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倭文神社(しどりじんじゃ)

群馬県伊勢崎市東上之宮町甲380 [ goo地図 ]
サクラ咲く境内|新緑に包まれた境内田遊び(伊勢崎市指定重要無形民族文化財)由緒
倭文神社の寺社林調査・観察会(別ページ)

サクラ咲く境内

 倭文神社のサクラを紹介したのは2年前。その時には満開時期を過ぎていたので、「来年はちょうどいい時期に来てみましょう。」などと空手形を発行していたのですが、案の定、翌年にはすっかり忘れてしまって、市内の別の場所のサクラ探しをしていました。
 そんな申し訳ない気持ちも手伝って、伊勢崎市内のソメイヨシノが満開に近付いた3月30日の土曜日、ここ倭文神社にちょっと足を運んでみました。この日は花曇りで青空は期待できず、とは言え翌31日の日曜日は小雨の予報だったので、贅沢は言えません。
 2年前と今年は見ごろが10日ほどずれました。見ごろ時期と天候と、青空に映える満開のソメイヨシノに出会うのはなかなか難しいものです。(2013/4/18 記)


花曇りの空の下、満開のソメイヨシノに包まれる倭文神社 2013/3/30

拝殿を包むサクラ 2013/3/30

サクラで彩られる拝殿 2013/3/30

真っ赤な鳥居と満開のソメイヨシノに包まれる倭文神社境内 2013/3/30

掲載日:2011/4/20 ▲ページTopへ
 倭文神社を紹介した2年前、季節は新緑の5月でした。
 その日、境内を涼しそうに覆う木々の多くがサクラであったため、花見の季節に訪れてみればきっと素晴らしい光景に出合えるのだろうと思っていたのですが、それ以来、そのことはすっかり頭から消え、今回出向いたのも全くの偶然で、利根川サイクリングロードを走り、五料橋経由で東上之宮町方面へ回った時に倭文神社の杜がパァっと明るく輝いていて、遠目にも目を惹いたからです。

 耕地整理された広々とした水田地帯の一画にある倭文神社は、春夏秋冬いつも緑のオアシス的な存在ですが、やっぱりサクラの季節は格別な趣があります。今回は満開は少し過ぎ、境内には桜吹雪が舞っていましたが、来年はちょうどいい時期に来てみましょう。(・・・なんて、きっとまた忘れることでしょう) (2011/4/20 記)

桜吹雪舞う境内 2011/4/17


真っ赤な鳥居とサクラに明るく照らされた境内 2011/4/17


桜吹雪がサラサラと風に舞い、音が聞こえて来そうな静かな境内 2011/4/17

華やいだ中にも落ち着いた佇まい
2011/4/17



境内の東側にある
コンクリートの鳥居脇のサクラは
ちょうど満開
2011/4/17


東側の鳥居の脇に立つ石仏
2011/4/17


双体道祖神
2011/4/17
 この日、ご近所の皆さんの花見は終わったのか、境内のベンチでしばらく佇む間も、どなたにも会いませんでした。サクラ舞う境内を一人占めで嬉しいようなちょっと寂しいような・・・。
 冷たいレモンウォーターがサイクリングで乾いた喉に沁みわたりました。さぁて、もうひと踏ん張り。(2011/4/20 記)


新緑に包まれた境内

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拝殿を南側から  2009/5/10
 2009/5/10、5月初旬とは言え、県内の中之条町と下仁田町で33度を超える真夏日を記録したこの日、伊勢崎市も負けず劣らずの暑さで、その気温の中、広々と耕地整理された水田が続く上之宮町をぶらりとサイクリングしていて、涼を求めて見つけた、それがこの倭文神社でした。

 境内はサクラ等のたくさんの木々に囲まれ、きれいに掃き清められ、清々しく静かな佇まいを呈していました。

 地域の大切な鎮守の杜です。
(2009/5/16 記)

拝殿を南側から 2009/5/10

南側の通りから
 2009/5/10

 2009/5/10

南側の鳥居と参道と拝殿
 2009/5/10

本殿 2009/5/10
 伊勢崎絣のことを調べる用があり、2009/5/14、伊勢崎織物協同組合にその情報を求めて訪れてみると、いただいた資料「伊勢崎織物の歴史とそのあゆみ」の中に「伊勢崎織物の濫しょうは、古くは市内上の宮町に鎮座する倭文神社(垂任天皇三年創建)の祭神天羽槌雄命によると伝えられ、・・・」
とあり、1週間以内に市内の歴史遺産が繋がった偶然に驚いています。

