関當義・重嶷履歴
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 重嶷は宝暦六年(一七五六)九月三日伊勢崎藩中で生
まれた。父は藩老関助之丞当義(まさよし)、母は関善
之丞俊倫(酒井忠挙の臣・三百石)の妹寿世で重嶷は長
子である。
 伊勢崎の関家は、延宝九年(天和元年・一六八一)酒
井雅楽頭忠清の二男下野守忠寛が二万石を分知されて伊
勢崎藩主となるとき、重嶷の曾祖父助之丞正友が藩主補
佐の年寄役を命じられ、以来助之丞当意、助之丞当義と
何れも藩老の重責に任じた家柄である。
 関氏は桓武平氏高望王の後胤、秩父庄司畠山重忠の末
裔、新田義貞麾下の猛将篠塚伊賀守重広の血筋をひく
が、子孫に至って下野から三州関村に転住して関を氏と
し、のち酒井重忠に仕えて、酒井宗家の国老に列する家
格であった。
 重嶷の父助之丞当義は幼名豊五郎、次いで豊之進、の
ち助之丞。字は子重、致仕後は譲斎と号し、俳号は亜
白。ほじめ伊藤仁斎の古義の学を学んだが、後に程伊
川・朱熹の学を奉じ精励恪勤、明和の藩財政窮乏の建直
し、安永の三代忠温に対する直諌、天明三年七月の浅間
大爆発後の治荒救民、更に藩中に学習堂を設置して、村
士玉水門下の小松原醇斎を招いて藩内子弟に学問を奨励
する等嫡子重嶷と共に、その藩侯補佐の施策には見るべ
きものが多い。また考古に趣味を有して、聞見謾録十三
巻その他の著述も多かったと伝えるが、天保七年に藩中
で類焼の厄に遭い、その大部分を焼失して伝わらぬのは
残念なことである。文化元年(一八〇四)八月十四日卒、
七十二歳。
 重嶷は幼名助五郎のち此面と称し、字は子岐、睡峒
また喚醒と号し、容膝亭ともいった。また俳譜をたしな
み俳号は逾白。自撰の墓誌には、「予が性は頑蒙、才識
は黯浅にして、自奮以って先訓を嗣ぐ能わず。」と謙遜
しているが、宝暦十三年(一七六三)に、八歳で藩主駿
河守忠温に謁して、御小性頭の班に列し明和八年(一七
七一)十六歳で側用人に加えられる等、藩老の長子とは
いっても、その才幹が俊敏で衆をぬきんでいた事が知ら
れる。         
 若くして闇斎学派の村士玉水に学び朱子学を究めた。
安永三年の藩政改革、天明の救荒、藩学の振興等父当義
をたすけて、重嶷の力も与って大きなものかあった。天
明八年(一七八八)十月父当義致仕により家督を相続、
高四百石で年寄加判に列した。時に三十三歳。寛政九年
(一七九七)四十二歳で年寄本役となり国表家老となっ
た。かくて翌十年伊勢崎風土記の編述、藩内子弟の文武
奨励、領内郷学の振興等につとめたが、文化十年(一八
一三)罪を得て蟄居閉門を命じられ、食禄三百石と家督
は子息求馬重邑に仰付けられた。時に重嶷五十八歳。
 重嶷問罪の事情ほ現在では詳かにできぬが自撰の墓誌
に重嶷は「予槽櫪の庸歳を以って銓衡に居ること十数
年、勤労の以て君に報ゆべきなく、異政の以て土民に及
ぼすべきなかりき。是を以て言う老の詆怒を致せり。予
や愚、能く機微を察せず、遂に悔咎を取れり。是れ自ら
災を招ける所以にして人の能くする所に非るなり。先を
辱しめ家を害す。不孝焉(これ)より大なるはなし。云
々。」と述べているが、父子二代にわたり執政の座にい
る重嶷に対する反対勢力も、長年月の問には培われた事
であろうし、権力をめぐる派閥争いの陰謀がざん言の形
をとり、重疑の蟄居閉門となったのである。
 かくて以後天保二年(一八三一)伊勢崎酒井七代の藩
主忠恒(出雲守・志摩守)の初入部の折まで、十八年間
関氏の家は暗雲に閉されることとなった。重嶷失脚の折
の藩主は五代忠寧であり、次の六代忠良の代にも許され
ずに、忠恒に至って漸く許された訳である。
 重嶷はこの十八年間に以前執筆した伊勢崎風土記に朱
註を施し、追加附録を附す等のほか、読書と著述に心中
の欝屈を僅かに散じたものであろう。しかし天保七年
 (一八三六)新町の民家から起った火事のため、城内
の土星敷も類焼、関、速見、石原等の家中の邸も類焼し
て、前にも記したように関当義の著述のほか重嶷の書い
たものも焼失して、現在見られる重疑の遺著は、「伊勢
崎風土記」「村士玉水先生行実」「沙降記」「発墳暦」
「古器図説」「教民要旨」「水道遺愛碑文」「②肋雑記
甲乙丙丁四冊」「②肋雑記追録一冊」「月の往釆」のみ
であり、このうち「月の往来」のみ和文体で他は漢文で
ある。
 重疑は生涯に妻を三人娶り、何れも先き立たれた人
で、家庭的にも決して恵まれたとはいえぬ人であった。
即ち初めの妻三寧(みね)は高崎藩士原田氏の女で、安
永八年十四歳で入嫁、天明元年十六歳で死去。次の妻美
和は同じく高崎藩士坂部氏の女。天明二年二十一歳で入
嫁、貞淑で和歌をよくし、重嶷とも琴瑟相和して二男二
女を生んだが、享和元年八月十八日、産褥の予後の過労
がもとで三十九歳で死去。三回日の妻筆(布天)は伊勢
崎藩士小林久左衛門の女で、はじめ駿河守忠温の夫人に
仕え、のち夫人所生の兼姫につき、婚家先にまで供をし
たが、兼姫は発狂、終身兼姫に奉仕しようとしたが、た
またま重嶷が妻に先立たれて不自由をしているので、主
君から声がかりで入嫁、年三十一哉。この人も文化九年
二月十六日病没。重療と共に生活したのは十年であり、
男女二子を生んだが、何れも早世した。
 重疑はこのように妻に先立たれる不幸を見たうえ翌文
化十年失脚することとなったのである。かくて十有八年
の長い憂悶の生活の後天保二年忠恒公の初入部の折、親
しく召出されて慰労の言葉を賜り、嫡子重邑は藩老に列
し、孫重暉も近習に召出され、関家を覆っていた暗雲も
漸く晴れた。
 かくて五年後の天保七年一月二十五日に火災による類
焼という災過に遭い、父当義の著述や自分の著述等も焼
失の憂き目にあうに至った。この年十二月十七日、重嶷
は伊勢崎藩中の邸で病没した。時に年八十一歳。葬地は
同繁院。法名関高院廓然睡峒居士。
                  
『伊勢崎風土記』(「群馬県史料集 第2巻 風土記編Ⅱ
 抜刷」3~5頁
 数文字を変更した。
    15関重嶷著『伊勢崎風土記』ほか2点    
    53関當義・重嶷父子の墓