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突風。五月の嵐? 投稿者:丸男 投稿日:2015/05/10(Sun) 17:17 No.2188    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
今日の伊勢崎は一日中突風が吹き荒れました。
空中が砂塵で黄土色に濁っています。
庭の草花や木々が喉がカラカラな感じです。一雨欲しいです。

Re: 突風。五月の嵐? - 鳩ぽっぽ 2015/05/10(Sun) 19:48 No.2189
そうですね、今日はスゴい風でしたね〜。私は車で田中町南の交差点に差し掛かったのですが、造成工事中の工業団地用地から舞いあがった砂塵がスゴくて道路の視界が危ぶまれるほどでした。午後4時頃でまだ明るいのに、安全確保のため思わずスモールライトを点灯してしまいました!
我が家の庭もバラがだいぶ咲いたのですが、トゲで傷付けあってボロボロになってしまいそうです。またまた今週は、台風の影響とか大雨が降る可能性もあるようで・・・でもまあ、それが自然なのだから、来週のオープンガーデンも楽観視し天にまかせてます。
Go!いせさきさんでのオープンガーデンのご紹介、ありがとうございました。m(_ _)m

ひさびさに我が家のブログも更新しましたので、ぜひぜひご覧になってください!
http://blog.goo.ne.jp/7du5ahxj3s6t


Re: 突風。五月の嵐? - 丸男 2015/05/11(Mon) 10:01 No.2190
鳩ぽっぽ さん、強風でバラのトゲで傷付けあうこと、気付きませんでした。
確かにそう言う心配もありますね〜。

ブログ拝見しました。もうこんなに咲いているんですね。
玄関前にバラのアーチもできて、今年もまた新たな装いがありそうで、楽しみです。
昨日、曲沢のマー君のお宅にお邪魔しました。やっぱり風にあおられてバラたちが可哀想でした。、
オープンガーデンの日にはいっぱい咲きそうです。
今年は初日に利根川水防訓練と重なってしまったので、
オープン日のみで見学させていただくのは無理な感じです。


新伊勢崎駅南側の大島倉庫 投稿者:名無し(尚) 投稿日:2014/07/19(Sat) 09:42 No.1961    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
 おはようございます。丸男さん 今日新伊勢崎駅近くを通ったのですが 駅南側の

大島倉庫を解体していました。管理地になっていて 管理会社はトゥエンティワンサービスでした。

駅間近なので 相向かいあるマンションみたいに 有効利用してもらえたならいいですね。

Re: 新伊勢崎駅南側の大島倉庫 - 丸男 2014/07/19(Sat) 17:25 No.1962
尚さん、駅南側の倉庫、解体ですか(@_@)。
あれが赤レンガ倉庫ならば、横浜や小樽みたいな感じで
何かの観光施設になったんだろう・・・なんて思ってたのですが。
立地条件も良く、敷地も広いので、マンションやら商業施設やら、色々な開発に向いていそうで。

でも周囲の最近の開発を見ると、宅地造成ですかね。


スターバックス 伊勢崎新店舗 - 名無し(尚) 2014/07/19(Sat) 22:30 No.1963
 丸男さん こんばんは 今日明日 伊勢崎七夕祭りですが 夕方雨が降ってしまいましたね。
 
明日もはっきりしない天気みたいで 雨が降らなければいいのですが。。。玉村町は今日花火大会

でしたね、夕方の雨でこれじゃ中止だろうと思っていたら 18時すぎには 雨が止んで

コンディションは悪かったですが 無事に終わったみたいです。

話が本題に入りますが 求人誌に10月上旬 県道2号線スーパーモールいせさき周辺に 

ドライブスルー併設の スターバックスコーヒーが NEW OPENだそうです。

そうかぁスターバックスが出来るんだぁと ちょっとうれしかったのですが 2号線の

スーパーモールいせさきの ベイシアにスターバックス入っていますよね。そんな近くに

また出来るのでしょうか?既存店もそこそこ お客さん入っているのでベイシア店も続けてもらいた

いのですが。。。 前にベイシアスポーツクラブで 今Sab wayが入っているとこに 

タリーズコーヒーがありましたよね。 あまり同じ店が近すぎてあってもしょうがないので

東京で人気の イタリア系コーヒーのセガフレートザネッティあたりが出来ると

面白かったのですが。。。

後1番の 問題は 伊勢崎駅周辺に(ベイシア伊勢崎店)にファストフードの店や スタバや

タリーズなどの時間をつぶせたり出来るお店が出来るかどうかですね。


スターバックス 伊勢崎新店舗 - しょうちゃん 2014/07/20(Sun) 15:50 No.1964
スーパーモールにドライブスルーのスタバ・・・・
ってもしかして、ドコモショップの駐車場(元一心太助)ですかね?
それとも、道路挟んで南側の元ジャパン?の跡地?
どちらかと言うとドコモショップ側の様な気がしますが。
ドコモとタイアップして?、待ち時間はスタバで・・・・
順番が来るとスタバ店内なら解るシステムとか


Re: 新伊勢崎駅南側の大島倉庫 - 名無し(尚) 2014/07/20(Sun) 20:50 No.1965
 丸男さん しょうちゃん こんばんは 今日宮子のホットもっとによった帰り

ちょうど現場に 出くわしました。しょうちゃんの推測が当たっていて 元一心太助でした。

西部モール店から 直線距離で200メートルぐらいなので すごい直近ですよね。


Re: 新伊勢崎駅南側の大島倉庫 - 丸男 2014/07/20(Sun) 21:21 No.1966
西部モールのスタバ、一心太助の跡地でしたか。
ベイシアのスタバより目立ちますね。でも秘密めいた感じはベイシアの方が優るような(^^;)
前橋みなみモール店みたいな雰囲気になるんでしょうかね。



Re: 新伊勢崎駅南側の大島倉庫 - 丸男 2014/07/28(Mon) 18:22 No.1967
尚さん、大島倉庫、25日に出かけて来ました。
まだ北半分が残っていました。
高架橋の工事中にフェンスで隠れていた北側の建物も見えて、じっくり眺めて来ました。
もう間に合わないと思いますが、駅に至近距離なので、
何か、みんなが集まれるプラザみたいな施設として復活させることもできたのかなぁ・・・
などと、あれこれと空想してみました。

本日、こちらに掲載しました。
http://www.go-isesaki.com/around_shin_isesaki.html#ohshima


Re: 新伊勢崎駅南側の大島倉庫 - 名無し(尚) 2014/07/28(Mon) 19:15 No.1968
丸男さん  昨日おとといはものすごく暑かったけど今日は少し過ごしやすかったですね

大島倉庫跡地 何になるか気になりますよね、管理会社の21サービスさんに メールで問い合わせ
ところ 価格や方向性などを検討中とのことでした。分譲地になる可能性が高いですかねぇ?

せっかくの 新伊勢崎駅直近なので 土地の有効利用してもらいたいです。

ちょっと話が脱線しますが 中央市街地整備課の説明会では以前 大手町あたりにパティオ(みんなが集える 施設を造るなどのお話もありましたが 6月の説明会では出てきませんでした。

伊勢崎市もどんどん 市街地からのドーナツ減少などで 空洞化が進んでるので もっとこれからの
伊勢崎市は夢や希望が満ち溢れる街になるんだと思えるようにしていきたいですね。




Re: 新伊勢崎駅南側の大島倉庫 - 丸男 2014/07/29(Tue) 08:50 No.1969
尚さん、大島倉庫、駅至近距離にまとまった面積があるので、
商業施設や公共施設など、一般の人が出入りできる施設、
例えば、中之条の”つむじ”みたいな施設ができるといいなぁ・・・などと思っています。

マンションや分譲地だと、ご本人が便利するだけで、更に周辺に排他的雰囲気が漂ってしまうのも残念です。
住宅地に用もないのに入ると「怪しい人」になっちゃいますしね(ー_ー;)。

駅の近くはマンションだらけ・・・などと言う、都心から離れた首都圏の駅みたいになって欲しくないなぁ・・・と。


伊勢崎駅南口線 - 丸男 2014/07/29(Tue) 09:06 No.1970
それと、伊勢崎駅の駅南口線ですが、最大幅員が当初の35mから28mに変更になった時点で
パティオの話は消えたんですかね?
確定なのか、様子を見るのか、良く分かりません。
いずれにせよ、駅南東西通り以南の南口線の工事実施は当分先になるみたいで、
まだ流動的と予想しています。

中心市街地整備事務所も、私が当サイトを始めてからも
Moさん、Kaさん、Muさん、Kuさん、Oさん・・・、と5人所長さんが交代し、
(あれ、お一人抜けたかな?)
ある時代の「確定」は、別の時代の「中止」や「変更」になること、珍しいことではないので、
やっぱり、様子見ですかね。

尚さんもDLしたかと思いますが、
このPDFは市のHPで公開していたH24年7月の南口線の変更前後の図面です。
http://www.go-isesaki.com/station/H24-7_henkou.pdf


Re: 新伊勢崎駅南側の大島倉庫 - 名無し(尚) 2014/10/01(Wed) 16:23 No.2003
 丸男さん こんにちは 今日 大島倉庫跡地を通りかかったのですが

整地され管理されている 21サービスさんの看板が変わっていて 車で通りかかったので
よく確認できなかったのですが 賃貸 or 売地と掲載されていたようでした

丸男さん 確認なされたでしょうか?


Re: 新伊勢崎駅南側の大島倉庫 - 丸男 2014/10/02(Thu) 10:27 No.2004
尚さん、こんにちは。
大島倉庫跡地、9月27日の看板は、以前と同じの「管理」の看板でした。
売地となると宅地開発などが思い浮かびますが、賃貸ならば商業施設なども考えられますね。
駅至近距離なので、できれば大勢が利用できる施設(官民関わらず)がいいと思うのですが。



Re: 新伊勢崎駅南側の大島倉庫 - 鳩ぽっぽ観光 2014/10/02(Thu) 21:11 No.2005
丸男さん、尚さん、こんばんは。
今日は大島倉庫跡地前を通り、「賃貸 or 売地(企業所有地)」とか掲載の21さんの看板も見ました。
もしここに洒落たマンションでも建設されたら、相向かいの外壁がブラウンのマンション「プライムスクエアー伊勢崎」とともにプチ都会的ないい景観ができそうです。
またまた、建設するマンションは例えば12階建て高さ50メートル位の建物で、丸男さんの提案をもとに考えてみたのですが、下から3階位までは誰でも出入りできる複合商業施設としたらいいんじゃないかと思います。その方が、駅も街も活気づきそうですね!
ここは伊勢崎駅前と似たように郊外から車では比較的アクセスしにくい旧い市街地なので、主に周辺住民を客層としたマーケッティングになってくるでしょうか?しかし、セブンのある所の交差点が高架下で抜けるので、これからは線路東側の住民もこちらに来やすくなりますね。
ベイシアIS伊勢崎店にも至近距離のこちらの物件ですが、恐らくこの更地を、ベイシアも今後の展開の視野に入れているような気がします。
IS伊勢崎店は現在、食料品売り場だけは活気があっても、他の衣料品、日用品のフロアはほとんど機能してないような空気です。先日、バスタオルを買いに行ったのですがどうも商品の回転がよくない〜品揃えがよくないように感じました。郊外に次々に現われたベイシアの出店計画にここだけ取り残されたようです。
この辺りの地方ではもう多層階デパート方式の旧来スタイルは難しいように思います。この際、IS伊勢崎店のいいところだけ、新しい「ベイシア新伊勢崎駅前店」に移動して・・・(ベイシアさん、勝手にすみません)
建物1階はやはりベイシアスーパーマーケットでしょうか? 或いは、ベイシア・オブ・ルーツに至近距離のこの場所にこそ、象徴的、文化的なベイシアのフラッグショップらしきを造ってほしいです。
学生さんの利用の多い駅前だから、蔦谷でもいいけどアダルトビデオを置かない品のいい本屋さん、おいしいパン屋さんや、個人的にはKALDYさんには是非きてほしいです。
できれば下車して高架から地上に下りないままペデストリアンデッキを通って商業施設にゆけるようにして・・・カフェなら建物2階のテラスに面してスタバとかできるといいですね。セガフレートザネッティ・エスプレッソだったら更にカッコいいですね!
他には思いきって「ベイシア美術館」とか、ちょっと無理かもしれないけど全国からアンティーク銘仙を集めて「ベイシアいせさき銘仙館」とか、前橋の「ベイシア文化ホール」なんて取ってつけたような名前だけなのはやめちゃって、小ホール規模でいいからここに「ベイシアミニホール」ができて、そこでSMCさんのJAZZとか室内楽とか聴けるようになったら最高ですね♪
新駅舎はじめとした周りの環境もすでに、駐車場を広く設け好調なセブンや、伊勢崎基督教会はまるで軽井沢にあるような教会堂に生まれ変わったし、こちらも素敵な駅前景観が出きつつありますね。
伊勢崎市街地の宅地化、住民の高齢化、自動車離れ等の条件が重なり、2064年辺りには、もしかして郊外型ショッピングモールよりも、このような形態の商業施設が主流になるのかもしれません。


Re: 新伊勢崎駅南側の大島倉庫 - 名無し(尚) 2014/10/03(Fri) 21:04 No.2006
 丸男さん 鳩ぽっぽ観光さん こんばんは 21サービスの管理地の看板勘違いじゃなくて
良かったです。21サービスさんは今のところ 宅地造成は考えていないのではないでしょうか?
前に問い合わせたところ 検討中と返答がありました。

跡地利用ですが 出来れば鳩ぽっぽ観光さんがおっしゃる通り 高層住宅であわゆけば
商業施設があれば いいなぁと思っています。ちょっとベイシアにはちょっと飽きてしまっているので(ベイシアさん御免なさい)ヤオコーあたりが出来ると面白いなと感じます。
ヤオコーは伊勢崎市に物流センターがあるのに なんで出店しないんだろうと思っていました。
正直 伊勢崎駅前店に失望したため 大島倉庫跡地に期待します。


Re: 新伊勢崎駅南側の大島倉庫 - 鳩ぽっぽ観光 2014/10/03(Fri) 22:54 No.2007
尚さん、さすが目の付けどころがシャープですね! 私も何もベイシアばかりにこだわる必要はなく、昨夜も寝る前に、他に最近のいいスーパーといえば「ヤオコー」があった!と思っていたところです。
またまた、現代的な建築の「ヤオコー川越美術館」を運営しているというのも注目に値しますね。
ところで本庄市のウニクス隣のヤオコーは活気があったのですが、撤退してしまったようですね。伊勢崎市ならどこに出店されるのか?今後の展開が楽しみです。


Re: 新伊勢崎駅南側の大島倉庫 - 鳩ぽっぽ観光 2014/10/04(Sat) 19:10 No.2008
大島倉庫跡地前を今日も通りました。21さんの黄色い看板は正確には「賃貸 or 売地、社有地」と掲載されてました。


Re: 新伊勢崎駅南側の大島倉庫 - 名無し(尚) 2015/05/01(Fri) 00:09 No.2184
 丸男さん こんばんは 今日なんともなしに大島倉庫跡地を通ったら 21サービスが管理
 している看板がありませんでした。一応21サービスさんにメールで問い合わせしときました。

 出来れば宅地は控えていただきたいのと 高層マンションができればなぁて感想です。
 丸男さんが提案していた 皆さんが集える場所もいいかもしれません。すぐ近くの伊勢崎カトリッ ク教会は休みの日になると ペルーの人やブラジルの人が
 集会を熱心にしていて 駐車場に車が入らないぐらいです。もし商業施設ならベイシア ベルク 
 フレッセイは もう飽和していてお腹いっぱいなのでスーパーなら ヤオコーに出店して
 貰いたいですね。

 


Re: 新伊勢崎駅南側の大島倉庫 - 丸男 2015/05/01(Fri) 14:28 No.2185
尚さん、私も先日26日、新伊勢崎駅周辺を歩いてみました。
大島倉庫の敷地の東側も整地されていましたね。
高架橋下の側道になるんでしょうかね。
先ほど駅広の記事を掲載しました。
http://go-isesaki.com/tobu_isesaki_new.html

尚さん仰るように、あれだけ立派な駅の至近距離なので、住宅用地ならば多層階の住宅、
施設ならば何か公共性がある施設、商業施設ならば大勢の集客が見込める施設であって欲しいです。


Re: 新伊勢崎駅南側の大島倉庫 - 名無し(尚) 2015/05/04(Mon) 22:51 No.2186
 丸男さん こんばんは 大島倉庫跡地で 21サービスに問い合わせをしたところ

 所有権が21サービスから 他の会社に移ったみたいです。個人情報保護のため

 どこの会社に移ったのかは 分かりませんでした。

 昨日娘が 東京ディズニーシ―に行きたいというので 混雑覚悟で行ってきたのですが

 やっぱりめちゃくちゃ混んでいました。アトラクションに乗るのが 2時間半待ちとかで

 びっくりしました ファストパスで時間予約して 2時間半後に並ばずに乗れたのですが

 (その間他のアトラクションなどで遊びましたが)さすがにくたびれて今日は特に出掛けずに

 ごろごろしていました。ディズニーですが 景気低迷で消費税増税先送りなどですが

 強気で駐車場が 1日3千円 入場料も値上げしていました。それでもこれだけ観光客が

 訪れるのですごいです。アトラクションなどで待っていると 隣の人とか関西弁などが

 結構な頻度で聞こえてました。伊勢崎からだとディズニーは日帰りでもいけますが

 遠方からだと 近くのホテルなどに泊まれば結構お金も必要ですしね。

 関西に行く予定があれば ユニーバーサルスタジオにも行ってみたいです。


Re: 新伊勢崎駅南側の大島倉庫 - 丸男 2015/05/05(Tue) 10:07 No.2187
尚さん、その土地、他の会社に移りましたか。
管理が移っただけなのか売却だったのか、気になる所ですね。
駅至近距離であれだけまとまった土地なので、色々と関心を持っている人も多いでしょうね。

ところで、GW中にTDSへ行かれたとは、頑張りましたね〜(@_@)。
私も子供が幼い時(もう30年ほど前になりますが)、GW中にTDLへ行って、
待ち時間の長さにヘトヘトになったことがあります(ー_ー;)。

