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■建設現場で■

 ある建設現場でのことです。
 その現場は大型ショッピングモールの進出に伴い、敷地周辺に用水や側溝整備、歩道新設、道路新設等の工事を行っていたのですが、その内の一つの道路新設現場に訪れた時です。
 私はいつものように工事の様子を遠目に眺め、写真を撮ろうと現場の近くへ寄った時、工事の人と目が会い、どちらともなく挨拶を交わしました。すると私から声を掛ける間もなく

「ホームページの人ですか?」

と聞かれました。ただ驚くばかりの私は

「あっ、えっ、はい、そうです。・・・・でもどうして分かったんですか?」
「ホームページで検索していたらこの現場が出て来て。自分の現場が載っているのでビックリしました。」
「あ、そうですか。それはどうもありがとうございます。」
「自分の仕事は建設現場の中でも地味な部分なのに、自分が担当した工事の画像が掲載されていて本当にビックリしました。とても嬉しかったです。毎日見ています」と。

 その人が作業していた現場は新設道路の端部の縁石基礎や路盤工事でした。
 確かに建設現場ではダムや建物、橋梁等、目線より上の建造物の方が目立ちますが、どんな建造物でもそれらを支える基礎がなければ建てることができません。完成してしまえば目立たない部分ですが、とても重要な作業工程です。
 道路工事では、側溝や縁石の基礎工事は、道路が設計図通りに仕上がるかを決める第一歩目の重要な作業です。フィナーレを飾る舗装作業は短時間で終了しますが、基礎や路盤工事は測量や掘削、整地、埋め土、転圧、コンクリート工事、二次製品敷設等々、長い期間を要します。関心の無い人に取ってはいつになっても変わっていないように見えますが、実は着実に進んでいます。

 私も道路建設現場を掲載する時は作業者の想いを胸に秘めて掲載していますが、その現場の人に喜んでもらえたのは、私に取っても限りない喜びで、このサイト運営へのエネルギをもらいました。

帰り際、私が
「建設業界が不景気な時にこれだけの大規模開発だと景気がいいですね」
と言うと
「いやぁ〜、ウチなんか下請けの下請けですから」
と謙虚な発言をしていました。
 公共事業が縮減し、厳しい状態が続く建設関連業界ですが、頑張って行きましょう!
 (2007/8/19 記) →建設用語

■U先生の事■

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 私は45歳の時に大腸癌の手術をしました。
 年1回の市民病院での健康診断で便潜血反応が四年間連続で出ていたのですが、痔を持っていたので二次検査の時にはいつも自分から先手を打って
「先生、私は痔を持っているので、多分その出血です」
 お医者さんの方も「そうですか、それじゃ様子を見ましょうか」と。
 四年目にいつものように自分から先手を打ちますと、今回は
「・・・・そうかも知れませんが、四年連続ですから違う病気も疑った方がいいと思います。検査だけでもしてみましょう。」
 早速に注腸検査をしてレントゲン写真を見るとS状結腸部に何やら白い物が写っていて。検査入院して摘出すると3cmを超えるポリープ。
 摘出したポリープの細胞を調べると
「ポリープの中に癌細胞がありました。独立した細胞ならば良かったのですがあいにくリンパ腺にくっ付いていたので大腸も切除した方がいいでしょう」と。
 その後、ポリープのあった位置の前後の大腸を10cm程度切除し、切除した箇所の細胞には幸い癌細胞もなく、六年目の診察時には
「もう大丈夫でしょう。今回の大腸癌に原因する転移はないと思います」と。
 健康診断、二次検査、注腸検査、ポリープ摘出、細胞診査、大腸切除と半年間余りの出来事でしたが、あれよあれよと言うテンポで。
 でもお陰さまで手術以来12年が経ちますが幸いにも何の癌にもかかっていません。
 これも四年目の二次検査時のお医者さんの指導があったからで、あの時もいつものように痔のせいにしていたならば、手遅れになっていたかも知れません。深く感謝しています。それと、素人が余計な口を挟むのは慎まなければと反省しています。思い出すに便潜血反応が出た頃、ダイエットしているつもりもないのに体重が徐々に減って来て、自分でも何でだろうと疑問に思っていたのに、全く愚かな事でした。

 45歳で癌と言われた時、小さいながら従業員が何人かいる会社を経営し、子供も中学3年生を筆頭に3人いて、万が一の事があったら従業員や家族が可哀想だと冬の賞与計算をし、組織を見直し、核になる社員にその旨を伝え、あれこれと 入院前にできる手を打ちました。
 言い出しにくかったのは子供達に対してで、ギリギリ伏せていました。
 ある日の夕食後、子供達に伝えた時、誰も言葉もなく神妙な様子で話を聞いていましたが、その部屋にいたたまれなかったようで、みんな自分の部屋に去って行ってしまいました。
 子供達が大きくなってからの後日談では、その夜は少しも眠れずにずっと泣いていたとのことです。

