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粟島物語

掲載日:2015/3/14
 鶴見俊輔と後に三木首相の閣僚となった同級の永井龍男少年は、それほど仲が好いわけでもない同級生の家を度々訪れた。後年になって、二人が何気なく、お姉さんが美人だったから遊びに行ったと話したが、お前もそうだったのかとうなずいたと書いている。
 日本人は、面と向かって美しいですねとは言えないところがある。そのうえ何か後ろめたいと考えるので、若い時には話題にならなかったのだろう。
(そのつつましい伝統に沿わない記述をすることになるが、この物語の性質上、避けることのできない事柄であるし、僕も後年という年代になったので、後程述べることになります)

 僕が、新潟県の岩船港から船の出ている粟島に通い始めたのは、もう20年は超えただろうと思う。

 はじめは、島の東側にある内浦の何軒かの民宿に泊まったが、湊屋という屋号の民宿のおやじさんの気持ちが良くて、そこに宿を決めて魚釣りをした。本保姓であった。
 何年前だろう、奥尻地震の前日だった。海が真平らで、少しの波でも乗ることのできない小さな磯に湊屋のおやじさんの小舟に乗せてもらった。はるか沖にある磯の名はエンガイグリといった。
 磯の周りは急流で、磯から離れて餌を落とし込むと、エサが流されて水面まで浮いてくる。 小さい重りを磯の際30センチ程のところに落とすと、エサは磯を伝わって、深さ10メー トル近くまで磯際を漂うことができる。

 数時間、磯の際にオキアミの撒き餌を投げ続け、日が落ちる頃に、隣で釣っていた釣り友の竿の穂先が動いたと言う。その数秒後、僕の穂先が、人差し指ほど沈んだ。
 来た!心構えを正して、次の当たりを待つ。
 こんこんと手元にも伝わる、それでも穂先は、1・2センチの動きだ。
 右手で持った竿を、勢いよく合わせる。
 乗った。
 魚の重みで、竿がしなる。
 魚は、こちらを向いて、針がかかった体を反転させたくて、力が入っている。
 竿を操作している右手は、魚の大きさを感じなければならない。大きな魚を無理に引き上げようとすると、細い糸は切れてしまう。また、ゆるめたままだと、魚によっては岩陰に潜り込まれてしまう。そのほんのちょっとした瞬間に、魚の大 きさを判断しなければならない。
 瞬時の判断時間にも魚は反転して、沖に向かって体を移動させた。かかった魚は、針を外したくて、頭を振り続ける。
 鯛だ。
 竿がごんごんと震える引きを見せるのは、鯛に間違いない。この力だと食べごろの大きさの鯛だ。40センチほどだろう。
 沖へ走る鯛を、竿のしなりが止める。左手でリールを巻く。
 鯛が嫌がって、精一杯の力を振り絞って底に潜ろうとする。

 今年読んだ、魚に痛さがあるかと言う本には、魚も哺乳類と同じ苦痛を味わっていると結果が出ていた。この時、鯛は逃げるに集中して、針の痛さを感じる暇はない。引っ張っている何者かに捕まらないように沖へ沖へと感じているだけだ。力を使い果たすと、鯛は糸に引かれて、海面に姿を現す。タモに収まった赤い魚体には、冴えた水色の斑点が光っている。目の周りにも、美しい水色が映えるが、その眼は何を見ているのだろう。
 メガネをかけ髭が生えた僕の顔は見えているだろうか。空気に触れて徐々に息苦しくなっているのだろうが、人には魚の死に行く苦しみを感じることは出来ない。感じる経験を持たなかったのだ。えらの横にナイフでとどめを指す。

 暗くなって、湊屋の主人が迎えに来て、「血が湧いたただろう」と僕に声をかけた。漁師も、良い魚を取ると血が湧き肉が躍るのだ。
 血が踊る興奮のある職業は他にあるだろうか。この島を訪れて釣りや磯遊びで都会の邪気を払い、生気を充満させると、一か月は元気に生活できる。


 後白河法皇が、京都から熊野参りの遊行に出かけた回数は、在位期間中34回だと言う。 熊野にこもり、生気を充満させ京に帰って政治が行われた。熊野古道を輿に乗ってはいるとはいえ、相当きつかっただろうがそれほどの効果があったと言うことだ。