どの家でも親は大変ですが、いい思い出になりますよね(^o^)。


伊勢崎駅発 バス路線拡充 投稿者:名無し(尚) 投稿日:2015/04/08(Wed) 19:35 No.2178    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
 丸男さん こんばんは 今年の4月から バスの拡充 便増発があって 国際十王交通(株)が
 東京福祉大経由 本庄駅北口経由 あとうれしいことに 本庄早稲田駅まで拡充したみたいです
 うろ覚えなのですが 本庄早稲田駅が出来てまもなく 路線バスも出来たのですが
 1年ぐらいで撤退 したと思います。またせっかく再開した路線ですし 皆さんで利用して
 定着できたらなと感じます。

 

Re: 伊勢崎駅発 バス路線拡充 - 丸男 2015/04/08(Wed) 23:09 No.2179
尚さん、路線バスは減便になるばかりなのに、増便とは嬉しいですね。
しかも本庄早稲田までとなると、新幹線利用者にも便利になるし。
(何て、私は相変わらず在来線利用なんですが・・・)
東京から伊勢崎に来る人が増えるともっといいのですが(ー_ー)。
東京からわざわざ来てみたいと言う魅力を作りましょう。└(^o^)┐


Re: 伊勢崎駅発 バス路線拡充 - クリントン 2015/04/14(Tue) 16:33 No.2180
私も4月11日に本庄早稲田駅で伊勢崎駅行きの路線バスを発見しました。
本庄早稲田駅が開業した後に本庄駅北口から本庄早稲田駅まで路線延長されましたが、いつの間にかなくなっていました。
時刻表を見てみるとこの4月1日から復活したようです。
平日は1時間に1本程度です。
11日の最終便を見送りましたが、乗客は1人も居ませんでした。
先が思いやられます。
この復活はバス会社独自の判断か、福祉大の要望か、あるいは行政の後押しがあったのだろうかを知りたいものです。


Re: 伊勢崎駅発 バス路線拡充 - 名無し(尚) 2015/04/14(Tue) 19:28 No.2181
丸男さん クリントンさん こんばんは 今日朝 堀口あたりで 国際十王交通(株)のバスを
見かけました。 丁度東京福祉大学の生徒を乗せていましたが 座る席は一杯で 立って乗っている
生徒でいっぱいでした。クリントンさんがおっしゃる通り 本庄早稲田駅に乗車するお客は少ないのかなと思っていますが、また路線が復活したことも周知されて継続されればいいんなと思っています


Re: 伊勢崎駅発 バス路線拡充 - 丸男 2015/04/14(Tue) 19:31 No.2182
クリントン さん、11日の最終便、乗客0でしたか。ちょっと不安ですね。
市中で伊勢崎と新宿間の高速バスをたまに見かけますが、乗客数が少ないのが気になります。
私も11日に渋谷に出かけたのですが、帰りの便が不安だったので、
結局JR(在来線+湘南新宿ライン)を利用しました。

本庄駅のダイヤを調べておきました。
”早”の記号付きが本庄早稲田行きです。



Re: 伊勢崎駅発 バス路線拡充 - 丸男 2015/04/14(Tue) 19:37 No.2183
尚さん、投稿タイミングが一致したようですね(^^;)。
尚さんが仰るように、ダイヤを見ると、東京福祉大学を意識している感じがします。
ダイヤの中で、”東”とあるのは、東京福祉大学止まりでした。

1時間に3本利用できるとなると、学生さんも時間をあまり気にしないで済むので、便利と思います(^o^)。


八坂用水 投稿者:丸男 投稿日:2015/01/18(Sun) 21:34 No.2057    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
ぷうぷうちさん、鳩ぽっぽさん、こんばんは〜。
突然ですが、八坂用水関連の記事は伊勢崎陣屋と分けて、こちらに掲載したいと思います。
取りあえず、ぷうぷうちさんにアップしていただいた波志江町の昔の字名と現在の地形を重ねてみました。
それと八坂用水の位置を青い線で書き加えました。点線は暗渠部です。
智技授山文珠尊堂の東方から粕川までの範囲がざっと分かるでしょうか。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/18(Sun) 21:39 No.2058
鳩ぽっぽさんの八坂用水の写真付きの記事をこちらに転載しておきました。
=======================================================================
投稿者:鳩ぽっぽさん
またまた、画像はアイオーしんきんさんの「いせさきフロンティア」からお借りした、「八坂樋の外観写真」です! この木製大樋は全長70メートルもあったんですね。現在のコンクリート製の大樋は、ここから神沢川を500メートルほど上流にありますね。
藩政時代、神沢川の向こう岸の下増田村は前橋藩領であったために、測量は夜間に線香の灯りをたよりに行われたことや、初めての通水の朝、小畠氏は白装束で善応寺本堂に入り、もし通水しなければ腹を切る覚悟であった等々・・・小畠武堯にまつわるエピソードを聴くと、この人は本当に偉い人だったようですね。
当時は神沢川の左岸、この辺りを八坂村と言ったようです。八坂用水はまさに、偉大な先人の歴史を今に伝えるものですね。



Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/18(Sun) 21:41 No.2059
同じく、ぷうぷうちさん八坂用水の写真付きの記事をこちらに転載しておきました。
=======================================================================
投稿者:ぷうぷうちさん
丸男さん、鳩ぽっぽさん八坂用水も歴史があって興味を引きますね。
何年か前に赤堀の資料館で八坂用水の歴史を展示していた様なのでその時に興味を持っていれば・・・、と惜しい気持ちです。
これまた何年か前に子供と八坂樋の見学に行ったとき記念に撮った看板の写真です。この絵は古文書からの転写でしょうか、中々面白い絵ですね。
伊勢崎陣屋のあとにも、分かりやすく碑や説明の看板があっても良いのになぁって思っています。



Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/01/19(Mon) 14:23 No.2061
丸男さん作成の八坂用水の地図を拝見しました! まず拝見して思ったことは、小畠武堯の開削した八坂用水はある意味で、灌漑エリアはズレますが、同じ波江志村を通過しかつて失敗に終わった「女堀」が戦乱の時代を挟んだ600年の歳月を経て、実現された姿だったんじゃないかということです。
もし通水しなければ自害を覚悟していた小畠氏が、通水成功の朗報を聞くや喜び古舞を舞ったという姿も脳裏に浮かびます。どなたかが言われていたように、八坂用水はここに水源開発の第一歩を記し、歴史的に由緒ある貴重な遺産なんですね〜!
さて、ぷうぷうちさんの言われるように、八坂用水には「旧八坂用水」という古い流れがあったようで、それはきっと小畠武堯の時代のオリジナル流路であり、その遺構を残した区間、また現在の八坂用水とダブっている区間があるのでしょう。
迅速測図によると、「旧八坂用水」は八坂樋を過ぎると全東院、やさか食堂さんのある道沿いを流れ、恐らく道路が現在の八坂用水と交差する地点から同じ流れとなっているのでしょうか? 以前、その辺りで説明板を見たように思いましたが今は見当たらないようです。
添付の画像は迅速測図をもとに藩政時代の旧八坂用水のルートを想定したものです。いや、まったくの想定外になるかもしれませんが・・・。用水路は三郷小の南を通過し、その後、旧用水が顕著に現在の用水路からそれるのはセブンイレブンの東、現在の赤坂川の分水地点です。
迅速測図では現在の分水地点から東に向かう水路は途切れてますから、そこから南下する赤坂川を旧八坂用水の流れとしていたと想定しました。
そして赤坂川から旧用水が分かれるのは、恐らく現在の北部環状線の下の暗渠となり、太田町市営住宅の東に再び開渠用水が現れます。この用水路は迅速測図で見られるある水路と同じようなルートを東南東の方向を進み粕川方面に向かうのですが、いかがでしょうか? もしかして、この水路が旧八坂用水の遺構でしょうか? ぜひ、地もてぃーの皆さんにお聞きしたところです!!



Re: 八坂用水 - ぷうぷうち 2015/01/19(Mon) 22:04 No.2062
丸男さん、新しくスレを立てて頂いてスッキリしました。
伊勢崎陣屋のスレッドに八坂用水の話が続くのも忍びなかったので。
さて、八坂(やっさか)ですが江戸期から明治初期にかけて波志江村と別に八坂村というのが独立してあった様です。場所が分かる資料が無いのですが、何でも波志江の西端で丁目で言うと今の三丁目に含まれます。丸男さんの一丁目で例えると今の稲岡とか間の山というように地域の組の名前に八坂組があるので、先の図に示した小字の位置とは違うみたいです。一種の行政区分なので三丁目で役員をやっている人に聞くと分かると思います。
そうなると、小字の八坂との関係も分かりませんね。市内の南小の近くに八坂町というのもありますが関係しているのかいないのか?
さて、鳩ぽっぽさんが言われている「女掘りの実現」ですが、ぷうぷうちも同様に感じていました。
灌漑事業は古くから水争いが多かったであろう伊勢崎地域の悲願だったのですから、それを成し遂げた小畠武堯氏も名が残るというものです。
もっとも波志江村でその恩恵に与る地域はごく一部でした。波志江のほとんどは神沢川と桂川から取水していたそうです。
桂川といえばお酒がありますね〜。明治期に現在の波志江二丁目にも造り酒屋があったとか・・・う〜ん、呑んで見たかった。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/20(Tue) 08:38 No.2063
鳩ぽっぽ さん、赤坂川が旧八坂用水だったか・・・新しい謎解きですね。興味が湧きます。
今でも、八坂用水はピオテスタウン南西角地で赤坂川に分水してますしね。
私が三郷小学校に通っていた頃(もう半世紀以上前ですが)、
八坂用水(新堀)脇のあの路を良く通りました。当時はブッシュも茂り、ちょっと怖い感じでした。
当時の分水は覚えていません(ー_ー;)

ぷうぷうちさん、八坂村があったこと、知りませんでした。これまた驚きです(@_@)。
ぷうぷうちさんが探してくれた小字の地図で、小字の数の多さにも驚きましたが、
郷土の歴史、未だに知らないことがたくさんあって、脳が刺激されます(^o^)。

あの八坂用水の堀跡が未通水で終わった「女堀」を多分に意識したであろうこと、これまたドラマですね。
いつか、NHKの大河ドラマにしたりして。
題して、「女堀の魂を継いだ八坂用水」。タイトル長過ぎ?


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/01/20(Tue) 22:12 No.2066
自分が何か勘違いしてるかな?
八坂用水の神沢越えはサイホン式?の神沢川の下を潜るトンネルだった様な?
子供のころからこの川の交差部分には絶対近づくなって言われてました。
ここの八坂用水に落ちたら二度と浮かんで来ないと脅かされてました。


Re: 八坂用水 - 金田一モニカ 2015/01/21(Wed) 11:55 No.2067
しょうちゃん、ダメよ〜、ダメダメ、神沢越えはサイホン式だなんて〜! しょうちゃんが何年か前もそんなコメントしてたのを、あたしははっきり覚えているわ。トンネル潜りのサイホン式は、粕川じゃないかしら。 
やっさか用水は現在でも、神沢越えは「大樋(おおどい)」よ。コンクリート製だけど・・・
こちらの偉いお方のブログにお写真も出てるから、ぜひご覧になって。
http://blog.goo.ne.jp/tunoda003/e/da6d019f89505cde90c71a05806a2e1a

またまた、明治時代の地図で見ると、波志江二丁目の奥の方には楢の木かなんかの広い雑木林があって、そこにも愛宕神社があったみたいだけど、おじいちゃんから今と違う所に昔の愛宕神社があったって聞いたことがなかったかしら?
ぷうぷうちさんの小字名地図を見ると、二丁目の奥の方に「愛宕」と付く地名が5箇所もあるわね。
大胡県道沿いの駐在所の所にある今の神社は、1913年(大正2年)に移転してきたそうだから、その前は、愛宕神社は二丁目の奥、雑木林の中にあったと、あたしは読んでるの。うふふ・・・あたしの推理、いかがかしら。



Re: 八坂用水 - 金田一モニカ 2015/01/22(Thu) 11:14 No.2068
あれれ、あたしの昨日の投稿、どなたからもお返事がないのね〜。寂しいな〜。(泣。。)
しょうちゃんに嫌われちゃったかしら。嫌われないように文をソフトに直したら、あら大変!地図も消えちゃった。
ところで、愛宕神社の謎ですけど・・・今の神社の拝殿横に立っている「愛宕神社社殿造営記念碑」にいろいろ書いてあるようね。記念碑から、小保方さんじゃないけどちょっとコピペさせていただくわ。
「愛宕神社の由緒は古く、波志江村字愛宕山の古墳山頂に祀られた火産霊神として、愛宕大明神と称され、大人六人で抱えると言われたご神木は、遠く前橋野中村からも見え、旅の帰りに利根を渡ると愛宕の森が見え、ほっとしたと古老から聞かされてきました。」
ということで、、「波志江村字愛宕山の古墳」というのが、きっと二丁目奥の雑木林の中にあったのよ!間違いないわ。石でできた苔だらけの古い宝塔と神額も、神社がお引越しの時に一緒に移動したんだわ。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/22(Thu) 13:21 No.2069
金田一モニカさん、と言いますか、怪人二十面相の鳩○○○さんかな?
愛宕神社に話が広がりそうなので、別スレを立てました。


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/01/22(Thu) 21:20 No.2072
金田一モニカさん
嫌いに成った訳じゃ無いですよ。
自分のコメントが、予想とかで確定事項を言ってないので確認してからと思い遅れてます。
サイホン式・・・・・ですが、親父に聞いたら確かに有るそうです。
ただ、正式名称がまたまた不明確ですが、「新田用水?」はサイホン式の筈だと親父も言ってます。
位置的に丸男さんが明確にしてくれた、古地図の「伏田」〜「神沢端」だとか・・・
親父も言ってたサイホン式・・・・も伊勢崎側の水路の先が途中から八坂用水(三郷小の前の川)に成ってしまって
親父もあれ??て言う事で
近日中に確認に行こうかと思ってはいるのですが実現できるか?です。

追伸
親父は八坂用水の看板も位置も知っていました。

それと川の渡しに使ってた川が流れる様にくり抜いた丸太?が三郷公民館に展示してあったとか?
今は新しく建て替えた物ですが、旧三郷公民館は更地に成ってしまった、旧JAみさと支所の前
に在ったのでこの時代は在ったのかな?
これも確定事項でなくてすみません。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/23(Fri) 13:18 No.2078
謎が解けた?
金田一さん、ぷうぷうちさん、しょうちゃん、皆さんのの迅速側図や歴史資料、地域の記憶などを辿ると
八坂用水が神沢川を渡河(巨大な樋でオーバーパス)する場所は、この地図に書き込んだ辺りだったのかなぁ・・・
と思うのですが。
ざっとは、現存する八坂用水の堀跡の延長線です。

疑問点は、
■この位置で地形なりに樋を通すとすれば、一旦神沢川へ向かって下るので、波志江村側への水路勾配を確保できない?
■そのため、下る前に(現在の堀跡の南端部近く?)辺りから樋を築造する?
■その結果、長さが70mになった?
■とすると、左右端の支点位置はどの辺?

何かの痕跡が残っているかも知れませんので、後日、現地を踏査してみましょう。



Re: 八坂用水 - 金田一鳩助 2015/01/23(Fri) 22:04 No.2079
丸男さん、ぷうぷうちさん、しょうちゃんとお父上様、厳寒の候、皆様ますますご発展のこととお慶び申し上げます。 八坂用水及び愛宕神社の件に於きましては、皆様の深いご洞察、誠にお見事!と心から感銘を受けた次第です。
さて本日、丸男さん御投稿の現代の航空写真、ありがたく拝見致しました。またまた蛇足で御座いますが、ほぼ同じ範囲の古い写真が見つかりましたので投稿させて頂きます。
当画像は、昭和二一年(1946年)十月二八日、米軍撮影による航空写真で、国土地理院のサイトより拝借したものです。
昨日の迅速側図と同様に小生が赤で加筆した「い」の字は小畠武堯翁による八坂樋跡、「ろ」の辺りに現在の、やさか食堂さん、「は」が現在の八坂樋、「に」の辺りが昔の愛宕神社、「ほ」が現在の十三屋さん、「へ」が旧八坂用水の流れ、「と」の茂みが智技授山になってます。
智技授山の横には旧八坂用水の痕跡。終戦後の当時はまだ「へ」の部分に旧八坂用水に水が流れていたことが確認できます。その流れは現在、十三屋さんのある交差点の手前で道路から反れ、現在の八坂用水に合流していたようです。(青矢印)
また特筆すべきは「に」の旧愛宕神社の位置に、うっすらと前方後円墳のあったような跡が見られることです!その周囲に於いても、周濠を囲む堤の跡のようなものが僅かに見られました。(青ライン)
寒さ厳しき折から、お風邪並びにインフルエンザなど召しませぬようお気を付けください。



Re: 八坂用水 - ぷうぷうち 2015/01/23(Fri) 22:51 No.2081
皆様、八坂樋のあった辺りですが三郷側はなにやら工事が始まっているようです。
遠くからちょっと見えただけなので何の工事か分かりません。
すくない旧八坂用水の痕跡がさらに減ってしまうかも知れません。
何ができるんだろう?
道路?宅地?工場?農地整理?発掘?コンビニ?←これは無い


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/24(Sat) 14:00 No.2082
金田一鳩助さん、分かり易く整理していただき、ありがとうございます。
1946年撮影の写真ではその位置が良く分かるんですね。
と言うことは、地元の7,80歳台の人たちならば記憶に残っているかも知れませんね。

ぷうぷうちさん、工事情報、ありがとうございます。
今ならまだ痕跡が見つかるかも知れないと思うと、すごく気になります。
今日は無理ですが、早めに行ってみなくっちゃ。


