板東大橋之碑解釈文
    坂東大橋之碑
                           若槻礼次郎書す。
坂東大橋の碑  内閣総理大臣、正三位、勲一等、男爵、若槻礼次郎閣下、題額す。
上武の境を画り、刀水(利根川)洋々として、東する処、一大長橋を架す、題して坂東大
橋という。長さ九一七・五メートル、幅一〇・七メートル、工費一二八万余円、その建築
の剛堅と、その結構(組み立て)の壮麗とは、両々相まって完璧に近く、橋の姿巍然(抜
きん出て偉大なさま)、威容堂々、なお蜿々(美しくしなやかなさま)たる蒼龍の深淵を
出でて、まさに九天(極めて高いところ)に騰らんとするが如く、真に近代の一大偉観た
るに庶幾(近)し、けだし、この地や、上武の要津(要所)に当り、つとに、八山架橋組
合(八斗島・山王堂両村の組合)なるものあり、梁舟(舟橋)を浮べて、交通の便を図り
たりといえども、潦漲ひとたび奔会すれば、行路たちまち断絶して、また施すに術なし、
ことに輓近(最近)、産業発達して、物資の輸送ますます繁激を加え、長くその旧態に在
るを許さず、有志よって相謀り、すみやかにこれが済策(策をなす)を講ぜられんことを、
その筋に願うや、切なり。この間における地元町村、特に機業団の犠牲(身命を捧げて他
のために尽すこと)と、本郡選出県会議員らの努力とは、じつにこの橋をして今日あらし
めし所以なりというべし。すなわち大正十三年、その管理、県に移り、無賃橋となりしも、
しかもなお、不便不備尠からざりしを以て、これをやや完備せる耐久橋に架換せんことを
冀い、日夜奔走、財貨の寄付を求め、普く地方の有志に訴えて、多大の協賛を得、これを
本県に致る、県また見える(考える)所あり、十五年、木橋架設の経綸(方策)を樹て、
埼玉県の同意を需め、これを内務大臣に禀請す、たまたま上毛電気鉄道株式会社また、こ
れと雁行(並行)して、専用橋敷設の計画あり、合同の慫慂(誘いすすめる)を受く、す
なわち同会社と交渉、議ようやく熟す。ここに設計を変更して木橋を鉄橋となし、昭和四
年認可を得、同年二月起工式を行う、爾来、鋭意、工を董し(監督し)、幾多の障碍(障
害)を排して、営々二十余月、全く工を竣え、六年六月、日を卜して落成式を挙ぐ。想う
に我が上毛の地、峻嶺、西北に起伏して、北越と腹背、相隔絶し、東南に坂東太郎ありて、
長江滔々、上武の脣歯(密接な間柄)を相沮む、今やここに上越鉄道の開通ありて、比隣
(近隣)相呼応し、南に坂東大橋成りて、輔車(相たすけて離れにくい関係にあるもの)
相来往す、県民の幸福、それ幾何ぞや。ここに有志相謀り、碑を建てて、本橋完成の由来
を述べ、これに参与せし名士の芳躅(あしあと)を録し、永く後昆(子孫)に伝えんとす、
予(自分)、たまたま本県に知(知事)たり、嘱(頼み)に応じ、文を撰し、併せて書す、
銘に曰く、
  山の聳え水の漲りは、神が創り鬼が造る。
  鉄橋蟠きな処、車馬周行す。
  済民鴻沢(人民を救う大きな恵み)、天地と共に長し。
昭和六年六月  群馬県知事、正五位、勲四等、堀田鼎
                                中村雲鳳刻す。