 入院の少し前に年に一度の社員旅行があり、社員も楽しみにしているイベントで自分が不在なのも申し訳ないと考え、予定通りに実行しました。
 マイクロバスで金沢兼六園経由で能登半島の和倉温泉や輪島まで足を伸ばす能登半島一周旅行です。初日の兼六園近くの料亭での昼食は美味しそうなご馳走でしたが、気分が落ち込み砂を噛むような味でした。でも、この昼食後は気持ちが切り替わり、美味しい料理や名勝地、景勝地を十分に楽しみました。旅行の途中で、何か驚くような場面で「ガ〜ン!」とオヤジギャグを飛ばし、笑うことができない社員を困らせてしまいました。
 旅行中の能登半島はどう言う訳か冬なのに猛烈なヒョウが地面を真っ白に覆うくらいに激しく降ったか思えば、そのすぐ後にはカラリと晴れて今度は虹が出てきたり、空が真っ暗になるほど 土砂降りの雨が降ったかと思うと、その後青空が晴れ渡り、「この旅行が最後になるのかな」と感傷に浸る間もなく目まぐるしく変化した天候で、自分なりに「これも何かの示唆かな」と。

 入院前にもう一つのイベントがありました。自分が幹事をしている登山中心のOB会の恒例行事で、その年も大型バスをチャーターして西上州の「『篭ノ登山』登山と池の平散策」 の計画です。この時、仲間に伝えると心配すると考え、もう一人の幹事Mさんにも仲間の誰にも伝えずに例年通りに実行し、皆さんと一緒に登山したりデッカイ鉄板焼きで焼きソバを作ったりと 楽しんで来ました。
 とは言え数週間後には入院が決まっていたので、例年の気分とは少し違っていましたが。それと、今思い起こすに、全てを知っていて同行した妻が誰にも話せなかったのが辛かったのかなと思っています。

 実は、この登山会の後、OB会メンバーのU先生から自宅に電話があったことから私が癌の手術で入院する事が分かってしまいました。それ以降、U先生が見舞いに来てくれる事がしばしばで、入院の日に来てくれたかと思うと、学校の帰りに「ちょっと通り道だから」と通勤ルートを迂回して何回も寄ってくれ、休日にはご夫婦で面会に来てくれて、入院は1ヶ月とちょっとの期間でしたが、何回来てくれたか覚えていないくらいです。

「先生、手術の当日は麻酔でずっと眠っているらしいので来なくていいですから」 と伝えましたが、手術の当日、数時間の手術を終えて個室に戻され、部屋の中で麻酔が覚め始めた頃、個室の入り口からそーっと誰かの顔が覗き、思考回路が怪しいながらも良く良く考えるとU先生で。
「迷惑かと思ったんだけど、やっぱり、心配で来てしまいました。家内も手術の日はかえって迷惑を掛けるから行っちゃ駄目って言ったんだけど」
 私も自分の身体が逆さになっているような、グルグル回っているような、暑いような寒いような意識が朦朧としていましたが、先生と少し会話を交わすことができ、 先生も「顔を見たからこれで安心して帰ります」と帰られて。

 U先生は私の恩師ですが、それ以前からお互いに夫婦同士で登山や飲み会、食事会など行ったり来たりのお付き合いをいただいているのですが、いつも家族以上に心配してくれて言葉 で言い尽くせないほどに感謝しています。
 U先生が今になってもまだ最後まで話し切ることができない事があります。
 私が「『篭ノ登山』登山と池の平散策」をいつもの年中行事と変わらない様子で幹事をした事についてなんですが
「登山の時に既に癌の手術で入院するって分かっていたんだよね。
それを誰にも言わないで皆を連れて行ってくれたんだよね。
今思えば、いつもなら全行程を歩くのに「篭ノ登山」だけで下山したからやっぱり大変だったんだよね」
と。
 活字にしてしまうとこう言う事なんですが、U先生は今になってもまだ、これを最後まで話し切る前に喉を詰まらせてしまいます。(2007/1/26 記)

■ふれあいスポーツプラザでのこと■

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 旧赤堀町にある群馬県立ふれあいスポーツプラザがオープンした時、家が近いことや建設中から「どんな施設なんだろう。運動不足解消のために通ってみようかなぁ」などと考えていましたので、早速に訪れてみました。
 ガラス張りの明るい入り口を入り、勝手が分からないまま大きな玄関ホールでウロウロしていると、事務所の中から年配の男性が近付いて来て、突然にこう説明されました。
「この施設は身障者や高齢者向けに作られた施設です。一般者も利用できますが、あなたは健常者でお若い(当時は私も若かった)ので、その点を良く理解してください。でも今日はせっかく来たのですから、施設を見学して行ってください」
 決して「来るな」とは言いませんでしたが、その口調は来てもらっては迷惑と言った雰囲気でした。