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/01/25(Sun) 14:14 No.2088
現八坂用水の伊勢崎側の出発地点は徒歩で行ける距離なので探索してみました。
自分が言ってた、神沢川を渡るサイホン式?のトンネルは今は有りませんでした。
親父に聞いた話から説明しますと・・・・
現八坂用水の伊勢崎側入り(現中野面スポーツ広場)は窪地になっていて、以前Nさん宅が有り(廃屋?が在ったのは自分もうろ覚えが有ります)
台風か何かで壊れた家の廃材だかゴミが神沢川に大量に流れて来て、八坂用水の桶(橋)に
引っ掛かり先のNさん宅に川の水が流れ込み、親父も含め?助けに行ったそうです。
その為、川の上部を渡す桶(橋)が危険だと言う事か?桶(橋)の修理の為かで、サイホン式を作った筈と・・・・
そのサイホン式の伊勢崎側の出口と現在の伊勢崎側の出発地点(現中野面スポーツ広場南西端)は親父の話からも完全に一致します。
それと、八坂桶と八坂用水の跡の碑を見て来ました。
丸男さんの地図で示した地点に有りました。
ぷうぷうちさんの肝心な説明書きの看板が見つけられなかったです。
もしかして碑の反対側に在ったのかな?
そして看板に<<佐波新田用水>>と書いて有るので親父の言う「新田用水・・・・」と言った事も間違えでは無い事も確認出来た様な・・
丸男さんの新堀と言う呼び名も子供の頃よく言ってた事を思い出してます。

追伸
ぷうぷうちさんの言う工事は太陽光発電の工事の様です。
一部ほぼ完成してましたがこれより以北の現八坂用水までの間の工事も周りの環境から見ても、
人が住むとか会社(住民が嫌う施設なら別ですが・・)には素人が考えて無理だと思うので多分太陽光発電だと思います。
またこの場の太陽光発電を設置してる会社か解りませが、側近に太陽光発電の設置関係会社は有りました。
丸男さん
碑が在る所のチョット西側に北(神沢川沿い)に登れるバラス道が有り、途中に何故か東屋が有りました、。
そのまま北進すると現八坂用水チョイ手前に行き付き、前橋側に渡りますがそのままさらに北進すると、北関東道の側道に出られますよ。



Re: 八坂用水 - 金田一鳩助 2015/01/25(Sun) 21:01 No.2090
うちの馬鹿娘!が先週は、名家の御曹司しょうちゃんに誠に失礼致しました。m(_ _)m
また、Nさんご家族の救出に向かわれた、お父上様はじめ皆様に心から敬意を表したい思いであります。
さて今日は、旧八坂用水がどういった経路を辿り、伊勢崎町に流れていたか考えてみた次第です。
画像はまたまた、米軍撮影の昭和二三年の航空写真を国土地理院より拝借したものです。
旧八坂用水は「新堀川」と呼ばれ、「り」の地点、すなわち現在の赤坂川分水地点から赤坂川の経路を辿ります。(迅速測図では現在の赤坂川分水地点から、東に向かう「ろ」の水路は途切れてます)
次に「へ」の現在「壱丁田公園」のある辺りで赤坂川と分かれ、東南東、「は」の方向に向かっていたように思われます。赤坂川と分かれる地点は、現在は北部環状線下の暗渠で見えなくなっています。
「は」の辺りを過ぎると、この写真、昭和二三年の当時は南北に流れる用水路にどんつくして南下してます。この南北に流れる用水路でありますが、これは藩政時代に「い」の中村沼(華蔵寺沼)東の粕川から取水し、城下町に流れていた用心堀の名残りと思われます。用心堀の水は伊勢崎城下の紺屋町出口に辿り着き、現在の伊勢崎駅前より旧田原屋前を雁木折している道の真ん中に設けられた防火用水路を流れてました。
藩政時代の伊勢崎町は度々、大火に見舞われ、こういった用心堀や水路を構えることが必須であったようです。また面白い事にいざ伊勢崎陣屋が火災の際は、駆付け人足(にんそく)を出動させ消化に駆けつける村が指定されていたということですが、その村はまさに波志江村と太田村であったそうです。
そういえば、波志江村が祀る愛宕神社は、お師匠Kさん曰く「火伏せ・防火に霊験のある神社」として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られているようです。これも単なる偶然でしょうか?

いささか脱線致しますが、以前、話題となっていた、伊勢崎陣屋、御堀への水の引き込みの件、その件についても一言申し上げておかなければなりません・・・。
鳩ぽっぽさんが用意された陣屋と周辺城下の地図を見て、現在の伊勢崎駅前にあった水路から水を引いて外堀(海彦山彦さんの解釈では内堀)に引き込んでいたという結論でした。しかしながら、その地図をよ〜く見ると、外堀の上に橋のようなものが掛かっています。水は外堀に引き込んでいたというより、外堀の上を「樋」でまたぎ、本丸御殿周りの御堀に落としているように描かれてます! たとえ周りの城下町が大火に包まれたとしても、類焼せずに陣屋御殿だけは守ろうとしたものでしょう。
こういった城下町の防火用水を確保するためには、先に中村沼南より南下する用心堀が開削され、それだけでは不十分な点を宝永三年(1706年)に完成した御新堀用水(旧八坂用水)でカバーしたとも言われてます。
航空写真に戻って、「へ」で旧八坂用水と分かれた赤坂川は、「と」(現在の太田町交差点)の辺りでまた二手に分かれ、一方は現在の赤坂川の流れ。もう一方は大胡町道にほぼ沿って城下に流れています。
かつては「赤坂堰」と呼ばれた堰は、恐らくこの二手に分かれた地点にあったものと思われます。こちらには先日、ぷうぷうちさんが調査に行ってくださった訳ですが、高低差がありすぎて分水は困難と言われてましたがどうでしょうか、もし大胡町道に向かう流れの方が本流で高い位置を流れ、そこから分水されて現在の赤坂川の流れの方に水を落としていたとは考えられないでしょうか? また、この辺りはかつて「赤坂山」と呼ばれ、日が暮れると追い剥ぎが出て恐れられていた話も聴いております。
ちなみに、「ち」の辺りが現在の三郷二号公園になっており、「り」〜「は」が旧八坂用水、「と」が赤坂山、「へ」が壱丁田公園、「ほ」が備足山(びったりやま)、「に」は旧伊勢崎高校(後の旧伊勢崎商業)・・・
「古くよりこの地を石山と云ふ 旧藩時代八坂用水の開発により水利に恵まれ 南に赤坂 西に一丁田 東に諏訪安山岩の備足山を背後に肥沃な農地なり」といった冒頭で始まる記念碑の位置関係も徐々に解ってきた次第です。明治初期の迅速側図では赤坂山、備足山の辺りは、お富士山古墳のような等高線は刻まれておらず、いずれも「楢」と表示が見られることから、山と言うよりもなだらかな楢林の丘陵であったかと想像します。
最後までご一読頂き有難う御座います。皆様のご健勝を心からお祈り致します。



Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/01/25(Sun) 22:21 No.2091
金田一鳩助さん・金田一モニカさん
気になさらなで下さい。現に謝られてる事??が何か自分が解っていませんから(^_^;)
皆様?から見ると、50歳直前の若造?なのにあれこれ言って、かえって皆様に混乱を与えて迷惑でないかが心配です。
親父に聞いたりして、話がかみ合いそうな時は色々情報を提供して行きますので宜しくお願いします。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/26(Mon) 13:57 No.2092
しょうちゃん、全くの偶然で驚いています。ニアミスだったかも?
私も昨日、「八坂樋」の場所を踏査して来ました。
現地と、その周辺の左岸堤防、右岸堤防、現在のコンクリート製の水路橋、
それと前橋側の用水の堀跡などを歩きました。

皆さんからたくさんの意見や調査結果、資料や情報を寄せていただいたので、
後日、「八坂用水」のページを制作して記録にとどめたいと思います。


Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/01/26(Mon) 21:40 No.2093
丸男さん、しょうちゃんのフットワークの軽さに驚いてます。 やはりリアルモードになって、現地調査が一番ですね!
そういう私はすみません、遠いので自転車で図書館に行くくらいです・・・
ところで、現在の八坂樋はコンクリート製の水路橋になってますが、昭和時代にサイフォン式だった時もあったようです! その時の写真も見ましたが、確かに樋はかかってませんでした。
旧八坂樋から現在の場所に移ったのは、佐波新田用水に変わった大正13年からのようですね。その時、赤坂川の分水地点から更に東、華蔵寺南を通るルートに延長されたということです。
その先の粕川越えは、現在でもトンネル潜りのサイフォン式ですね。


Re: 八坂用水 - ぷうぷうち 2015/01/26(Mon) 22:38 No.2094
しょうちゃん、丸男さん、現地調査ありがとうございます。
あの工事は太陽光発電でしたか。地形がおおきく変わることはなさそうですね。
それから、サイフォン式の時代も有ったとは・・・初めて知りました。
色々資料が残っているようですね。
また、伊勢崎の町中や陣屋の水と八坂用水の関わりで分かることがあればおもしろいですね。
ぷうぷうちも気に留めて調べてみます。


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/01/26(Mon) 22:47 No.2095
鳩ぽっぽさん
神沢川のサイホン式の写真有りましたか(^_^)v。
小学生の頃だから、昭和50年代前半だと思いますが、カブトムシとかを取りに
元Nさん宅(廃虚?)付近の神沢川に行き、このサイフォン式を見つけ親父に話したら
滅多に怒った事の無い親父に、「絶対に近づくな!、もし落ちたら二度と上がって来れないからな」
って怒られたので良く覚えていたんです。
今の画像は撮って来たんですが、1枚1枚だと迷惑かと・・・・
でも現地に行ってみて、サイフォン式の跡と思わえる空き地(歩いて行くしか無い畑の一番奥で川の直端なのに小石が敷き詰められてる)が在ったり
その反対側の前橋側の護岸が他と違ったコンクリートの土手だったりでチョット違和感がありましたね。
サイフォン式の時もし川の水が呑み込めなかった時の為に溢れた水は神沢川へ流れる様にしたと親父が言ってましたが
今もこの非常用の排出口は前橋側には有りましたね。
追伸
実は土曜日の昼頃一度探索して自分成りに画像を撮ったりしたのですが、今一撮りたらない感じがして
日曜日は丸男さんがルート的に一番に八坂用水に来るかなと期待をしながら9時頃二回目の探索をしたんですよ。
一番の地元民が、直視しないのにあれこれ言うのもね悪いですからね(^_^;)。


Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/01/26(Mon) 23:30 No.2096
皆さん、お返事ありがとうございます。しょうちゃんのお父さんの言葉が、、「絶対に近づくな!、もし落ちたら二度と上がって来れないからな」が実にリアルに響きました!
でも、これは標準語訳? 実際は、「絶対、近づくんじゃねえどぉ〜!もし落っこってみろやぁ、おんめ〜、はぁ二度と上がって来れねえで〜!!うんまかぁねえどぉ〜そらぁ」なんて感じだったか? 勝手に想像しちゃいました。

ぷうぷうちさん、今日は図書館で以前、ぷうぷうちさんが見つけた太田町郵便局付近を流れる用水の、赤坂川からの分水点についてちょっと調べてきました。
ぷうぷうちさん現地調査では(コメントの引用失礼致します)>この辺で分水は無理そうですね。赤坂川は河床が思った以上に深いです。分水できる程の高い堰を作ると物凄いダムになり、水没する地域が出そうです。
ということでしたが・・・う〜ん? 迅速側図を見ても米軍撮影の写真を見ても、どう見てもここで水が分かれているので気になってました。
まずは添付した画像(米軍撮影の航空写真、国土地理院より)をご覧ください。分水点にはやはり昔からの堰があり、「赤坂堰」と言ったそうです。
図書館にあった「三郷文化財史蹟研究会機関誌」から引用させて頂きますが、「大胡県道のすぐ東に大きな水門があり(注・現在の八坂用水、赤坂川分水地点)、ここより下った水は段々に深くなり君塚産婦人科の処で高堰を作り水を揚げ、大胡県道に沿って下り・・・」ということでした。
君塚産婦人科さんが懐かしい響き♪でしたが、やはり、ぷうぷうちさんが想像した通りの高い堰が設けられていたようです。
明治の迅速側図ではその後、用水路は「大胡町道」のしばらくの間、道路西側に沿って流れてますが、米軍の写真は道路を直線にした影響でしょうか、太田町郵便局の所ですでに東側を流れてます。現在、そこは暗渠となりその上が歩道になっていることが確認できます。
この用水は昔は田方用水(民俗用語、水田用の用水の意)として扱われ、その先は、現在の大胡県道から左にそれる恐らく旧道に沿って伊勢崎城下方面に向かってます。先ほどの機関誌では、その水路沿いに「一本木」とか「お化け銀杏」とか言われる銀杏の木があると書かれてましたが、現在も旧道の傍らに大きな銀杏の木があったと思います。
一方、赤坂川の下流に記した橋の印は言うまでもなく、我らが丸男さん設計の「平成赤坂アーチ橋」で、その先には昔は水車があったそうです。
「山」は、迅速側図で「楢」の雑木林になっている範囲をもとに、「赤坂山」はこの範囲であったのではないかと想定して書き込んでみました。
昔、赤坂山は日が暮れると追い剥ぎが出るので、波志江で病人が出ても医者には「明日にしてくれい!」と断られたそうです。その後、大胡町道がそこを通り山が東西に分断されると、気のきいた茶店もできて「赤坂もち」や焼きまんじゅう、酒などが出されて街道端の憩いの場になっていたそうな・・・



Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/01/28(Wed) 17:23 No.2097
旧八坂用水は伊勢崎城下に入ると、城下町の総構え(そうがまえ)としていた土塁に沿ってあった堀をほぼ経路としていたと思われます。
現在は、中台寺東の道路を南下して、子供の頃にゴジラとかガメラの映画をよく見に行った元、日吉劇場の前を通過して、井下時計店前で本町通り(かかあ通り)と交差している通りに幅3間(約5.4メートル)の土塁と堀があり、土塁の上に松の木が植えられてました。
昔、南小学校でご年配の先生から「江戸時代は、井下時計店から東は町はなかった。みんな田んぼと畑だったんだよ〜!」と教えられたのも思い出します。(ちなみに時計店の有名な息子さんも同級生でいました。)
日吉劇場の辺りは1960年代初め頃までは暗渠にならず、堀があったそうです。
井下時計店を過ぎると昔は「南銀座通り」と言っても昔からひなびた商店街でしたが、そこを通って赤城煎餅さんの辺りから道路が左にそれてカーブしてます。この辺りからは現在でも、旧八坂用水らしき用水路が残っていて往時を偲ぶことができます。
こちらは私の地元でもありますので、少年時代は通学で毎日のように通った道です♪
グーグルマップの投稿写真は、その通りから南の八坂町方面を向かって見た写真です。道路左側のフェンスの下は用水路で、用水路は突き当たりの整染工場(グンセン)の所で左右に分かれます。
右へ進む流れは蛇川となり南小の方に流れてゆきます。左へ進む流れはかつての八坂用水として、この下流地域を灌漑していたのでしょう。今泉村の法長寺の北(現在の今泉陸橋辺り)〜旧、名糖牛乳の裏を通って、茂呂村の先で粕川に合流してます。写真の道路を白い車が写っている方にそのまま進めば右側に、焼きまんじゅうの田中屋分店さんがあります。
また、ここは伊勢崎町と旗本領であった今泉村の境界で、ここにも城主、稲垣長茂が築いたと言われる幅4間程(7.2メートル)の土塁と松の木が植えられていたようです。
藩主が参勤交代で江戸から帰って来た時は、町役人たちがこの「今泉の石橋」の所まで出迎えたと言われます。前橋、天川の松並木の風景を思えばイメージが湧いてきそうです。
また古老の話ではここは「ハッツケ場」とも呼ばれていたそうで、戦国時代の処刑は「みせしめ」の意味でも、このような領分境で往来のある道沿いに磔刑場があったようです。
「八坂町」の地名は、この辺りに八坂神社があったという記録はなさそうだし、京都の八坂のように「坂が多かった」ような地形でもない。恐らく、八坂用水が流れていたからここも「八坂町」と呼ぶようになったのではないかと想像してます。



Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/29(Thu) 08:54 No.2098
鳩ぽっぽ さん、用水を辿ること、楽しいですね。
八坂用水も、三郷地区からの分流後はほとんど掴んでいないので、興味あります。
いつか、ゆっくりと辿ってみようか・・・などと考えています。

ところで、鳩ぽっぽ さんやぷうぷうちさん、しょうちゃん、皆さんに盛り上げていただいた八坂用水について、
取りあえず、神沢川を渡る樋とその周辺についてページを起こして、本日付で掲載しました。
皆さんからのたくさんのご投稿、ありがとうございました。
まだ、ごく一部なので、関連項目についてはページを改めて掲載する予定です。


Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/01/29(Thu) 21:43 No.2099
丸男さん、「八坂大樋」がいよいよ記事になりましたね!
八坂用水についての記録や紹介はネットでも図書館に行っても極めて少ないのが現状で、今回、Go!いせさきさんで紹介されてナイスです〜♪
またまた、Go!いせさきさんならではのフィールドワーク〜実地踏査と写真による解りやすい説明、(グーグルマップの写真じゃ白い標識の向こう、藪の中はどうなっているのか見えませんからね〜。)
さすが、橋梁のプロが手懸ける、航空写真と古地図に基づいての位置検証も素晴らしいです!