拝殿を南西側から 2009/5/10

神楽殿 2009/5/10

← 参道の左側の神楽殿



本殿の北西側にある境内社 →


境内社 2009/5/10

緑に包まれた境内。爽やかな風が吹き抜けます。 2009/5/10

 2009/5/10

清々しい新緑。

境内も広々として涼しい。

弁財天神社へ渡るアーチ橋
2009/5/10
 境内の南西側には弁財天神社が祀られています。左はその入口で、その奥に弁財天の祠(右側の画像)があります。

 祠の周囲はぐるりと溝が掘ってあります。この溝に水が溜まって、弁財天が島のようになり、蓮や菖蒲が咲いたりすれば、それもまた味わいのある風景になるだろう、とそんな空想をしたくなる風景でした。

弁財天神社 2009/5/10

社務所 2009/5/10


倭文神社の田遊び

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伊勢崎市指定重要無形民族文化財

倭文神社の田遊び

平成19年8月17日指定

 倭文神社の田遊びは、上之宮町の倭文神社で毎年一月十四日に行われる田植えの予祝行事です。
 笹竹を持つ祭員が笹竹を振り、ご神歌を奉唱しながら鳥居と拝殿を三往復した後、町内を巡行します。戻ると再び鳥居に整列し鳥居と拝殿を三往復します。
 昔は最後に参会者による笹竹の奪い合いがあり、この竹で蚕箸を作ると蚕が当たるとされていました。
 この田遊びのご神歌は中世期まで遡り、貴重です。

※境内の案内板の内容を転記

御 神 歌


エートウ、エートウ
前田の鷲が御代田にぎろり
ぎろぎろめくのはなんだんぼ
一本植えれば千本になる
唐々芒子(とうとうぼうし)の種

エートウ、エートウ
乾のすまの掃部(かもん)の長者
つじゅう十石ざらり
ざらざらめくのはなんだんぼ
一本植えれば千本になる
唐々芒子(とうとうぼうし)の種

神社由緒と田遊びの案内
 2009/5/10

倭文神社の田遊び [ 拡大 ]


倭文神社略由緒

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倭文神社略由緒 [ 拡大 ]
 当社の御祭神は、天羽槌雄命(あめのはづちお)で、その歴史は古く機織の祖神として、また農耕、養蚕の神として尊崇されてきた。その創建は、人皇第十一代垂仁(すいじん)天皇の御宇三年と伝えられているが、これを明らかにする証跡は、現在不明となっている。
 貞観(じょうがん)元年(859)に官社に列せられ、従五位下を授けられた。(三代実録) その後、延長五年(927)に撰集された「延喜式」神明帳の中に倭文(しどり)神社の名が載せられ、上野神明帳には、「従一位倭文大明神」とあって、上野国の九之宮とも称された。
 その後、戦国時代の争乱にまきこまれ、一時荒廃したが 徳川氏の江戸入部以来 関東地方も次第に平和をとりもどし、元和年間(1615〜23)から寛永年間(1624〜43)に入る頃は、社殿も再建され、別当寺として、新義真言宗宮川山慈眼寺が定められ、住持実秀が別当となった。以後近世を通じ倭文神社は慈眼寺の管理下におかれた。三代将軍家光の慶安元年(1648)九月には、御朱印地十石を賜わり、漸く安定した神社経営が行われ、祭事も復興し、神威もいよいよ加わるに至った。その後約八十年を経て、享保十二年(1727)八月には、八代将軍吉宗から社殿再建勧進の許可を得て上野国はもとより、江戸府内からも浄財の寄進を仰ぎ、旧にまさる荘厳な社殿鳥居などが再建され、大いに隆盛をきわめた。しかし、この社殿も慶応二年(1866)十一月九日再度火災に会い、悉(ことごと)く灰燼(かいじん)に帰してしまった。
 現在の社殿はその後、明治十三年十月二十四日(上棟)に再建されたものである。なおさきの御朱印地十石の斎田は、明治維新の際上納され、また明治元年の神仏分離令により、別当寺や社僧の制も廃止され、神職によって祭祀される現在の姿となった。その後区内の小社祠の整理合祀も行われ、この間郷社に列せられた。また大正十四年には、神饌幣帛料供進社に指定された。
 今次大戦後は、国家神道や社格もなくなり、純粋な上之宮町の鎮守として今日に至っている。

主 祭 神

天羽槌雄命(あめのはづちおのみこと)

配 祀 神

倉稲魂(うかのみたま)命 木花咲耶姫(このはのさくやひめ)命
誉田別(ほんだわけ)命 菅原道真命 大己貴(おおなむち)命
素盞嗚(すさのお)命 豊受姫命 大山祇(おおやまつみ)命
菊理姫(くくりひめ)命




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