 翌日、津波が粟島を襲い、船が打ち上げられたと、電話で知らされた。一日遅かったら、海面数十センチに浮かんでいるエンガイグリでは、生きて帰れなかった。


 内浦では、船で磯に渡してもらわないと釣りたい魚は釣れないが、粟島の西北の釜屋では 歩いて行ける地磯でも鯛が釣れると教えられた。
 粟島には、大きな船が停泊できる東側の内浦と、小舟しか止めることのできない釜屋と二部落ある。
 内浦には、本保・脇川・菅原など、釜屋は渡辺・松浦・後藤・大滝などの苗字があり、内浦と釜屋では、方言が違っているとも指摘される。
 
 嘗て、征夷大将軍坂上田村麻呂の東北征伐から逃げてきたといわれる蝦夷・縄文人が、粟島に住んでいたという。大陸から歩いて渡ったと言う説もあるそうだが、粟島の先住民は 縄文人であったのだ。
 古モンゴロイドと言われる縄文人は、目鼻立ちがはっきりして言語学者でアイヌ研究者でもあった金田一京介も縄文人を西洋人と認識していた。アフリカからチベット・雲南を通 って日本にやってきたのだ。

 粟島では、9世紀初めに(ウイキペディアによる)水軍・海運を営んでいた松浦一族が内浦に住み始めたといわれている。その後越前あたりから本保一族が内浦に住み、松浦・渡辺を釜屋に追い立てたとある。かつては粟穂といわれ、粟生島と呼ばれるが、谷川健一が黄泉の国、死者の国を青の島と言い、それが粟に変わったのだろうと書いている。
なるほど、本土から見る島は青く沈んでいる。

 釜屋の松浦家と渡辺家は、縄文と混血したのか事情は定かでないが、明治時代に粟島の民 は、女性は眉目秀麗で、男は体格偉大強健にて容貌和順と記されている。内浦ではさほど感じなかったが、釜屋では、この特質を感じることになる。
 新モンゴロイドである弥生人は、氷河期を生き抜いた顔、目が細く顔のでっぱりが少なく、 卵型で、中国、韓国人に近い顔の形、古モンゴルとは異質な顔型である。
 粟島の松浦・渡辺の人たちは、古モンゴルの特質を持っていると見受けられた。天皇家も海人の出自と言われるが、古モンゴルに近かったのではないかと推測されている。

 ある日、釜屋の民宿渡佐の前の路地のベンチに座って釣りの準備をしていると、
 「あら、そんな恰好して、お、ほほほ」と、
 靴の上から水が入らないようにしたカバーを指して話しかけてきた人がいた。見あげると、この辺鄙なところに、気品があり、上品な小柄だが美しい人がいるのに驚い た。のちに、釜屋の初めての民宿・市左衛門に予約して、内浦まで迎えを頼むと、その女性が運転していた。
 この部落に、ちょっと毛の抜けた釣り師がいるだろうと、口の悪い釣り友が声をかけた。 子供を見つけると追っかけまわし、はなっぺなどと子供を呼んで遊んでいる。彼が大きな石鯛を釣り上げたところを見たことがある。素足にサンダル履き、帽子もかぶらず、玉網も持たず竿のしなりで上げようとして竿の真 ん中から、ばきっと音がして折れた。そのあいだ、なにやら奇声をあげはしゃいでいる。 魚は無事で石鯛がかかったテグスを取って僕たちに魚を見せた。顔は、やさしそうだけれど鬼のような顔をしている。
 それ、私の兄です。と、その人は、明るく言った。響きのよい声だった。東南アジアで鳥の美声の競技があるが、こんな声なんだろうと想像した。
 名はと尋ねると、「松浦ですが、部落の人は、おんちゃと呼んでいます」と言われ、「魚釣りのいい場所へ案内 してくれると思います」と言った。
 それから20年近く、粟島に行くと、市左衛門に泊まって石器時代人の彼と魚釣りに行く。僕の友達も、その宿で知り合った常連の方たちも、女将の美しさを事上げすることはなか った。それは、鶴見俊輔たちが、交わさなかった会話と同じ状態であろうと想像できる。