当時の八坂用水は全長14.5キロ(約15キロ)、堀幅3.3メートル、両側に1.8メートルずつの砂置場があったそうです。用水になぜ「砂置場」なのかはっきり解りませんが、素掘りの堀は放っておくと堀底に土砂がたまったりして、しばしば堀さらい等のメインテナンスが欠かせなかったようです。
また、小畠武堯氏が造成した全長14.5キロのうち、かなりの部分で既存の水路が利用されたとも言われてます。特に伊勢崎藩領内では、華蔵寺付近から下流の多くが既存水路だったように思います。
小畠氏が実際に開削した区間は、伊勢崎藩領内よりも前橋藩領内の方が全然長かったようです。前橋藩領内の土地の高低測量は、夜に線香の灯りで行ったというエピソードもスゴいですね。
この偉業を称えた小畠武堯頌徳碑が、今も華蔵寺公園に建ってました。

画像は「伊勢崎市史」にあった八坂樋の全景写真です。網点ばかり目立つ写真ですが、大樋の佇まいと周りの風景の様子も撮らえた貴重な一枚ですね。位置検証の参考になればと思います。



Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/29(Thu) 23:20 No.2100
鳩ぽっぽ さん、ビッグニュース!(@_@)。
今日、景観サポーターの催しがあって、メンバーでもある郷土史家の星野さんと話を交わし、
伊勢崎城のお堀の水源について色々と教えていただきました。
すると、な、な、何と、鳩ぽっぽ さんやぷうぷうちさん推定の八坂用水からの流入経路が正解のようです。
大イチョウの脇を流れていたこと、蛇川のこと、伊勢崎駅の西側を南に下ったことなど
皆さんが展開した話が見事に重なりました。
八坂用水からの流入は江戸末期頃からのようで、
それ以前は、粕川の間之山橋下流の「二ノ堰」から分流した水路から流入していたようです。
このルートは、サンデンの下を通り、アイタワー花の森の東を通る水路で、
私も、ずいぶん以前に別の経緯で知った情報と一致してました。

・・・と言うことで、このテーマもいつか整理したてみたくなりました。└(^o^)┐


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/30(Fri) 00:10 No.2101
鳩ぽっぽ さんがアップしてくれた画像でちょっと遊んでみました。
元の画像が粗いので、部材の細かいところは不明なんですが。
アイオーさんの写真を参考に、後で丁寧に描いてみたいと思います。
取りあえず、ご愛敬の範囲でご覧ください。



Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/01/30(Fri) 21:04 No.2102
丸男さん、彩色され現代によみがえる「八坂大樋」が、ジオラマかそれとも幕末の総天然色写真を見ているようで素晴らしいですね〜!
青空と白い雲が明るい雰囲気でさわやかだし、よく見ると神沢川の流れもリアルに着色されてたりで楽しいです〜♪
またまた、昨日の講演会場では、星野正明先生とお会いされたそうでスゴいですね!
な、な、何と!こちらの掲示板さんで皆さんと推定してきた用水ルートが当たっていたということで、何より嬉しいですね〜!!
星野先生ともコンタクトを取ってくださってありがとうございます。m(_ _)m

添付した画像は迅速側図をもとに、波志江村から伊勢崎城下を経て今泉村へと流れる八坂用水を中心として、今まで皆さんと検証してきた堀や用水路をふり返って書きこんでみました。

1706年(宝永3年)に八坂用水が開削される、以前の伊勢崎周辺の水利事情も興味深いですね。
昔々、上植木村の粕川には三つの堰があったそうで、丸男さんの言われる通り、17世紀は「相ノ山橋」付近にあった堰から取水した水を伊勢崎町方面に送っていたようですね。
現在も間之山橋から宴会場の旧、宝島さんの脇を通る用水路が残っていて興味をそそります。
また、1632年(寛永9年)になるとその取水堰を華蔵寺東の堰に移しているので、そちらが「三ノ堰」になるのでしょうか。
この「粕川堰用水」は華蔵寺南の、現在の六間道路と北部環状線の交差する八幡町交差点辺りから旧道に沿って南流し、現在の寿町辺りからは旧道とともに六間道路からそれて斜めに(南南西の方向)向かい、「紺屋町(こんやちょう)出口」(現在の伊勢崎駅前)方面に到達し稲作、城下町の防火用水に使用されてます。
そのルートをすでに、丸男さんが掴んでいたということでさすがですね!
この曲がった旧道は石川泰三町長時代の大都市計画の先駆けで、華蔵寺公園から茂呂村まで一直線の!六間道路が完成してからは姿を消していったのでしょう。

また一方、迅速側図では天増寺の西で粕川は二股に分かれて流れ、この二股が再び合流する赤城神社付近から、現在でもとりせん駐車場の東〜伊勢崎工業高の東に沿って流れる用水路が残ってます。これは「天増寺堰」から取水される八坂用水以前からあった用水路の名残りだと思われます。
当時はこの用水路で下植木、今泉、茂呂村が灌漑されてましたが、1706年の御新堀用水(八坂用水)造成後は、既成の古い用水と新堀が合わせて利用され、用水の増量アップと安定化が図られたことでしょう。



Re: 八坂用水 - 丸男 2015/01/31(Sat) 00:35 No.2103
鳩ぽっぽ さん、粕川と八坂用水、両河川からの流れの位置と歴史の整理、ありがとうございます。
当時の道路とのからみ、また、本町を通り抜けて、今泉や茂呂へ流れて行く経路、
この辺も興味深いです。
現在、オープンになっている水路が暗渠になる前に、街中の水路巡りもしてみたいです。

・・・ところで、鳩ぽっぽさんアップの一昨日の写真に、これまた鳩ぽっぽさんアップのアイオーさんの写真を重ねてみました。左右を反転して重ねてみました。
木製の雰囲気が出てきました。



Re: 八坂用水 - ぷうぷうち 2015/01/31(Sat) 22:05 No.2106

丸男さん、やはり伊勢崎陣屋などの歴史について良くご存知の方はいらっしゃるのですね。
ネットで簡単に素人が調べても分からないことばかりです・・・わからないから調べたくなるのですが・・・。
お蔭様でずいぶん勉強ができました。

今日、BSUで13:30から「凸凹探検で謎解き!裸にしたいTOKYO」という番組をたまたま途中から目にしてかぶりつきで見てしまいました。
東京のかつての水利を調べる番組で、ちょうど伊勢崎陣屋の水利について調べるのとそっくりな感覚でした!
1600年代に江戸の町の為に引かれた水路や水利の話を、芸人さん+専門家の現地レポを含めつつスタジオで纏めながら進行する番組です。
中でも多摩の羽村から四谷までの全長43km・・1653年に築かれた「玉川上水」の話は、その距離を平均2パーミルの斜度で流しているという高度な技術力に圧倒されました。
江戸詰めだった小畠武堯さんはこれらの技術を学んでいたことでしょう。玉川上水の50年後に八坂用水が計画されたことになります。
今ある八坂用水も前橋域では斜面をトラバース気味に流れていたり面白いポイントがありますね。

丸男さんが航空写真に重ねた八坂樋の位置は現状の地形との関係性も明瞭で、時代をつなぐロマンを感じることが出来ました。
色彩画も加わっていろいろ想像しやすくなりますね。当時の子供はこの中を泳いで渡ったという武勇伝を思い出しました。
地形の高低もわかる3DのCADモデルが出来れば最高ですね。

鳩ぽっぽさんも苦労している赤坂川と合流〜分流して流れる駅北のルートは、今のところ迅速図しかビジュアル資料がありません。
戦後米軍が残した航空写真ではすっかり耕地整理が終わって迅速図の面影がありません。
大正11年に新田用水として延長されてから昭和15年の伊勢崎市制移行〜さらに中島飛行機伊勢崎第一工場開設の昭和17年の間に地形も変わってしまったのでしょう。
そういえば中島飛行機の工場を建設するにあたって備足山の一部で水田を埋め立てたという話も聞きました。
このエリアの変遷もかなり興味深いです。

さて、以下全くの想像です。
新紺屋(コーヤ)町というのが今の駅前にありました。(イッサキではコーヤと言った様ですが高崎はコンヤだったらしい)
街中に紺屋町があったにもかかわらず新しく染物街を形成した。
これは八坂用水からの水で潤った町の北側の水路が染め屋に魅力だったと。
ちょうどそのころは養蚕が盛んになって来て染物の需要も増えてきた。
染物には糸を煮るにも染料を煮出すにも鍋が要りますが、このなべ、お鍋っ川の名前と何か関係が?
ちなみにおなべっ川で検索するとGo伊勢崎さんのサイトしか出てきませんね。


Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/02/01(Sun) 00:34 No.2107
丸男さん、高橋寿郎氏ご所蔵のお写真を転用して、反転の技(わざ)ですね〜! こうして見ると以前、ぷうぷうちさんが言われていたように、大樋らしくかなりダイナミックな光景になってきました!!
この大樋の中を泳いで渡った子供がいたとは!知らなかったです。
ところで、ぷうぷうちさんも駅北から華蔵寺にかけての米軍の航空写真をご覧だったのですね! 私も昨夜は同じ写真をじっくり眺めてました。この辺りの耕地整理は早かったらしく、すでに現在に近い区画になってしまってますね。
迅速側図の時点では伊勢崎駅前から華蔵寺に向かう道があったのですが、すっかり消えてました。
大正時代〜昭和初期、これも伊勢崎銘仙の黄金時代を背景に、伊勢崎町から市へと昇格を目ざして立案された「大伊勢崎計画」の華々しい邁進のひとつでしょうか。富士重工、、言われてみれば、中島飛行機でしたね。
またまた、おすぎとピーコさんもビックリの!! 新紺屋(コーヤ)町〜おなべっ川への鋭い展開に、な〜るほど〜とつくづく深い感銘を受けてます!
紺屋町の読み方を、私も昨夜のコメントで間違えてしまい実は気になっていたところです。(下手に訂正すると画像が消えてしまい、丸男さんのお手数になってしまうし・・・)
そうですね、イッサキ人なら、「コーヤマチ」が正解ですね!

追記:コメントを書くのにたまに参考にさせて頂いている、高尚なブログ「いとしきもの 自分のための子守歌」さんの記事中に、一昨日、「最近、Go!伊勢崎の掲示板で八坂用水等の議論が盛り上がっているようだ。」と、こちらの掲示板さんのことが紹介されていてちょっと嬉しかったです!http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2013/04/post-7415.html
一番下の方に追記で出ています♪


Re: 八坂用水 - 金田一モニカ 2015/02/01(Sun) 12:29 No.2108
ぷうぷうちさん、こんにちは。
ぷうぷうちさんのおっしゃってた八っ坂用水の >駅北のルートは、今のところ迅速図しかビジュアル資料がありません、、、ということでしたが、、
ビジュアル系!とまではいかないけど、こんな図でよかったら「伊勢崎市史」の中に出ていたわ。(添付画像をご覧ください)
そこのエリア、ちっちゃくて見にくいけど(ー_ー;)八っ坂用水はじめとして用水路のパターンは、迅速図と、金田一鳩助が先週、米軍写真の中に見いだしたパターンとほぼ一致してるわ!
あっ、それからそれから、確か〜明治の終わり頃の「三郷村郷土誌」じゃあ、村内を流れる河川としては「新堀川」はあっても「赤坂川」の名前がないの。。「赤坂川」は後から名付けられた川の名前なのよ。
たぶん、今のセブンイレブンの裏の方にある赤坂川分水ポイントから、大正13年?に八っ坂用水が華蔵寺の方まで延長された時に、分水ポイントから南に流れる川を「赤坂川」と名前を付けたんじゃないかしら??
またまた、「平均2パーミルの斜度」ですって、、ふむふむ・・・あたいなんかには良くわかんないけど〜、めちゃわずかな傾きってことかしら。昔の人の技術ってスゴかったのね〜♪
そうよ、あたいも小畠武堯は、多摩で玉川上水を(@_@)こんな西川きよしみたいな眼になって、よ〜く見てきたんだと思うわ!!



Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/02/01(Sun) 15:40 No.2109
平均2パーミルの斜度・・・・
調べて見たら、1km進んで1mの上りまたは下りで1パーミル様ですね。
って事は1kmの下りを自宅近くの解り安い建物を当てはめたら
現「愛宕神社」(現八坂用水の伊勢崎起点から真東に在)と「北部環状線」(ほぼ平行する用水より少し下)と成りました。
ここの区間(八坂用水の水路とほぼ同じ)が2パーミルかは解りせんが数値では大した事が無い様ですけど、
丁度ほぼ同一コースを最近チャリで移動した事が会ったんですが
結構これが下るのは楽だったんですが、帰りは汗は掻くし、足はパンパン(これは普段の運動不足)
このわずかな計測を当時の方は行たって事でしょうから凄いんですね。


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/02/01(Sun) 19:43 No.2110
金田一モニカさんの八坂用水の水路を見て不図気に成る事が在るんですが・・・
用水の橋(桶)を渡り切り、伊勢崎に入ると急に東に折れ、現用水路付近で南下してる様に見えるのですが??
そこで、現用水路の脇に在る「十三屋」の管理地に石の門柱?が在るんですけども、
1本は店側(道路北側の東角)、もう1本が道路南側で西角(コイン精米機や旧プロパンガス置き場?)
と距離がチョット離れているのですが、八坂用水を南北と東西で挟んだ用水の曲がり角(現用水との合流するヶ所)
と仮設すると石柱がそれぞれ立って居る説明が付くんですが・・・
それと用水には関係無いと思いますが、お賓頭盧様が直脇に在ります。


Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/02/01(Sun) 21:55 No.2111
「おなべっ川」の名前の由来が「新紺屋(コーヤ)町」にあったという!ぷうぷうちさんの説に魅かれて周辺の地図を作ってみました。お馴染みの迅速側図にちょっと用水路を書きこんだだけですが・・
というより、実は昨夜、この地図を作っている時に偶然、ぷうぷうちさんが新紺屋町についてコメントされていたので驚きでした!
まず地図中の紫色で門のようなものを書いた所が、新しい交番がある伊勢崎駅前交差点よりもちょっとだけ西にあった旧駅前交差点の辺りです。
ここはかつて「紺屋町出口(こーやまちでぐち)」と呼ばれ城下町から外に出入りする「木戸」があった場所で、伊勢崎城下の北玄関と言ったところでしょうか。
伊勢崎町も町の出入り口に木戸を構え、盗賊や狼藉者(ろうぜきもの)から城下町の治安を守っていたのでしょう。
「新古日記」によると城主・稲垣長茂の時代には、ここにも西は同聚院の北裏から東は中台寺の北裏にかけて幅四間(約7.2メートル)の土手があったそうです。この土手はいつ頃まで残っていたかは解らないようですが、地図に土手をイメージして緑色で書きこんでみました。
また土手に沿って堀が設けられ、中台寺の裏辺りは平成に至るまで用水路がずっと残っていたように思います。
陣屋の外堀と更に城下町を囲った「お囲い土手」による惣構え(そうがまえ)で、伊勢崎町も完全なる城郭構造の体をなしていたわけですね。
地図に戻りますが、(紫色の)木戸から町に入ると南に下るメインストリートで、この地図では切れてしまいましたが旧・田原屋辺りで現在も道がカーブする雁木折(がんぎおり)の辺りまでが紺屋町。
木戸から逆に外に出ると東西に向かう道となり、木戸から善応寺方面の西へ向かう道の界隈が、ぷうぷうちさんの言われる新紺屋町ですね! まさにこの界隈は現在、ベイシア伊勢崎駅前店と駅南・東西通りの工事の真最中でというのも何かを物語っているようです。
私が子供の頃は、そのまま西へ進めば杉か何かの並木道で善応寺の参道だったように思います。また旧道は現在の道路より斜め右にそれ、小さな堀に沿って大谷石でできた蔵や旧家が建ち並ぶかつての大正〜昭和初期を思わせる風情ある通りでしたが、その界隈も近いうちに消えてゆくのでしょう。
さて、木戸から東に進めば道はすぐに左に折れ、中村(華蔵寺)方面に向かう道でした。その道沿いの堀には、城下の防火用水に用いられた粕川堰用水、江戸時代後期は八坂用水の水が流れていたのでしょう。
旧伊勢崎駅前交差点から東に向かってすぐの小さな角を左に入ると、やはり古い家並の風情ある通りでした。
Go!いせさきさんの記事で見て解ったのですが、現在はなんとその小さな角の所に交番が建ち、新しい駅前交差点となったようです。最後まで残っていた寄棟の民家も、実はその界隈のお宅であることを知りいささか複雑な心境でした。
このように、かろうじて残っていた城下町の面影も、新しい時代に向けて姿を変えてゆくのでしょう。



Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/02/02(Mon) 16:14 No.2112
またまた、すみません昨日の続きです。
現在の伊勢崎駅前辺り、すなわち江戸時代の「紺屋町出口(こーやまちでぐち)」から華蔵寺方面に向かっていた道と用水路の遺構らしきものを、グーグルマップの中に見つけました!
画像は「一番街通り」と言うのでしょうか、現在の駅前交番とクリーニング屋さんの間の道路ができる以前にあった狭い道を高架の方に向かった所です。(現地は今は更にすっかり変わり果て、丸男さんでないと場所を正確に特定できない状況です。)
道の奥、樹木の茂みが最後まで残っていた寄棟民家の敷地、道の東側には現在、自転車預かり所やよいさんの新店舗が建っているのでしょう。
さて画像の手前、左側の緑色の古いフェンスの中が用水路の遺構と思われる所です!
この道は旧伊勢崎駅前交差点の角にあった、セブンイレブン(その前は、おかそうさん)から東に向かってすぐの小さな角を左に入った道で、古い家並がそれなり風情ある通りでした。
鉄道が敷かれる以前の明治初期は、この道は用水路とともに北北東に進みゆるく蛇行しながら中村(華蔵寺)方面に向かってました。この辺りでは、八坂用水もこの水路が使用されたと思われます。

橋田友治先生著の「伊勢崎歴史散歩」では、「(紺屋町出口の)木戸外に出ると道が二筋に別れて、一本の道は東北へ出て中村・華蔵寺を経て赤堀方面への道となり、他の一本の道は西へ向かって大胡街道となっていた。華蔵寺道の旧道は現在(注・昭和47年頃)の魚直こと加藤政吉氏の家の前を通る道であり、大胡街道の方も、善応寺の山門前の杉並木のあたりで北に入ったもので、今も僅かに古い頃の面影を残している。」と記されてます。
「魚直」という魚屋さんの位置を、どなたかご年配の方でご存知の方がいらっしゃらないでしょうか?