 実は私はこの施設が「身障者や高齢者向け」と言う事を知らずして訪問してしまったわけです。
 何だか楽しみに訪れたばっかりなのに、イタズラをした子供が叱られた気分になりましたが、そう言う主旨なら仕方のないことと思い
「はい、分かりました。それじゃ見学だけさせてください」
と通路の奥の方へ足を運びました。そこには体育館、更に奥にはトレーニングルームがあり、その部屋で運動器具を眺めていると、若いトレーニングウェアを着た女性が近付いて来ました。私は
「うわっ、また注意されるのか。ここも覗いちゃダメなのか、参ったなぁ」
と注意されるのを覚悟していると、
「こんにちは。あのぅ、さきほどは○○に何か言われませんでしたか?」とのこと。
 私が玄関ホールでの会話の内容を簡単に説明しますと、
「やっぱりそうでしたか。それは大変失礼いたしました。
今は身障者と健常者を分けると言う考えは見直されています。その視線は逆に身障者を差別していると言う考え方が主流なんです。この施設もみんなが触れ合えるようにって目的で作られたのです。だから、健常者の皆さんにも偏見なくどんどん来ていただいて、全く普通に接触して利用してもらいたいんです。○○は私の上司なんですがその辺を理解してもらえなくて」
 その若い女性は体育大学を出てこの職に就いたとのことで、とても爽やかに施設の意義や考え方を語ってくれました。

 それから暫く会話をし、器具の使い方を丁寧に教えてもらい、血圧や心拍数のチェック等をしていただき、
「よろしければ温水プールもご利用ください」
と他の施設も案内されました。ちょうど市内のスイミングスクールに通っていましたので、温水プールがあることはとても嬉しく思い、何か宝物を見つけた気分でした。

 玄関ホールでの年配の管理職との会話で、
「この施設は二度と訪れる施設じゃないのだろうな」
と少し落ち込んでいましたが、帰る頃には180度反転し、気分爽快になっていました。

 それ以来、温水プールに週に1,2度通い、通算で5年間くらい利用しました。体育館では車椅子を上手に操作してバスケットボールをしている風景も良く見かけました。時には車椅子同士がぶつかり合って身体が放り出されたりして、その激しいプレーには感激するばかりで、それを見つめる自分の意識には健常者とか身障者の意識は全く消えて、「車椅子に乗って行うバスケットボール」と言った感じでした。運動音痴の私などは、多分5分もかからずに大怪我をしたと思います。
 温水プールには休日には家族も連れて行きました。家族も何の違和感もなく、パシャパシャと水泳を楽しみ、低音サウナ室では世間話にも花が咲きました。ここでは高齢者も身障者も健常者も全く一緒に泳いでいましたが、誰彼を差別する視線を感じた事はなく、あるのは全く普通に水泳を楽しんでいる人々の風景でした。

 ある日、健常者のためのセミナーが開催され、係りの人に薦められて参加しました。健常者でかつ年令がシルバーより若い参加者は私だけで、シルバー年令の人を加えても4、5名でした。そのセミナーの題名は忘れましたが、主旨は、健常者に障害者の立場を体験しもらうためのセミナーでした。
 多少緊張してセミナーの開始を待っていますと、プールの指導員の人があれこれ小道具を持ってきて説明。
「皆さんこんにちは。今日は皆さんに障害者になっていただきます。目が見えない事、手足が不自由な事、その状態で泳ぐことがどう言うものか体験してもらいます」
 その後、右足の下肢を折って太股にくっ付けて自転車のゴムタイヤで結わえて25mを泳ぎ、次にはゴーグルの中に発泡スチロール片を入れて視界を塞いで泳ぎ、更には耳栓よりももっと強力に聴力を塞ぐ物を入れて泳ぎ、他にもいくつかの状態で泳ぐ体験をしました。
 普段、一応スイスイと泳いでいたのが嘘のようで、丸で満足に泳げません。目を塞いで泳いだ時などは、
「25m到達したと思った場所で止まってください」
と説明を受けていましたが、立ち止まった場所は全く予想外にプールの斜め前方でした。
 歳を取ることは誰にも訪れることです。怪我をして障害者になることも起こり得ます。色々な状況の人々が仲良く暮すためにはお互いを理解することがとても重要なことと考えています。このセミナーはとても貴重な体験でした。
 こんな体験ができたのも、初めて訪れた時のあの若い女性の案内があったからでした。ホールでのやり取りで短気を起こしてすぐにでも帰ってしまっていたら、それ以来の5年間の楽しい体験はできなかったでしょうし、このような施設は敬遠したままだったと思います。

 その時の若い女性の名前は忘れてしまいましたが、今でも感謝しています。ありがとうございました。(2006/10/26 記)




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