 目の前の女性の美しさは言葉にできないもので、常連の方も、無意識に落とし込んだだけだと思われる。
 平安時代、日本の女性の美しさは、しもぶくれで引目鉤鼻と言われ、新モンゴロイドである弥生人の顔が理想とされていた。西洋人顔の縄文人は、ディホルメされて鬼の顔になっ たが、征服された民の宿命なのだろう。
 おんちゃの顔は、縄文人の特質をよく現している。
 木村伊兵が、昭和30年に撮った秋田の早乙女の美しい写真があるが、(その人の絵を描い たことがある、)際立った美しさで、西洋での絶世の美女とは表現が違うが、よもや、田舎 の農家の娘が、これほどの美しさを持って生まれてきたのかと驚くが、彼女の美しさは、 これもまた縄文人の特質であろうと想像できる。
 子供が本土に住み一度は外に出たが、別れて帰ってきて、民宿の女主として采配を払って いる。民宿に泊まっていると、漁協に務めている彼氏がくる。その彼が、渡辺栄という渡辺星と言う家紋の人物で恰好が良い。
 栄さんのお父さんはもっと美男子だ。若いころは映画俳優にでもなりそうなほどである。弟の学君も整った顔をしている。そういえば、彼ら三人は僕の絵のモデルになって、絵は 彼らの家にある。女主人の絵もあるが、ずいぶん時間がかかって描いたものだが、疲れて いるのか、悲しんでいるのかそういう表情であったが、女主人は、嫌がって見たがらない。 当然、網を上げているおんちゃの絵もある。そういえば、粟島で描いた絵は、縄文気質に あふれた顔を選んで描いていたことにいまさらながら驚いてしまう。

 また、渡さのたいちゃんも、そのおばあさんも、市左衛門の隣のキヨシ君は高倉健の少年時代の顔をして、その父親は、武士の体つきに表情をしている。アル中のおじさんも、若 いころはモテただろうと想像する。いつぞや売店金ベエで休んでいると、どこかの民宿の おかみさんが横に座り、話しかけるでもなく、ここではお化粧しなくていいから楽だよと 言う。整った顔には必要ないと納得した。

 家紋の渡辺星は、嵯峨天皇(786-842年)の子の源融(とおる822-895年) という光る源氏のモデルになった人物、その5代のちの源の綱(953-1025年)の一族だけの独占家紋である。黒丸の星三個、下に一文字、嵯峨源氏渡辺綱流とされている。 栄さんの家紋である。
 天皇は、女房を数十人持ち、子がその倍は生まれた。
 すべての子供を天皇籍に入れると、財政上に問題があるので、数人の子を籍に入れ、その 他は、「汝のみなもと(源)は朕に発する」として、源姓を授けられた。だから、綱も直系の子孫に変わりはない。50人もの子を持った嵯峨天皇の子孫はみな一字名とされている。
 栄さんも学さんもその千年の伝統の中にいる。全国には、渡辺姓は10番目に多い姓だが、そのうちの所々で、節分の豆まきをしない渡 辺家がある。源の綱は、4天王と言われ武力の誉れ高かった。源頼光に使えて、大江山の酒呑童子(鬼とも山賊とも言われているが、新潟の山から出た とも言われている)を退治、京都の一条戻橋の上で羅生門の鬼の腕を名刀髪切りの太刀で 切り落としたと言われている。
 そのため、のちに渡辺家になる源綱の直系には鬼が怖くて寄って来ない故、豆まきの必要 がないという。粟島の渡辺家は、隣近所で豆まきしても、豆まきをしないこと続けて千年。ため息がでる。
 源綱は、母親の姓である渡辺を継いだ。そして、渡辺綱を名乗る。
渡辺は、大阪、摂津、渡辺津で、渡し守や、水軍の渡辺党を起こし、義経と屋島攻めの戦 いに参加している水軍である。今でも大阪には渡辺と言う地名があり、駅がある。主神は大阪にある坐摩(いかすり)神社、神主はもちろん渡辺姓である。
 また、松浦姓は、源綱のひ孫、久(1064-1148年)が、北九州松浦に御厨検校を 命ざれ土着し、松浦を名乗ることになったが、肥前の豪族として松浦党はさかえたが、嵯 峨源氏渡辺流であることに変わりがない。久以後、松浦党を名乗り、今でも松浦半島松浦 市と地名がある。
 故に、松浦姓も嵯峨天皇の子孫、渡辺姓と密接な関係があるが、本土では、渡辺と松浦は、それぞれ別々に存在するが、この粟島にだけ、松浦、渡辺が、共存するのは何故だろう?
 彼らは、日本海沿岸にて海運業を営み、その途次粟島に立ち寄り居ついたのだろう。それとも、戦に巻き込まれて逃げてきたのかもしれない、
 明治には、漁業は自分たちの食べる分だけで、その当時は、10町7反の稲作を共同で耕 運し、収穫を分け合ったとある。畑も狭いながら作物にはありついたと思われる。内浦は、西北にある山が風をさえぎるため、北海を航行する汽船も大型和船も海上不穏に なれば立ち寄ったと。佐渡の小此木港と内浦が、北前船のお助けの港と言われた。