Re: 八坂用水 - 金田一モニカ 2015/02/02(Mon) 17:39 No.2113
しょうちゃん、即レス、うれぴ〜わ!
平均2パーミルの斜度・・の説明、あたいにも解りやすかったわ。
八坂用水の経路の方も、ぴったし カン・カンでちゅ〜☆ 
>用水の橋(桶)を渡り切り、伊勢崎に入ると急に東に折れ、現用水路付近で南下してる様に見えるのですが??
しょ、しょ、しょうちゃん、その通りよ!!あんな小さい地図で、超細っかい所までよく見てくださったわね〜。
この付近のことですけど、金田一鳩助 2015/01/23(Fri) 22:04 のコメントをまた見てもらえると嬉しいわ。航空写真で新、旧八坂用水が合流してるのもよくわかるわよ!
ところで添付した画像だけど、、今回はあたいも大物クリエーター・丸男さんを意識して、絵なんて描いてみちゃったの〜。
じゃん、、これが昔、ここに旧八坂用水が流れていた頃の想像図だわ!!
場所は十三屋さんの自販機&精米機コーナーで、グーグルマップさんの写真と1946年撮影の米軍航空写真をもとにしてるわ。実際の流れはちょっとズレてたかもしれないけど〜。まっ、イメージってことで(汗)
そうそう、謎の石の門柱があったわね! 旧八坂用水は八坂樋の方からこの道路に沿ってここまで流れてきて、門柱よりも向こうの道路が妙に広くなっているのがお解りかしら? これはきっと旧用水の流れていた名残りなのよ。
旧用水はたぶんこの門柱辺りで道からそれてカーブして、コイン精米機の辺から自販機コーナーのうしろを通って、交差点の南の方で新しい八坂用水に合流したんだと思うわ。
或いはもう一つの説!、、明治初期の古地図を見るとあら不思議??旧八坂用水は交差点の角でほぼ直角に曲がっていた!
ということで十三屋さんの建てた謎のモニュメント・・・東西角の「二つの門柱」は八坂用水の、、ワンチュ!角々、角々、曲がり角〜♪を現していたという、しょうちゃんの推理がかなりいい線いってると思うわ!!



Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/02/02(Mon) 21:48 No.2114
金田一モニカさん
やっぱり地元の強み?
自分の推理も的外れじゃ無いってことですかね。
石柱(門)に何か表記してあるか気に成りますね。
それと、桶を渡り東に折れ、現用水路に至る水路ですが、
現「東昇運輸」さん東角から現用水路までの水路と思われる堀が道路と民家の間に在るんですよね。
車で何時も走っているんですが、素人目に必要以上に堀が深いな〜って思ってるんですよね。
この推理も合ってるるのかな?
昔からの馴染みの店なので、顔を見れば撮影も一つ返事でOKでしょうけど
最近は個人的にはご無沙汰なので????(お互い歳取ったから顔忘れてるかな?)


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/02/02(Mon) 23:39 No.2115
鳩ぽっぽ さん、八坂用水から伊勢崎城への水の流れ、
特に伊勢崎駅の東西で南北に流れていた用水の特定など、
高架化工事前に撮った写真を探したり、地図を用意したりと、
多少は整理しているのですが、掲示板で展開するのは限界があるので、
後で、ページを起こしてまとめます。しばらくお待ちください。
その間、皆さんが情報を寄せてくれるのは大歓迎です。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/02/05(Thu) 10:07 No.2116
鳩ぽっぽさん、ぷうぷうちさん、しょうちゃん、皆さん、
先ほど、八坂大樋の上流(前橋側)の堀跡を記事にして掲載しました。
http://go-isesaki.com/yasaka.html#maebashi
それと鳩ぽっぽさんがアップしてくれた伊勢崎市史の画像を、前回よりも丁寧に仕上げて再現してみました。



Re: 八坂用水 - ぷうぷうち 2015/02/05(Thu) 21:41 No.2117
丸男さん、八坂樋の続編イイですねー。
現地取材の写真付解説も、うんうん頷いちゃいます。
掲示板の皆さんが持ち寄った資料も含めて、これだけ八坂樋の情報が一挙に見られるサイトって無いんじゃないですか?

そうそう、モニカさん、遅ればせながら水路マップありがとうございました。はじめて見る資料で大変興味深いです。

さて、八坂樋が廃止になったのが大正13年らしいのですが、それまで八坂地区や安堀の西組では素掘りの水路から浸透した水が家屋内に染み出す被害が多かったそうです。
江戸時代はそんな苦情をお上に物申すこともままならなかった様です。
伊勢崎町や自治体がしっかりしてきた大正になって陳情が認められて八坂用水は現在のルートに変えることが出来たということです。

子供のころから用水路は自然発生の河川に比べて魅力が無かったのですが、今回人造の水路がとてもドラマチックだなぁと感じています。
身近なところで大正用水をGoogle Mapでたどると、ルートのうねり具合が女堀に似ている様な気がします。
女堀も技術がほんの少し足りなかっただけであと少しだったのかも知れないな・・・なんて。

用水路の木製樋の写真を貼っておきます。これは昭和初期の大正用水らしいですが、往時の八坂樋をリアルに忍ぶことが出来るのではないでしょうか。



Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/02/05(Thu) 23:16 No.2118
丸男さん、ぷうぷうちさん、しょうちゃん、こんばんは。
八坂大樋の彩色復元写真が更に精密に、リアル映像に仕上がってナイスですね〜!
画像を拝見していると、八坂用水が完成した1706年(宝永3年)の春にタイムスリップしたようで、すがすがしい気分になります\(^o^)/
またまた、昭和初期の大正用水、木製樋の写真もダイナミックで迫力ありますね!!

長い間、水不足に悩まされてきた村々のお百姓さんたち、小畠武堯はじめ藩のお役人たちにとっても、八坂用水のみなぎる豊かな水の流れをはじめて見た時は、ドラマチックで感激の一瞬だったことでしょう!
中島みゆきさんの「風の中のす〜ばる〜♪」で始まった、NHKのプロジェクトX〜挑戦者たち〜や大河ドラマを見るようです。

この用水ができるまでは、実に様々な歴史、背景がありました。
まず地理的背景としては、桃の木川を介して水量豊富な利根川の水を導入している八坂用水が開削される以前は、台地上になっている広瀬川の左岸(川の東側)の田植え、稲作は粕川、桂川、神沢川等の水量が乏しい河川や湧水の水を、中村沼(華蔵寺沼)や鯉沼等々の溜池を築造し蓄えて利用するしかなかった。それでは安定した水量を確保できず、水不足で苗が枯れてしまうことがあった。
政治的背景としては、幕府の譜代(ふだい)名門・酒井氏の分家で完全な城郭も持ち合わせていた伊勢崎藩ですが、二万石という小藩が、参勤交代では多額の費用を費やし藩財政は圧迫され疲弊し、すなわち農民たちの年貢は重税をかけられ、他国なら収穫した米から納めるものと自分たちに残るものの割合が5部5部であったものを、伊勢崎藩はなんと7割もの米をお上に納めなければならなかったという苦しさで、、農家の困窮は痛々しいものであったようです。
そうした中に私たち伊勢崎人にとって忘れてならない尊き犠牲・・・このあまりにも過酷で不条理な重税の改善を求め、農民たちを救うために死を覚悟して藩に直訴した二人の義人、波志江村名主の上岡玄蕃氏(かみおか げんば)と茂呂村名主の高橋五太夫氏(たかはし ごだゆう)
ぷうぷうちさんも言われるように、そんな苦情をお上に物申すこともままならなかった様で、どんな正当な正しいことを訴えても直訴は御法度=死罪という時代でした。
上岡玄蕃氏は天和2年(1682年)2月4日に打首、高橋五太夫氏は14年間、牢につながれた後、元禄10年(1697年)牢死と伝えられています。
農民たちから慕われた二人の義人、その尊き血が流され、その後、彼らの志は藩主にまで伝わって重税は軽減されたそうです。
また丁度その頃の江戸では、将軍家をコントロールして幕府の権力を一手に握ろうとした酒井家が、水戸光圀や堀田正俊という老中たちと対立した結果、敗れています。5代将軍・綱吉側の老中たちは狡猾に酒井氏を陥れるあら探しを始め、その政治的策謀は地方の伊勢崎にまで及びました。
上岡氏と高橋氏の直訴も、かつて20年前の伊勢崎藩主であった酒井忠能(さかい ただよし)の課した重税を失政として、幕府の下級役人に欺かれ告発したと言われてます。
正義感あふれる二人の義人は、中央・江戸の権謀術数の狭間の中に巻き込まれて落命してゆきました。
二人の犠牲ももとはと言えば、藩の財政悪化〜農民への重税が原因でした。それからの伊勢崎藩は、新田開発と新しい水路を開削して農政改革を実施していったようです。
八坂用水はそういった背景の中に計画され、実現された藩にとっても希望の水路だったことでしょう☆
今、私たちの生活も、物価は上がる光熱費は上がる税金は上がる将来は見えない、でも給料は下がるボーナスはもらえない、あげくの果てには私のように失業する・・アベノミクスと言ってもまだまだ不景気の地方都市、伊勢崎市に暮らしている中で・・・
今回の丸男さん作、新緑の季節のような爽やかな八坂大樋の彩色復元写真を眺め、そうしてそこにみなぎる水路の流れを想像していたら、、何だか自分の心も潤い活力がみなぎってきました! 素晴らしい作品をありがとうございます!!

この掲示板スレットがここまで導かれたことを感謝して、丸男さんはじめ皆様に聖書の中からこの言葉を贈らせて頂きます。
まるで質実剛健なその人、上岡玄蕃氏のことを語っているような旧約聖書の有名な言葉。詩篇1篇です。(新改訳聖書から引用)

幸いなことよ。
悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/02/06(Fri) 08:56 No.2119
鳩ぽっぽさん、ぷうぷうちさん、しょうちゃん、
八坂用水のページは全く皆さんのおかげです。
皆さんの日ごろの興味、関心、発信力に刺激され、促されるように動いただけです。
ありがとうございます。

神沢川右岸沿いの道路(私は勝手にサイクリングロードと思っていますが・・・)は良く走り、
荒砥川合流部手前のどん詰まりの場所などは、人気がなくてかつて人に会ったことは一度もなく
大きな農業施設側のセンダンの実(写真)を眺めたり、あの堀跡を眺めたりしていただけで、
まさか、あの場所が今回の八坂樋、八坂用水の舞台だったとは、知りませんでした。

この後、あのページに現在の渡河用水や、墓所などを掲載する予定です。

それとは別に、皆さんが投稿してくれた投稿の中から、
●伊勢崎城つながりの八坂用水、三郷から茂呂まで
●粕川からの水路(西桂川?)めぐり
●伊勢崎城のお堀めぐり
などをまとめられればいいなぁ・・・などと思っています。



Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/02/06(Fri) 21:04 No.2120
丸男さん
色々検索してたら気になる地図を見つけました。
丸男さんは、ご存じだったかも知れませんが・・
http://nrb-www.mlit.go.jp/kokjo/inspect/landclassification/water/risui/data/tonegawa/tonegawa/03543940.pdf
倍率を上げたり、左側の表示メニューにチェックを入れる事で解り安く成るのですがどうでしょうか?
直接検索するとエラーになる??のでコピー検索してみてください
法律・規則・道徳から良く無いと思いましたら削除して結構ですm(_ _)m


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/02/07(Sat) 20:48 No.2122
しょうちゃん、その地図を見てみました。
国交省のページで、色々な機能を持っているようですね。
農業用水路と河川を表示してみました。
今まで皆さんが語った河川や水路が表示されています。



Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/02/07(Sat) 21:37 No.2123
丸男さん、「水利と開墾の歴史に関する展示会」は八坂用水の関連展示もあり!ということで、かなりタイムリーな展示会ですね〜!
またまた、「八坂用水資料目録」というのが、図書館にあったんですね♪ 先日の八坂大樋の写真も図書館所蔵のもののようです。
私も今日は図書館で色々と調べてきました。調査相談室のK師匠から「八坂用水で盛り上がってますね〜!!」と激励頂いて励まされてます!

今日は「三郷文化財史蹟研究会機関誌」といった書物を拝見していたら、旧八坂用水は八坂樋に入る手前で「新土塚城址の濠の東を通って、八坂樋に至る」という記載がありました。
以前、Go!伊勢崎さんでも紹介されてましたが・・そういえば智技授山の山も城跡だったと思いつつ「前橋市史」を手にしました。画像は「前橋市史」に掲載されていた新土塚城(しんどづかじょう)の縄張り図です。
なんと、私たちが旧八坂用水の遺構と思っていた女堀のような広い堀は、新土塚城の堀でした!
「新土塚城址の濠の東を通って」とありましたが、「濠の東」とは旧八坂用水が濠内の東よりを通っていたのか? 或いは、濠外の東を通っていたのかは解りません。縄張り図を見ると濠外の東に細い川が描かれてます。米軍の航空写真でも、同じルートで木立の中を流れる川が確認できます。
迅速側図では、土橋よりも南側の堀跡東側に細い道があるようですが、水路は道の東側を通っているように見えます。

新土塚城は天正年間、伊勢崎の赤石城主でもあった由良氏の家臣、増田政繁の城だと言われてます。
「前橋市史」によると新土塚城は「西面を荒砥川に托し、東面を幅15メートルの濠で堀り切り、大手虎口をその中央にとり土橋を通じている。北東に偏して本丸があり、その南につづいて二の丸、さらに南に三の丸があったというが、今はまったく消滅してしまった。西寄りに新土塚と呼ぶ古墳がある。遠見台に用いられていたことであろう。この古墳から地名が出ている。」と記されてます。
新土塚城の濠は中世城郭マニアに取っても、地方のマイナー城館にしては大規模、豪快な濠を有しているので驚きのようです。こちらのブログさんの写真もぜひ参考にご覧ください。
http://www.geocities.jp/sisin9monryu/gunnma.sinndoduka.html
と思ったら、、さきほどトップ記事で「今村城址」が紹介され、最近のGo!伊勢崎さんは郷土史ファンにはたまりませんね〜!!



Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/02/08(Sun) 10:52 No.2124
丸男さん、ぷうぷうちさん、しょうちゃん、
昨日の新土塚城(しんどづかじょう)の縄張り図と米軍の写真をもとに、ラフですが、旧八坂用水と思われるルートを描いてみました。丸男さん作成の写真に描いてしまいすみません。

画像、上の方のルートは、もう少し西よりだったかもしれません。
この写真には写っていませんが米軍の航空写真では、現在の北関東の走っている辺りで新用水と分かれ、智技授山方面に南下する細い用水が見られます。旧用水の名残りと思われるその用水は途中まで現在も活躍中ですが、智技授山に近づいた所で西にカーブしてDの位置=智技授山の北側を通ってます。
一方、新土塚城の濠の東を通っていたと思われる(旧用水、青いラインの)部分は、恐らく耕地整理の折に完全に埋没してしまったようです。



Re: 八坂用水 - 丸男 2015/02/08(Sun) 18:44 No.2125
鳩ぽっぽさん、今日は、先ほどまで下植木公民館で、荒船さんとお喋りしてました。
八坂用水や新田用水、大正用水、赤石の時報鐘楼、伊勢崎陣屋や伊勢崎市中の歴史、
中台寺の時報鐘楼、広瀬川河岸交易などなど、実に多岐に亘ってお話を伺い、お喋りできて、楽しい時間でした。

八坂用水の堀と思っていた堀跡は、新土塚城の堀跡だったんですね。
八坂用水のページの方も、訂正しておかなくちゃならないですね。
八坂用水の痕跡が消えてしまったこと、残念ですね。

今日、荒船さんが、三郷側には用水の痕跡がある時期まで残っていて、写真もあったようです。
今は痕跡も消え、その写真もいつの頃かに焼失してしまったようです。


Re: 八坂用水 - ぷうぷうち 2015/02/08(Sun) 19:53 No.2126

あちゃ〜。ごめんなさい。やっちゃいました。
間違った情報を流してしまいました。
すっかり八坂用水だと思い込んでおりましたが、城の外堀だったとは驚きです。
丸男さんにはレポートまで作って頂いて、本当に、申し訳ありませんでした。
下植木公民館へも行けず重ね重ねお詫び申し上げます。

それにしても鳩ぽっぽさん、戦国期の城の外堀がこんなにはっきり残っているのも感動です。
城の縄張り図もよく描いてあってわかり易いです。
ああ、ここは城だったのですねー(感慨)。
この辺りの城は西に自然の河川が作った崖、他方は人口の堀で囲んだパターンが多い気がしますね。


今日、丸男さんの仕入れてきた八坂用水のお話がまたレポートに載るのを楽しみにしております。


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/02/08(Sun) 21:55 No.2127
鳩ぽっぽさん、ぷうぷうちさん、先ほど記事を書き直しておきました。
書き直しに際して、鳩ぽっぽさんが探してくれた 縄張り図を迅速測図および現況地図と重ねてみて思ったのですが、
堀位置や山の頂上、道路などを合わせて重ねると、迅速測図に示される八坂用水の位置が
堀跡の東端部に接しているような感じもするのですが。
ひょっとして、堀跡の一部を利用したのかなぁ・・・などとも思ったのですが。

迅速地図も縄張り図も精度が低いので、確信はないのですが(ー_ー;)。


Re: 八坂用水 - 鳩ぽっぽ 2015/02/09(Mon) 22:47 No.2128
丸男さん、ぷうぷうちさん、お返事ありがとうございます!
しょうちゃんの気になる地図に、丸男さんが青で農業用水路と河川を表示してくださったので、
またまた蛇足ですが、薄紫色で旧八坂用水と思われるルートを書き込んでみました。
緑色が現在の八坂用水のガイドになっているようですから、新旧用水ルートの比較になったらと思います。
もとの地図はまだ北関東道が通る前、でも北部環状線はできてますね。
昭和2年に完成した新ルート(緑色)は、現在の北関東道と交差する辺りで新土塚方面に南下しないで新井地区に直進する水路に変更。
旧ルート(薄紫色)は荒砥川を木製樋で渡河した後、旧二之宮村では神沢川に至るまで台地の末端に沿って開削されてます。グーグルストリートビューで辿ってみると、台地と水田の際に沿って台地上に用水が流れているのがよく解ります。
大正13年に取り壊しになった八坂大樋は202年間活躍し、その間、元文元年(1736年)に大修理。天保3年(1832年)に架け替えがありました。維持管理は伊勢崎領の監視役人が、大樋袂の御小屋(おこや)に常駐していたそうです。



Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/02/10(Tue) 00:37 No.2129
丸男さん
八坂用水の神沢川の渡しがサイフォン式だと解る画像を見つけました。
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1027901
上URLをコピー検索→同意→日本地図の@<<CKT861−C7B−10>>→高解像度表示→ズーム
で出て来ると思うんですが
又は、検索条件  整理番号CKT861  コース番号C7B  写真番号10
でも出ると思うんですが・・
<<高解析度表示は重要?>>
それと前橋側の八坂桶前の堀跡がハッキリ解る様な部分?もスライドして行くと解ります。
ただこれは自分のパソコンでアクセスを何度かした後なので若干の別操作が必要かも知れません。
一応このHPの検索欄に年代が在るので1986年9月4日撮影検索?
地図をズームして行って、波志江(前橋・新井町側)で見て行くのも良いかも知れません。

追伸
1986年9月4日は自分が20才に成った翌日です・・自分でも驚き(@_@)


Re: 八坂用水 - 丸男 2015/02/10(Tue) 18:28 No.2130
しょうちゃん、八坂用水が、現在神沢川を渡河している水路橋は、
以前は、しょうちゃんが言う通り、サイフォン式だったようですね。
先日の下植木公民館での八坂用水展示会でも、そのように聞きました。
ただ、いつ頃、現在の水路橋になったのか、「八坂用水資料目録」の年表を見ても分かりませんでした。
しょうちゃんがまだ子どもの頃だったのでしょうかね。
現地水路橋に橋銘板が付いていれば判明するのですが。


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/02/11(Wed) 00:24 No.2131
丸男さん
1986年9月4日のカラー写真はサイホン式ですが、1991年11月6日の白黒写真は、橋渡しに成ってますね。
1986年9月から1991年11月の間の映像が無いのでこの間に工事が行われた物と思います。
http://mapps.gsi.go.jpのトップページから年代や場所を変えてみたのですが、この間は自分には見つけられませんでした。
橋渡しに成ったのは、自分が成人してからですし、田(米・麦も委託して作ってる)も持ってる親父も
自分がここ数日話題にするまで橋渡しに成ったを知らなかったんですよね。<<八坂用水から田に水は引いてません>>


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/02/14(Sat) 21:25 No.2138
丸男さん
現八坂用水の伊勢崎入り口「平成の八坂桶」の画像のUP有難う御座います。
みんな殆ど狂いなく同じ立ち位置からのアングルですね。
丸男さんも気づいたと思いますが、この人が渡る橋のたもですけど、畑の一番奥なのに
小石だらけの空き地(農地には絶対不向き)でしたでしょう。
自転車さえ入って行けないと所なのに???
サイフォン式の名残・現桶工事の為の空き地等を考えると納得が出来るんですよね。
それと、チョット下流の石碑全く気が付きませんでした。
ただちょっと離れた畑中に??のコンクリートで出来た升状の物が気に成りますけどね。
周りには連帯する様なものは何にも無いんですけどよね。
上からのぞきこんでもゴミ(廃物)だらけなんですけど画像を撮った方には四角い穴が開いてるんですよね。
何に使かってたのか使うのか????

