の著書の他、伊勢崎史談会を主宰して「伊勢崎史話」誌上に有数十篇の論考を発表、昭和三十七年 には郷土史研究の業績によって、「群馬県文化賞」を贈 られた。ただ残念なことは、終生の念願とされた「伊勢崎市誌」の脱稿を見ることなく、かりそめの感冒に急性 気管支肺炎を併発、昭和三十九年十一月九日急逝された。 享年七十八歳。
 最後に、この伊勢崎風土記訳註は、渡辺先生の遺稿であるという理由によって、他の方たちの訳註本の体裁で ある原文と訳文を別々にすることなく、原稿の通りに原文の段落のすぐ後に訳文を附す体裁をとって戴いた。こ の事も、出来るだけ渡辺先生の遺稿の体裁をそのままの形でという、遺族及び関係者の希望をいれていただいた 為である。
 附記して感謝やらおわびにかえる。
『伊勢崎風土記』(「群馬県史料集 第2巻 風土記編U 抜刷」3〜5頁
 数文字を変更した。
 15関重嶷著『伊勢崎風土記』ほか2点    
 53関當義・重嶷父子の墓