 西暦800年代から(ウキペディアによる)、渡辺の綱・久が生存しているかもしれない平 安時代に松浦・渡辺家が粟島に居つき、本土の両家のように混血することなく、ほとんど純潔に源の血筋が続いた松浦・渡辺家は天皇家と同じ姿に近い形態で現在まであると想像できる。
 光源氏のモデルとなった源の融、左大臣になったとあるが、色好みの美男子で才覚優れて いたようだ。松浦も渡辺もそれゆえ、かつての貴族らしい美貌な姿を留めているのだと思 われる。
 粟島には、かつては群遊する馬がいた。本土で源義経の乗っていた馬を離したところ、粟 島に泳ぎ着いたと言われる馬の子孫と言われている。源恋しと言う心情が現れているので はないだろうか。





 地方消滅がいわれている。
 2010年粟島の人口366人、出産年齢である20才の女子14人、2040年人口163人20代の女性2人、と粟島の人口推移が記載されている。日本で15番目に消滅の可能性の高い市町村とされている。若年女性人口変化率はー83.2パーセント。
 人口統計の予想は、大きな変革がない限り、ほぼ間違うことがないそうだ。
 「地方再生を、高度経済成長時代の論理や、企業社会の枠組みでイメージしようとしても なかなか難しい。むしろ農山村の足元に眠る記憶の古層を掘り起こしてみると、何かヒン トが見えてくるのではないか」と、記事がある。
 そこで、粟島は、天皇家以外で天皇の最も濃い血筋と考えられること。
 紫式部が書いた光源氏のモデル源融という血筋、いまだに鬼が近寄って来ないために鬼退治の豆まきをしない源綱の伝統、絶海の孤島であるが故の純潔を保つことが出来たことを寿ぎ、それらの物語を作ることが出来そうである。
 現代人は、外来から影響を受けたものを排除して、本来の形を求めたいと切に願っている。力の源であるプリミティブな環境にこもり、野生の力を賦活させたい欲求を持っている。 パワースポット巡りがその表れだと感じるが、粟島の住民は、古代からの力を温存して、千年を越している。その古代性に我々が訪れて力を得る理由がある。

 人工物の何もない海原に浸ることによって与えられる力もまたある。仙人もなす魚釣りは、(仙人は霞を食べて生きていけるので、魚を捕獲する意味がない)宇宙へのアンテナとしての竿の役目がある。一点に集中することによりトランスが起き、感覚のままに心を広げる瞑想の儀式と同じである。座禅を組むより瞑想しやすい利点がある。 魚釣りは、釣れなくても楽しいのはそれ故である。そして、生気を取り戻してそれぞれの 地元へ帰っていく。
 そんな環境に囲まれた粟島浦村という共同体には物語が必要である。次世代に伝える、全員が共有できる物語。
 その物語を、記憶の古層から掘り起こしてみることによって、世界へ向けて発信できる。嵯峨天皇.源の融、源の綱(渡辺綱)、源の久(松浦久)、彼らの血筋は、良い物語となるだろう。

2015/3/9 近藤蔵人







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