自分のは携帯電話のカメラ機能の画像ですから大した事無いですけど
良いカメラだと画像も綺麗ですね。
上空からで無い、サイフォン式の時の「昭和の八坂桶?」の画像が有れば
もっと比較出来て面白いんですけどね。



Re: 八坂用水 - 丸男 2015/02/14(Sat) 22:36 No.2140
しょうちゃん、
水路橋下流左岸側の小石だらけの空き地、
元々住宅が建ってた場所じゃないんですか?
あるいは、水路橋架設時の作業ヤードを元の状態(畑地?)に戻さなかったとか?

しょうちゃんがアップした画像のコンクリート製構造物、水槽ですかね?


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/02/14(Sat) 23:02 No.2141
丸男さん
サイフォン式の時の画像だと雑木林の様ですね。
とするとヤードの跡かな?それとコンクリートの建造物
周りに水路らしき物も無かった様な??
謎を解き明かしにまた探索ですかね?


Re: 八坂用水 - ぷうぷうち 2015/02/19(Thu) 21:35 No.2147
しょうちゃん、丸男さん、
「伊勢崎の史話」(平成元年)という本にサイフォンの時の写真があったのでスキャンしました。
分かり難いですが写真の投稿が無さそうなのでアップして置きます。
平成元年ころはサイフォンだったようですね。
このほか八坂用水は今も荒砥川をサイフォンでくぐっています。宮川を橋で渡って神沢川に至ります。北関東道を潜るトンネルはちょっと面白い雰囲気が有るとおもいます。



Re: 八坂用水 - 丸男 2015/02/19(Thu) 22:13 No.2148
お〜〜、ぷうぷうちさん、良く見つけましたね〜(@_@)。
サイフォン式って、ちょっと怖い感じもしますね。
しょうちゃんのお父さんが、「絶対近付くんじゃねぇぞ!」って言った気持ちも分かる気がします。
・・・でも、周辺の雰囲気に昔の面影が漂っていて、それもまたいい感じです。


Re: 八坂用水 - しょうちゃん 2015/02/19(Thu) 23:39 No.2149
ぷうぷうちさん
本体の画像見つかりましね。V(^0^)V
これこれ、覗き込んだりした様な気がします。
反対側?は今の桶の水路の様に一部水路の真上に手すりが有り上がれた(渡れた)様な?
白黒なので怖さがリアルに出てますね。
「1986年9月から1991年11月の間の映像が無いのでこの間に工事」にも当てはまりますね。
平成元年(1989)から推測で1990年〜91年に工事って事ですかね?
それと、八坂用水が別名「佐波新田用水」と呼ばれて、短縮されて新田用水って言う時も有りますね。
(これは父らが時々新田用水とも言いますし、ここ(新田用水)を子供の頃は良く泳いでいたとも)
追伸
画像は前橋側から伊勢崎側を撮ったと思います。
理由
台風等で水量がサイフォンの通過量を超えた場合、今の渡し水路と同じ様に入り口わきにあふれた水を
神沢川へ流す水路が付いていると父から聞いていますが、溢れた水を受ける水路(枠)がみえないからです。
一応現在の非常時(溢れた水を受ける水路(枠)を載せてみました。
排出口はこのHPの八坂用水の特集の中に現在の物が載ってます。



火事 投稿者:タカヒロ 投稿日:2015/03/26(Thu) 00:01 No.2176    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
2015年3月25日の午後伊勢崎市今泉町のドンキホーテの近くで、火事が、あったんだけど、ニュースにはなっていない。

波志江町の愛宕神社 投稿者:丸男 投稿日:2015/01/22(Thu) 13:30 No.2070    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
八坂用水の話題で盛り上がっていますが、八坂用水が神沢川を渡る堰について
その位置について話が展開する過程で、愛宕神社のことが話題になりました。
現在、大胡県道脇にある愛宕神社は昔はこの堰付近にあったようで
その裏付けが、先日「ぷうぷうち」さんがアップしてくれた昔の波志江村の字名にもあるので、
その部分を拡大して、字名その他を書き加えてみました。

しょうちゃんの情報や金田一モニカ さんの愛宕神社の調査結果などの参考にご覧ください。


Re: 波志江町の愛宕神社 - しょうちゃん 2015/01/22(Thu) 20:58 No.2071
愛宕神社ですが、親父は昭和12年生まれなのですが、その親父が聞いた話として
現在の地図と合わせた上の古地図で言うと「愛宕」と書いて有る愛の文字付近に小高い山が在ってそこに神社が在ったと聞いているそうです。
それで波志江のあちこち点在する神社?を現在の所へ集めたとか・・・
ちなみに、我が家は「新田」と「愛宕下」の区分線付近で親父の実家も数メートルの所に有ります。
昔から有名な家だったとか??


Re: 波志江町の愛宕神社 - 金田一鳩助 2015/01/22(Thu) 21:51 No.2073
はじめまして、金田一と申します。通常は名物ブログ「ほぼにちパート2」さんの中で、探偵を少しさせて頂いている者ですが、こちら様でも事件だということで投稿させて頂く次第です。ちなみに、お騒がせの金田一モニカは小生の娘であります。
「ほぼにちパート2」さんによれば、Kさんが入手されたミヤサカ・トリートメントシルクソープなるものが「八つ墓用水のたたり」による事件解決の鍵を握っているそうですが、石鹸のお使い心地はいかがでしょうか?
ふるさと先生が言われる如く、用水のたたりが一日も早く石鹸の泡と一緒に綺麗サッパリ洗い流されることを願うものです。
さて、Go!伊勢崎様におかれましては、伊勢崎城お堀の水の引き込みから端を発した今回の事件でありますが、その水源を求めて遡行し八坂用水に辿り着き、その謎が新たな謎、今から百弐年前の愛宕神社の遷宮(せんぐう)移転の件に発展したものとお見受け致しました。
添付した地図は、明治の迅速側図に現代の基盤地図が合成されたもので農研機構様から拝借したものです。
小生が赤で加筆した「い」の字は小畠武堯翁による八坂樋、「ろ」の辺りに現在の全東院、「は」の辺りに現在の八坂樋、「に」の辺りが昔の愛宕神社、「ほ」が現在の十三屋さん、「へ」が旧八坂用水の流れ・・・になってます。
こういった合成地図はどうしてもズレが生じてしまうようで、現代の道路、建物のパターンは実際よりも数十メートル西にズレてしまっているようです。

ということで、かつての愛宕神社があった位置は、十三屋さんの前の道を二十メートルほど東に進んだ角を左に曲がり、北に百メートルほど進んだ辺りにある(有)嶋鉄工所さん、居酒屋よりみちみさとさんのある辺りではないかと見てます。
「ぷうぷうち」さん投稿の小字名地図を元にした丸男さんの地図も更に重ね合わせると、まさに小字「愛宕」の所にかつての愛宕神社があったことになります! 二丁目の「愛宕」にあったことは間違いないでしょう。
尚、あしからず未だ現地調査はしてなく、古地図上で見立てただけの鑑定となってます。願わくは更に土地勘のある地元の方々に、この辺りに神社の痕跡やかつて何か手掛かりはなかったかお伺いしたい所であります・・・と思ったら、、驚き桃の木山椒の木!でしょうか先ほど、この辺りの名家の御曹司、しょうちゃんからのあっぱれな投稿が入ってました!!さすが、地元民の仰ることは説得力あります!
これは小生の出る幕ではありませんでしたが、「愛宕神社社殿造営記念碑」の碑文をもって結びとさせて頂きます。碑文によれば、大正二年の秋に、旧社殿をそこから現在地に移築したようですね。
「さらに大正二年(1913)秋、波志江金蔵寺と地交換して現在地大字波志江一五二三番地に遷祀神楽殿が造営され、つづいて昭和三年(1928)御大典記念として社務所、神輿殿、玉垣の造営が行われるとともに、篤志者による水屋鳥居の造営が成り、同九年狛犬が献納され・・・。」云々と記されてます。その後の愛宕神社は、平成に入り新社殿が竣工され現在見る姿に変遷してきたのでしょう。



Re: 波志江町の愛宕神社 - ぷうぷうち 2015/01/22(Thu) 21:56 No.2074
以下、資料(冊子:波志江町の民俗)の書き写しです。
>愛宕神社はもと、中の面と八坂の境の愛宕山古墳の上にあり、社の森が遠くからも眺められたという。四十八段の石段を登って参拝したので愛宕山というにふさわしく・・・中略・・・波志江の社では愛宕神社よりも現在は無い七社のほうを重視している。これは藩主が七社の修造に力を貸していたからに違いない。ともかくも「伊勢崎風土記」には愛宕神社の説明はない。けれども、波志江の人々には、ウブスナサマとして古くから親しまれ尊ばれてきた社なのである。<引用終わり。
また、明治41年に16社が愛宕神社に合祀と有ります。以下内訳(16社以上記載あり)
1、宿波志江 字天神山の菅原社
       字大沼上の赤城社および末社八万社
       七社
2、宮貝戸  今宮社および境内末社の七社
       雷電社
       出雲社
3、西屋敷  近戸社
       秋葉社
4、岡屋敷  諏訪社
       浅間社
5、中屋敷  近戸社
6、中の面  愛宕社
7、間の山  稲荷社と末社菅原社
8、稲岡   熊野社と末社蚕影社と秋葉社
       字中堀の稲荷社
       字稲荷前の稲荷社
9、大鍋
10、下波志江 赤城社および境内末社稲荷社
11、新宿   字伊勢島道上の稲荷社
12、八坂   稲荷社
いまでも小字名以外で使われている名前が有るような。大鍋に記載が無かったり。
そのほか「三郷村では安掘の富士神社へ5社、太田の五郎神社へ2社が合祀された」と有ります。
これについての資料は探せば結構出てくるでしょう。

さて、金田一モニカ さん、コメ、ちょとウケてました。


Re: 波志江町の愛宕神社 - しょうちゃん 2015/01/22(Thu) 22:01 No.2075
金田一鳩助さん
「正解です」説明も親父とぴったしカンカン、言うか親父も聞いた話なのでね、
又聞きって尾ひれとか付いちゃって悪い方へ行く事が多いいので濁らせてしました。

よりみちみさとを知ってるって事は三郷いやいや波志江・・いや2か3丁目と推測しました。
もしかして地元の行事では顏を合わせてたりして・・・
ちなみに去年・今年と愛宕神社で初詣の甘酒を自分らが配ってました。(^0^)V


Re: 波志江町の愛宕神社 - しょうちゃん 2015/01/22(Thu) 22:06 No.2076
愛宕神社の神輿です


Re: 波志江町の愛宕神社 - 丸男 2015/01/23(Fri) 12:39 No.2077
金田一鳩助さん、ミヤサカ・トリートメントシルクソープの効果は着々と(^^;)。

明治の迅速側図に移築前の愛宕神社の位置が記されていること、バッチリ確定ですね。
「ぷうぷうち」さん紹介の波志江村の小字名の「愛宕」もバッチリ裏付けていて、
しょうちゃんのお父さんの記憶ともバッチリ一致して。
皆さんの調査、興味、関心で謎解き解明、一件落着でしたね。

ところで、「ぷうぷうち」さん紹介の波志江町の民俗資料がまた新たな興味の神経を刺激してくれました。

「愛宕神社はもと、中の面と八坂の境の愛宕山古墳の上にあり、社の森が遠くからも眺められたという。
四十八段の石段を登って参拝したので愛宕山というにふさわしく・・・」

この「愛宕山古墳」、全く知りませんでした。
四十八段の石段・・・一段のステップ高を20cmと仮定すると高さ9.6m。
ステップ高を15cm〜30cmの範囲とすれば、7.2m〜14.4m。
ざっと10m規模としても、3階建てほどの高さで周囲から結構目立ちます。
残っていて欲しかった〜。

それと、愛宕神社が明治41年に16社を合祀したとのこと。
伊勢崎市内の神社を調べると、合祀や移築はたまに聞きますが、16社の多さには驚きました。
まして、「三郷村では安掘の富士神社へ5社、太田の五郎神社へ2社」など、外の村にまで出たこと興味深いです。
昔の波志江村の小字の多くに社があったことや明治期の合祀政策、新たな興味が湧いています。


Re: 波志江町の愛宕神社 - ぷうぷうち 2015/01/23(Fri) 22:41 No.2080
丸男さん、自分もコレを読むまで愛宕山古墳というのは知りませんでした。
1946年の航空写真ではすでに平らで畑のようです。備足山と同じように削りとられたのですね。
ただその写真では、円墳もしくは後円部を囲む様にあった道の名残が半円形に見えるような気がします。おそらくお富士山のような山がもうひとつ有ったのだろうと空想します。

お祭りでは、ここに10基の屋台(山車)が波志江中から集まったそうですが山には上がれなかったのではないでしょうか?もっとも屋台が集まるような大祭は数える位しか記録が無いようです。

さて、昨日資料をうつして投稿したあと、別の箇所に目を通すと17社とも30社とも言われる合祀があったと書かれています。物凄い数の合祀ですね。道端で時々目にする祠は合祀前のよりどころだったのかもしれません。

宮貝戸の今宮社は合祀前は今の武士牧場の北、小丘上にあって石段が下から五段、続いて二十段位あったそうです。合祀後も境内にあった石祠7社他が宮貝戸の神様として沼畔に祀られて今に至っています。下沼の北側で遊歩道を歩いていると目にする事ができます。

資料を読むと、各地区で信仰していた土着の神様を(愛宕様へ)つれて行かなくてはならなかった住民の気持ちが行間に漂っていました。


Re: 波志江町の愛宕神社 - 丸男 2015/01/24(Sat) 14:15 No.2083
ぷうぷうちさん、備足山と言う、またまた始めて聞く名前が出てきました(@_@)。
その辺にあった古墳でしょうか?
それと、愛宕神社の権威と言いますか、力と言いますか、想像も含めて当時の立場に想いを馳せると、
何とも言えない存在だったんでしょうね。

宮貝戸の今宮社の石祠7社他が波志江沼(下沼)沼畔に祀られていること、
その場所はサイクリングコースなので、度々通るので知っていたのですが、由緒は知りませんでした。
ただの路傍の石祠とは異なった祀られ方をしているので、何か歴史があるのだろうとは思っていたのですが、
ぷうぷうちさんのおかげで謎が解けました。\(^o^)/
・・・と言うことは、地元に残る石の祠や石碑は、それぞれ調べてみれば、きっと長い歴史を背負っているんでしょうね。
またまたサイクリングで途中停止の機会が増えそうです。


Re: 波志江町の愛宕神社 - ぷうぷうち 2015/01/24(Sat) 18:54 No.2084
丸男さん、備足山(びったりやま)は以前「第二の石山を探せ」のスレッドで軽く紹介させて頂きましたが、どんな山だったのか調べておりません。
第三中学校の南にあった山で大正期から崩し始めて、戦中〜戦後まで崩し続けていたようです。
なので人造の山ではなく流れ山だったのだろうと推測します。
古墳といえば消えてしまった渕名の前方後円墳といい、両毛線建設などの危機を経験しつつお富士山が今まで残って居るのは奇跡的と思えます。良くぞ今日まで、(涙涙)・・・
さて、愛宕神社ですがそこまでして合祀したのになぜ金蔵寺の隣に引っ越す必要が生じたのか?
資料にに行き当たっておりません。
まあ、現在の位置は波志江の中心部に近いので鎮守様としては合理的ではあります。
愛宕神社は神楽殿も新装となっておりますので初詣に限らず是非御参りいたしましょう


Re: 波志江町の愛宕神社 - 鳩ぽっぽ 2015/01/24(Sat) 19:29 No.2085
「備足山(びたりやま)」、懐かしい響きですね〜♪ 仰る通り、2013年10月に「江戸城の石垣」が話題になった時、ぷうぷうちさんが見出した三郷2号公園にある記念碑に書かれていた「石山」!、それは北部環状線から三中に向かう時に曲がる交差点の北西辺りにあった、「備足山」ではないかという説がありました。やはり米軍撮影のものだったでしょうか、航空写真も紹介されてましたね〜。
備足山は昭和10年代にはすでに開発、平坦化が進められたようです。また記念碑には「南に赤坂 西に一丁田 東に諏訪安山岩の備足山を背後に・・・」と書かれてますが、「赤坂山」というのもありました。そこは現在、大胡県道になっているらしく、恐らく先日ぷうぷうちさんが調査に行ってくださった太田町の交差点付近、協和運輸さんの辺りにあったようです。

ところで、本題の愛宕神社ですが、、今日は図書館に行って色々と調べてきました。2階の調査相談室をちょうど担当していたお師匠Kさんが、この掲示板内容も既にご覧ということで、三郷地区の郷土史関係の資料を手際よく用意してくださったから助かります。
本のタイトルはうろ覚えですみませんが「三郷の文化と史跡」とかいう小冊子には、旧愛宕神社があった場所はやはり「愛宕」という小字名が集まった所で、平地にそびえ立つ古墳の上にあった神社に「愛宕」と神社名を冠したようなことが出てました。
一方、ぷうぷうちさんがご紹介の「波志江町の民俗」も置かれてました。かなりシブい本で素晴らしいです!
ぷうぷうちさんがご紹介の通り、「愛宕神社はもと、中の面と八坂の境の愛宕山古墳の上にあり、社の森が遠くからも眺められた・・・」という文が出てました。明治41年に合祀された各社の中にも、「6、中の面 愛宕社」とあるから、中の面にあったことは確かですね!

ということで、「愛宕」と「中の面と八坂の境」・・・
小字名から言って明らかに異なる場所に、きっと二つの愛宕神社があったのではないでしょうか?
両社とも、小高い古墳の上に神社があったということでは共通してますね。
また同名神社が同じ地域に集中して複数あるということも、決して珍しいことではないと思います。
(例としては、森高千里さんの「渡良瀬橋」の歌詞にある八雲神社は、足利の街にいくつもあります。)


Re: 波志江町の愛宕神社 - 丸男 2015/01/25(Sun) 10:21 No.2086
ぷうぷうちさん、鳩ぽっぽさん、その山でしたか。
すっかり記憶から消えていました(^^;)。
その山ならば、まだ全部切り崩す前の姿の記憶がかすかに残っています。
今の市民体育館の南側で、新堀(八坂用水)の少し南側、三中東側の通りの東側辺りにあったように覚えています。
まだ残っていた小山に冒険気分で登って遊んだこともあります。
もう半世紀以上も前の記憶ですが。
ごみが散乱して、ブッシュも茂り、肥溜めの人糞も廃棄していたようで、臭かったことも覚えています。今はすっかり住宅地になっちゃいましたね。


Re: 波志江町の愛宕神社 - しょうちゃん 2015/01/25(Sun) 14:54 No.2089
親父に聞いたら
現愛宕神社から元愛宕神社までの通り(自分の家の前の通り)をやはり屋台は引ってたそうです。
現八坂?(お富士山北側集落)にも屋台は在ったそうですが昔・・・・・で現在は無いだんそうです。
(内情は聞かされてますが・・・・)
って言う事は昔は愛宕神社に集まる屋台は11台在った事ですかね。
ぷうぷうちさんの言ってる、16社のナンバー1〜12が現在の屋台の組名と一致しますね。
7・8は合同で稲間組で1組となりますから、やはり八坂は・・・(T_T)
波志江1丁目3台・自分の2丁目4台・3丁目3台の計10台が現在ですね。


Re: 波志江町の愛宕神社 - 鳩ぽっぽ 2015/03/12(Thu) 21:57 No.2161
しょうちゃん、丸男さん、ぷうぷうちさん、三郷小のHPを拝見致しました。
ひさびさに愛宕神社について投稿させて頂きます。
http://www.isesaki-school.ed.jp/misatosyo/misatohome/
サイト内の「三郷地区の史蹟と伝説」によると、愛宕神社は・・・
「明治42年、愛宕、赤城、七社等、各神社が合併し愛宕神社と称した。最初は八坂全東院西の古墳の上に建立されていた →後に中の面に移された →更に大正2年に現在の所に置かれた。」
というようなことが書かれてます。
「中の面に移された」ということで、ぷうぷうちさんが仰っていたことがばっちり書かれてます!
また、明治初期の迅速側図に出ている小字名・愛宕にあった愛宕神社をこの中に整合させると、合併前の愛宕社ということになりますね。
こちらの「三郷地区の史蹟と伝説」で注目すべきは、愛宕神社は最初はなんと!「八坂全東院西の古墳の上に建立されていた 」といった件です。「最初は」と言っても、時代が何時なのかはっきり特定できないのが残念です。文脈の前後関係から言えば、合併後のお話のようですが・・・
また、おしまいの方の寺院の紹介では全東院の山号が「愛宕山全東院」と出てます。愛宕山と全東院は密接な関係があるのでしょう。
しかし、「三郷地区の史蹟と伝説」の地図では全東院は現在の位置とほぼ同位置なのに、お寺の紹介では所在地は「波志江町八坂」とあるのが引っかかります。小字名・八坂ならもっと東北の北関東道の辺りだったはずですが、その辺のことを是非じもてぃの皆さんにお聞きしたいところです。
そういえば、しょうちゃんが以前、お富士山にも近いこちらの方に「八坂生活改善センター」があったりと仰っていたように思います。現在、「八坂」と呼ばれているエリアは、「小字名・八坂」とはズレているようですね。


Re: 波志江町の愛宕神社 - しょうちゃん 2015/03/13(Fri) 00:09 No.2162
鳩ぽっぽさん
<<お寺の紹介では「波志江町八坂」>>と有るのは間違えで無いと思います。
現在、自分らが使ってる小字名の位置と一致してます。
このお寺の南に在る、前橋の下増田に行く通りの北側(八坂桶へ行く地域)と、波志江のセーブオンからぐるっと回り込み北部環状線に繋がる、
この楕円形状の道路の内側(北)が波志江町に成るんです。
シティマラソンコースを見て貰った方が解るかな?
下増田に行く通りの南側と楕円形の通りの外側(南)で北部環状線の南が安堀町とざっくばらんに見てもらえると納得できるかと。
とすると「八坂改善・・・」も波志江町内で八坂に在るって事になり、問題無?
お富士山(楕円形の通り)もフレッセイ(環状線の通り)も通りの外側(南)なので安堀町って事で・・
北関東道の付近の八坂が通じるのは、70歳以上の方や地元(自分の様に直近)の方と思います。

注意・・注意・・注意
上記記載は自分個人の見解で間違えてる部分が有るかも知れませんのでそのへんはお願いします。


Re: 波志江町の愛宕神社 - 鳩ぽっぽ 2015/03/13(Fri) 22:25 No.2163
しょうちゃん、「波志江町八坂」について、貴重なご説明ありがとうございました!
全東院付近の八坂と、北関東道付近の八坂の違いも解りました。
全東院付近の八坂は、きっとこの辺りが「旧八坂村」だったからなんでしょうね。そう思うと、こちらの方面に「八坂生活改善センター」といった名称の施設があるのもわかるような気がします。
そうすると、(恐らく合併後の)愛宕神社が最初に建立されたのは、現在の全東院西の古墳のあった所ということになりますね。
全東院から八坂大樋にかけてのこの辺り一帯は「八坂遺跡」と呼ばれ、恐らく1973年頃に発掘調査が行われたようです。縄文、古墳〜平安時代にかけての埋蔵文化財が確認され、群馬県を代表する縄文後期、晩期の遺跡として著名だそうです。実は私も中学生の時、ここに土器の残骸を拾いにいったことがありました。
八坂遺跡で特筆すべきは、焼石(しょうど)を中心に約2.5メートル四方に方形に石を配置した遺構が発見されており、その中から土器片やイノシシの頭蓋骨が発見されていることから、ここで祭祀(さいし)が行われたのではないかという説があることです。
現在、全東院の西辺りは墓地、更に道路の西は畑や残土置き場、民家になっているようです。そのまた西は木三橋で、荒砥川、神沢川の段丘上に古代人には絶好のロケーションです。
一方、明治初期の迅速側図に出ている「小字名・愛宕」にあった愛宕神社の付近は文字通り「愛宕遺跡」で、やはり縄文、古墳〜平安時代にかけての遺跡でした。
ちなみに、西から八坂遺跡、新堀遺跡、愛宕遺跡と続き、この辺りもさながら遺跡銀座ですね!


Re: 波志江町の愛宕神社 - ぷうぷうち 2015/03/13(Fri) 23:57 No.2164
しょうちゃん、三郷小のHPリニューアルの紹介ありがとうございます。
意外なところから面白い資料を見ることができますね。小学校、侮れません。
それにしても愛宕様、全東院のところに有ったとは知らなかった。
全東院の山号が愛宕山だったというのも全く存じませんでした。

江戸時代後期に纏められた伊勢崎風土記には話題の愛宕神社が出てきません。
そして祠サイズの愛宕様ならば佐位と那波両郡あわせて14座あると書かれています。この小さな愛宕様のひとつが全東院の西のものか?
それとも愛宕神社は意図的に伊勢崎風土記から消されていたのでしょうか?


Re: 波志江町の愛宕神社 - 金田一モニカ 2015/03/17(Tue) 22:47 No.2167
ぷうぷうちさん、あたいも愛宕神社のルーツをちょっち調べてみたわ。
でも、愛宕神社は「伊勢崎風土記」には出てこないのね・・(ー_ー;)
ちなみに社殿造営記念碑によると、「江戸時代末波志江八景の歌には愛宕山夜雨と題して
愛宕山宮のあたりの雨の音にふりさけ見れば夜半の松風」と
と詠われ、山林三町五反八畝余りの社地の景観が伺い知られます。」
と記されているわ。山林三町五反、、ってとっても広い社地みたいなんだけど・・。

またまた三郷小のHPで、全東院は江戸の享保年間はすでに「愛宕山全東院」だったことも解ったわ。
添付画像(グーグルマップより)は、全東院南の三叉路の角(木三橋に向かう道の手前、阿久津商店さんの脇)にある「経塚」(きょうづか)の写真よ。
HPによると、この「経塚」に「上野国佐位郡伊勢崎邑 小字八坂郷 享保廿年(20年)・・・愛宕山全東八世老前周峰和尚」とか、銘文が刻まれていたようね。
享保(きょうほう)っていうと暴れん坊将軍・吉宗の時代だもの、かなり古くから八坂(やっさか)に愛宕山があったことが証明されたわ♪
その時代に周峰という老僧が中心となって経塚を建てたらしいわね。



Re: 波志江町の愛宕神社 - しょうちゃん 2015/03/18(Wed) 21:51 No.2168
金田一モニカさん
毎日通勤で、ここの丁字路は通ってるのに全く気が付きませでした。
4年前の震災でガソリン不足の時、一時チャリンコでも通っていましたが、
交差点脇と言う事もあって、安全運転に気が行く為中々下を見ませんでしたからね。
通勤時間帯は、特に交通量が多く成るし、信号も無いし「暗黙の了解的な」な車の動きになる為
通勤時に一番緊張する交差点(丁字路)なんですよね。
明日は見ようかとは思いますが、安全運転が優先しますからね、残念になると思います。


Re: 波志江町の愛宕神社 - ぷうぷうち 2015/03/19(Thu) 23:13 No.2169
金田一モニカさん、
八坂の愛宕社の名残があるなんて、それをストリートビューで見つけてしまうなんて
いやはや、びっくりですよぉ。
しかも、しょうちゃんと同じく「何度も通るところなのに、ねぇ〜?」って感じです。
次の通行時に注意してみて見ます。


Re: 波志江町の愛宕神社 - 金田一モニカ 2015/03/20(Fri) 19:45 No.2170
しょうちゃん、ぷうぷうちさん、レスとってもうれぴ〜(死語?)わ!
三郷小のHPによるとこの三叉路の角は昔、ガソリンスタンドだったそうね。きっと田舎の小さなGSね。
「経塚様」と言ってここで毎年3月と7月の8日に、八坂組内の当番が出て経塚の周りに燈篭を立て蝋燭を灯して念仏を唱えた・・とあるけど、現在も続いているのかしら? 写真を見るとあんまりやってる空気じゃないわね。
経塚(きょうづか)と言われるように、かつては墳丘状に土で覆われて塚になっていたらしいわ。

ところで、問題の「愛宕山」ですが、、(汗) 山号って、例えば「比叡山延暦寺」と言うように本来はお寺の所在する山の名前を冠するわけで・・やがて平地にあるお寺でも「○○山○○寺」と呼ぶようになったのよね。
「愛宕山」が本当に山だったかどうかはっきり解らないけど、全東院西に古墳があったことは確かよ!そうだったわ、最初の愛宕神社はその古墳の上に建てられたんだったわ。
またまた、ぷうぷうち先生によれば、、後に移転した愛宕神社も、えっ!>中の面と八坂の境の愛宕山古墳の上にあり、社の森が遠くからも眺められたという・・・から、またも「愛宕山古墳」という言葉がつきまとい、、これも八坂(やっさか)のたたりかしら?? 
更に、明治初期の迅速側図に出ている「小字名・愛宕」にあった愛宕神社、そこも古墳の上にあったから、これを入れたら三つ巴で・・・愛宕=古墳の組み合わせ、三つの愛宕山?はいったい何を意味しているのかしら? うふふ。謎が謎を呼んでるわ。



Re: 波志江町の愛宕神社 - 金田一モニカ 2015/03/20(Fri) 22:25 No.2171
「愛宕山全東院」を、戦後の米軍空撮写真で見たらこうだったわ。(添付画像あり)
イ、木三橋
ロ、全東院西の雑木林、或いは山(愛宕山?)であったか? ここに古墳と愛宕神社があったと思われる。
ハ、現在の三叉路、経塚のある辺り。かつてはここでカーブする道はなく、南から北のお寺に向かうとドンツクだったと解るわ。現在の道路に沿って南北に花壇があるの・・その花壇の西側が古い道で突き当たり(正面)はちょうど経塚になってたと思うわ。ドンツクを西に向かえば木三橋。東に向かえば現在の緑風苑商品センターさんの敷地北を通り、左折して、やさか食堂さんの前に出る道がこの空撮写真にある旧道らしいわね。
ニ、全東院本堂と思われる建物。
ホ、八坂大樋跡
ヘ、旧八坂用水。(当時はまだ残っていた)



Re: 波志江町の愛宕神社 - ぷうぷうち 2015/03/22(Sun) 09:51 No.2173
金田一モニカさん、愛宕社は伊勢崎風土記では14座という事ですからいっぱいあっても良いと思います。
但し「中の面と八坂の境の愛宕山古墳の上」と言われている場所は迅速図の愛宕神社を指しています。
小字の地図を見ると色々惑わされますが大字(現在の組名)では「中の面と八坂の境」で考えると自然に迅速図どおりと解釈できます。
というわけで八坂絡みで登場する愛宕山は2つですね。
また、「波志江町の民俗」では全東院は「愛宕山全東院龍水寺」と記されていました。現在お寺の額とか看板に標記があるのでしょうか?


愛宕神社のプロセス - 鳩ぽっぽ 2015/03/22(Sun) 21:53 No.2175
ぷうぷうちさん、
>「中の面と八坂の境の愛宕山古墳の上」と言われている場所は迅速図の愛宕神社を指しています。
ええ〜っ、そうだったのか〜〜!(@_@)今まで「小字名地図」に、すっかり惑わされてました。。
例えば地図の「中の面西と八坂前の境」の辺りを、米軍空撮の写真で何か痕跡はないものかと一生懸命探したりです・・・(そこには田んぼしかありませんでした。)

今まで各資料から出てきた内容を少し整理しますと、
一、「波志江町の民俗」によると、>愛宕神社はもと、中の面と八坂の境の愛宕山古墳の上にあり、社の森が遠くからも眺められたという。四十八段の石段を登って参拝したので愛宕山というにふさわしく・・・云々
一、「三郷の文化の記録」という小冊子には、旧愛宕神社があった場所はやはり「愛宕」という小字名が集まった所で、平地にそびえ立つ古墳の上にあった神社に「愛宕」と神社名を冠したようなことが出てました。
一、地元にお住まいの、しょうちゃんの御父君のご記憶によると>現在の地図と合わせた上の古地図(小字名地図)で言うと「愛宕」と書いて有る愛の文字付近に小高い山が在ってそこに神社が在ったと聞いている。
一、「愛宕神社社殿造営記念碑」によると>「愛宕神社の由緒は古く、波志江村字愛宕山の古墳山頂に祀られた火産霊神として、愛宕大明神と称され、大人六人で抱えると言われたご神木は、遠く前橋野中村からも見え、旅の帰りに利根を渡ると愛宕の森が見え、ほっとしたと古老から聞かされてきました。」

・・・といった具合で、旧愛宕神社は小高い古墳上にあったことや、その森は遠くからもよく眺められたこと等で大方一致してましたね。
しかし、「小字名地図」をもとにして考えた場合・・「愛宕」と「中の面と八坂の境」という相異なる場所に浮かんだまるで双子のような二つの愛宕山??
あたごも、(洒落を言ってる場合でありませんが、汗。)あたかも、それはアナログ式カメラのレンジファインダーを覗いて見える黄色い二重像のように・・二つの山が並んでました。
今回、ぷうぷうち先生の解釈で、>大字(現在の組名)では「中の面と八坂の境」で考えると自然に迅速図どおり、、ということで、やっと二つの愛宕山がぴったり一致してフォーカスが合いました!!
大字(現在の組名)で考えると違いがあるんですね!実は、しょうちゃんも丸男さんも解っていて、解らなかったのは自分だけかもしれませんが・・・(汗)

そうすると、三郷小のHPにあった愛宕神社のプロセスは、
>最初は八坂全東院西の古墳の上に建立されていた →後に中の面に移された(迅速図の愛宕神社もここ) →更に大正2年に現在の所に置かれた
ということも辻褄が合ってきました! これを時代で語れば・・・
→経塚に「愛宕山全東(院)」と刻まれていたことから、江戸時代享保年間にはすでに全東院西にあったのでしょう。
→迅速図の明治初期は中の面、>また明治10年(1877)村社に列せられる。
→明治41年1月、境内末社及び、波志江無格十七社が合祀される。
→そして大正2年(1913)秋、遷宮。恐らく旧社殿(本殿、拝殿、幣殿)ごと中の面から現在地に移築?その際、新たに神楽殿(現存している)を造営。
→平成9年(1997)以降、新社殿竣工。
といった運びになるんじゃないかと存じます。


祝・「伊勢崎市の文化財と石碑」... 投稿者:鳩ぽっぽ 投稿日:2015/03/21(Sat) 22:02 No.2172    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
「伊勢崎市の文化財と石碑」を拝見致しました。「伊勢崎市の文化財と石碑」は私のような郷土史愛好家にとって、眼から鱗の本当に素晴らしいデータベースです!(@_@)
郷土史家の新船直孝先生は、元赤堀歴史民俗資料館の館長さんですね。
新船先生の「伊勢崎市の子供たちに対して、伊勢崎市の歴史を誰が責任をもって伝えるのか」という言葉・・カッコいいし、何よりいい言葉ですね〜!!
1970年代、小学生だった頃に「伊勢崎歴史散歩」を手に、友達と自転車で史跡巡りをした頃が懐かしいです。
またまた、故人、橋田友治先生の貴重な写真資料もしばしば登場し、丸男さんのGo!伊勢崎さんでのネット公開も併せて、これはデジタル時代の現代、橋田先生のご意志を引き継いだ貴重な作業なのではないかと感動してます。まさに「伊勢崎市の遺産」とも言えるインターネット・データベースだと思います!!
うちのパソコンでは「伊勢崎市 石碑」で検索すると、もう2番目に「伊勢崎市の文化財と石碑 - Go!伊勢崎」が出てます! 今後、利用させて頂くのも楽しみですね♪
新船先生、丸男さん、ありがとうございました。m(_ _)m

Re: 祝・「伊勢崎市の文化財と石... - 丸男 2015/03/22(Sun) 12:15 No.2174
鳩ぽっぽさん、こんにちは。
「伊勢崎市の文化財と石碑」を早速にご覧いただき、ありがとうございます。
一昨日も新船さんのご自宅にお邪魔して、あれこれとお喋りして来ました。

殖蓮地区の耕地整理と、豊受や宮郷地区の耕地整理とはその必要性の背景が異なると思われる見解、
殖蓮地区の耕地整理は、絹産業の衰退と水利に恵まれなかった殖蓮地区と関連があると予想されること
また、血洗島・渋沢栄一と伊勢崎の細野家、星野家との家系のつながり(試論)など、
興味深い話を聞くことができ、新船さんが調べた史料・資料などもお預かりしました。

私のPCでも「伊勢崎市 石碑」で検索すると、2番目に表示されています(^o^)。

ウェブ用に編集終了したのは、まだ数パーセントです。
リンク先や画像・表示スタイルなど、まだまだ不備があるかと思いますので、色々とご指摘ください。

公開開始に際して、一昨日、新船さん自身からもお礼の言葉をいただきました。
新船さんが長年月をかけてコツコツと調べ尽くした努力に比べれば、
私の作業は微々たるものですが、とても嬉しく、編集のパワーをいただきました。

新船さん自身はあまりインターネットを利用されていないので、時々は直接会って話を伺ってきます。
何か新しい話題があれば、お知らせください。


新県道名! 投稿者:雪 夫 投稿日:2015/03/14(Sat) 13:18 No.2165    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
今日の上毛新聞に「伊勢崎市柴町の県道綿貫篠塚線交差点で交通事故」
県道綿貫篠塚線?聞いたことない 調べてみましたら↓

東毛広域幹線道路開通により国道354号が一本化され、国道指定解除になった区間である

群馬県道13号前橋長瀞線綿貫町交差点から佐波郡玉村町市街地、伊勢崎市境町市街地、太田市尾島町
市街地、邑楽郡大泉町市街地を経て国道354号(東毛広域幹線道路)篠塚交差点に至る。
綿貫町交差点-伊勢崎市境栄交差点区間は日光例幣使街道でもある。

○起点: 高崎市綿貫町(綿貫町交差点、群馬県道13号前橋長瀞線)
○終点: 邑楽郡邑楽町篠塚(篠塚交差点、国道354号(東毛広域幹線道路))

県道142号 綿貫篠塚線 なんともなじめない--;「わたしのせん?」
なんかおかしい 当分の間は「旧354」ですかね^^;


Re: 新県道名! - 丸男 2015/03/14(Sat) 19:55 No.2166
雪夫さん、旧354号が県道綿貫篠塚線ですか(ー_ー;)。
馴染めないですね〜。

「前館線」にならって、「高邑線」ってのもピンとこないし。
いっそ、例幣使やら何やらをキーワードに名前を公募するとか。


八坂用水(2) 投稿者:丸男 投稿日:2015/02/20(Fri) 10:48 No.2150    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
ぷうぷうちさん、鳩ぽっぽさん、しょうちゃん、皆さん、こんにちは〜(^o^)。
八坂用水については、様々な貴重なご投稿、ありがとうございます。
皆さんの投稿に、私の対応が追い付けなくて、申し訳ないです。

ところで、八坂用水のスレッドが長くなってしまったので、
八坂用水(2)として新スレッドを起こしました。
もっと早くに対応すれば良かったのに、すみません。m(_ _)m

Re: 八坂用水(2) - 丸男 2015/02/20(Fri) 10:54 No.2151
それと早速なんですが、元図書館職員の新船さんから、
「八坂用水資料目録」をお借りし、コピーを手元に控えてあります。
全62ページの資料で、まだ目を通し切っていません(ー_ー;)。
必要に応じて適宜紹介させていただきたく思っています。

まずは「八坂用水関係年表」だけでも紹介したいのですが、
これもまた編集するとなると結構ヘビーなので、時間がかかりそうです。のんびりとお待ちください。


Re: 八坂用水(2) - しょうちゃん 2015/03/02(Mon) 21:49 No.2155
丸男さん
陸上競技場南入り口に「八坂樋を造った小畠武堯の顕彰碑」が在ったんですね(@_@)
自分も碑が立っているのは知っていたんですが、記事までは気に留めてませんでした(^_^;)
そうそう、30数年位前は八坂用水もオープンでしたよね。
自分らは三郷小前の用水や横の川では、学校帰りとかに釣りもしましたからね。
三中時代は体育の授業でボールが八坂用水の方まで飛んでしまった時は、散々な目に遭いましたかね。
伊商高もこの付近で、現伊勢崎第二体育館は元は、伊商高の体育館でしたしね。
伊商高と八坂用水の間はうっそうとした林だった様な気がしますし、林の中?に(用水側を向いて)何かのお店も在った様な・・
あっ、もしかして北部環状線の一部開通も八坂用水の歴史に関わって来るのかな?


Re: 八坂用水(2) - 丸男 2015/03/03(Tue) 09:47 No.2157
しょうちゃんは、三中なんですね。若い(^^;)。
私の時代は丘の上の三郷中学校でした。
三階建て一棟の木造校舎で、体育館もなくて、雨の日の体育の授業は廊下で器械体操だったり。
講堂もなかったので、卒業式は、一階の教室と教室の間の壁を取り外して広げてつくりました。

でも、あれこれ恵まれ過ぎている現在よりも、モノの有難さを知ったり、貴重な体験ができました。

旧伊商の敷地は高いカシグネで囲まれていたように覚えています。
旧伊商の北側から八坂用水にかけては、校舎の陰になるせいか、
巨木なども植わっていたせいか、暗いイメージが残ってます。
現在の姿からは想像が付かないです(ー_ー)。


Re: 八坂用水(2) - 鳩ぽっぽ 2015/03/04(Wed) 22:05 No.2158
丸男さん、総合運動場南入口に「八坂樋を造った小畠武堯の顕彰碑」が在ったんですね(@_@)
私も、しょうちゃんと同じリアクションでした(^^;)。ここは毎年、仕事で出張していた所で今を思えば何の碑かな〜?と覗いたこともありましたが、まさか小畠武堯の顕彰碑だったとは!すっかり忘れてました。
一世一代身命賭けた大工事を成し遂げた、小畠武堯にふさわしいドラマチックな撰文ですね! またまた、丸男さんの横書き転記が読みやすく書体も綺麗ですね!
誤転記について連絡いただければということでしたので、タイトルの「八坂用水開撃功労者」の「開撃」ですが、碑では「開鑿(かいさく)」になってますので、碑の通りかまたは「開削」でいいんじゃないかと思います。m(_ _)m

画像は現在も華蔵寺公園内に残っているはずの旧い方の「小畠武堯頌真碑」、大正元年の除幕式の記念写真です。(画像は「ふるさとの想い出写真集、伊勢崎」より)
昭和の顕彰碑の中で、「伊勢崎町長従六位勲六等大野和信氏が筆頭者となり、三郷村長横堀八十吉氏、茂呂村長大沢啓太郎氏等と協力、建碑推進委員会を結成。子爵酒井忠一氏に篆額を請い「頌真碑」を華蔵寺公園に建立し・・・」と書かれているのがこの碑のことですね。
集合写真の人物も伊勢崎町長、三郷村長・・といった錚々たるメンバーなのでしょう。右側の碑の上部にうっすらと右から読んで「碑真頌」と、酒井忠一氏(お殿様の末裔なのでしょう)による芸術的な篆額(てんがく、題字)も確認できます。
藩政時代にも藩主・酒井忠温侯が小畠氏を追慕して、恐らく家老・関重巍(せき しげたか)が撰文を考えていたようですが、、建碑は「故ありて果さず」・・・
この「故ありて」というのが何なのか謎ですが、当時の用水工事というものは毀誉褒貶(きよほうへん)、ほめることけなすこと世の中のさまざまな評判があったようで、残念ながら碑の実現に至らなかったのでしょう。
(ちなみに上野国では最も有名な岡登用水を開削した、代官・岡登景能(おかのぼり かげよし)にしては色々あって島流し、挙句の果てには綱吉の時代になると切腹を命じられたというから悲惨です)
大正元年完成の碑は、八坂用水完成の宝永3年(1706年)から実に206年後にやっと建てられたわけです。
それから再び73年後になるでしょうか、1985年、総合運動場南入口に建てられた「小畠武堯顕彰碑」は堂々としたもので、偉大な先人の歴史はきっと22世紀の子供たちにも伝えられてゆくのでしょうね!! 



Re: 八坂用水(2) - 丸男 2015/03/04(Wed) 23:10 No.2160
鳩ぽっぽ さん、良く探してくれました(@_@)。
ありがとうございます。
「鑿」の漢字、全文の中に何ヶ所かあって、注意したつもりでしたが、
肝心のタイトルのところを見落としました(^^;)。

石碑の裏面もあるのですが、転記作業にちょっと息切れで。
その内にまた掲載します。


八千代橋の名前の由来 投稿者:金田一モニカ 投稿日:2015/03/01(Sun) 19:44 No.2154    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
丸男さん、こんばんわです〜。
東上之宮町の名もなき小さな橋「八千代橋」命名の由来、、あたいもちょっと考えてみたわ。
でも、「共同橋」と言うのもあったけど、今回の謎解きほど普遍的、抽象的な概念?を扱う作業は困難を極めたわ。
またまた、あたいが無い知恵絞って考えてみたら、「8」という数字が沢山、あたいの脳味噌の中を駈け巡っていたの・・・
「八千代」とは、八千年。極めて長い年月。或いは永遠・・。
「千代に八千代にさざれ石のいわおとなりて・・」と「君が代」でも歌われるように、この橋は何らか天皇家と関係があるのかしら?? ちょっと飛躍しすぎ?問題発言?。(汗)
下を流れる韮川放水路の左岸は、宮古町。そうそう、この橋の周りは東・西上之宮、宮川や「宮」という字が付く所が多いわね。
橋の東方約300メートルの所には「八幡宮」があって、八幡宮は武運の神として八幡太郎義家(はちまんたろう よしいえ)で名高い清和源氏(せいわげんじ、清和天皇をルーツとする)はじめお武家の崇敬を集め、祀られている「八幡神(やはたのかみ)」は誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされるそうよ。
「八」とは数が多いことの例えでもあり、「やはた」とは数多く散らばった「秦(はた)氏」を意味しているといった説もあったわ。いにしえの伊勢崎、佐位郡(さいぐん)に養蚕、機織りを伝えたといわれる秦氏と恐らく関係があったと思われる神社が、近くにある上之宮・倭文神社(かみのみや・しどりじんじゃ)というのも面白いわ。
Go!伊勢崎さんでも以前に紹介されたように、韮川放水路は下流で宮川となって倭文神社の横を流れているわね。そこには「明神橋」というのもあったわね。
そして現在は、伊勢崎の上之宮と玉村町の下之宮・火雷神社(しものみや・ほのいかづちじんじゃ)の間には利根川が流れていて伊勢玉大橋で結ばれているけど、中世の時代は上之宮と下之宮は地続きになっていた。詳しく言えばその間をもっと小さい川、榛名山水系の「八幡川(はちまんがわ)」が流れていた事が解ったわ。

それから、中世に著わされた「神道集 (しんとうしゅう)」第八巻にこの上之宮と下之宮にゆかりのある「那波八郎(なわ はちろう)」という武者が出てくるわ。「上野国那波八郎大明神事(こうずけのくに なわはちろう だいみょうじんじ)」からちょっと長いけど引用させて頂くわ・・・

人皇四十九代光仁天皇の御代、上野国群馬郡の地頭は群馬大夫満行といった。息子が八人いたが、八郎満胤は容貌美麗で才智に優れ、弓馬の術にも長じていたので、父の代理で都に出仕していた。父満行は八郎を総領に立て、兄七人を脇地頭とした。
父満行が亡くなり三回忌の後、八郎満胤は上京して三年間宮仕えに精勤し、帝から目代(国司代理)の職を授かった。七人の兄は弟を妬み、八郎に夜討ちをかけて殺害し、屍骸を石の唐櫃に入れて高井郷にある蛇食池の中島の蛇塚の岩屋に投げ込んだ。
それから三年後、満胤は諸の龍王や伊香保沼・赤城沼の龍神と親しくなり、その身は大蛇の姿となった。神通自在の身となった八郎は七人の兄を殺し、その一族妻子眷属まで生贄に取って殺した。
帝は大いに驚いて岩屋に宣旨を下し、生贄を一年に一回だけにさせた。大蛇は帝の宣旨に従い、当国に領地を持つ人々の間の輪番で、九月九日に高井の岩屋に生贄を捧げる事になった。

・・・このお話はまだ続きがあるんだけど、この辺にしておこうかしら。
というわけで、、七人の兄たちに殺害された那波八郎は、その恨みから大蛇になって現れて兄たち一族に復讐を果たした。時の帝(天皇)はその大蛇を恐れて、大蛇の住む岩屋に生贄を捧げる事になったという物語のようね。
こんなことを探っているうちに出会ったサイト「やぐひろネット」さんの「歴史解明のための考古学」では、なんと!大蛇と化した那波八郎、その正体は、、古墳時代に激しい火山活動をしていた榛名山二ッ岳の噴火だったわ。特に6世紀前半の伊香保噴火に伴う洪水堆積物によって、現在の伊勢崎市南西部の田畑も壊滅的な災害を被ったそうよ。
現代だって震災の津波のように自然災害を相手に人はなす術はないわね。昔の人々に取ってはそれは尚更のこと。この辺りでは榛名山の火山災害が恐れられ、那波八郎のようにそれを祭神として祀って畏怖、畏敬?の念を抱いたのだと思うわ。
詳しくはこちらの「やぐひろネット」さんの「歴史解明のための考古学」をご覧になって。
http://www.yaguhiro.net/GandA/110806/08064.html

やぐひろネットさんでも言われているように、「科学が進歩しなかった古代において身近な災害は、総て神のなせる技でしょう。その自然営力や規模が大きいほど、その地域の社会に与えた精神的な影響は大であると思われます。こうした観点では神話に登場する八岐大蛇は3世紀頃の気象災害、八郎太郎は10世紀に北東北を襲った大規模な火山災害が起源だと思います。なぜ、このようなものに共通して「八」を使うのか何か意味があるのに違いありません。」

いにしえの上野国の那波八郎、八郎の祀られた上野国八宮の下之宮、八幡川、宮古の八幡宮・・・「八」といえば「八百万の神」とも言ったわね。
丸男さんが去年の夏に「ゴジラ」を見にいってご感想を書かれてましたが、、>・・・そして、肝心のゴジラの立場は? 今回は、何と、ゴジラが・・・・。おっと、答えを言ってしまうと、営業妨害になりますので、この辺で。
とありました。あたいはまだ新しい「ゴジラ」を見にてないんだけど、もしかして近いものがあるような予感もするわ。
かなり長くなってしまったけど、、八千代橋、その命名の由来は、この辺りに伝わるこうした背景、自然や、悠久の歴史の流れをこめて、「八千代橋」と名付けたんじゃないかしら?
ところで、こういった小さな橋の名前はどちらで付けられるんですか? ぜひぜひ命名した人がいらっしゃったら聴いてみたいわ!

Re: 八千代橋の名前の由来 - 丸男 2015/03/02(Mon) 22:33 No.2156
金田一モニカさん、八千代橋の名前の由来の謎解き、面白い展開でした。
未来永遠に続け・・・との願いを込めての八千代橋。
周辺に「八千代」を冠とする何かが見つかればいいのですが、
そうでなければ、そんな意味かも知れませんね。

橋の名前は大きな橋は公募などもするようですが、中小橋梁はそこまでしないようです。
解析や設計には三桁以上の橋梁に携わりましたが、命名に関与したことは一度もなくて
(いつも役所側から指示されていたので)、何とも分かりません。
役所で決めるのかも知れませんね。地元の区長や議員にでも相談するのかな?


「徳江製糸所の煉瓦隧道」 投稿者:鳩ぽっぽ 投稿日:2015/02/13(Fri) 21:33 No.2132    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
丸男さん、「徳江製糸所の煉瓦隧道」の素敵な記事を拝見しました。
70年代の子供の頃は自転車でこのトンネルを通らせて頂いて、崖下の児童公園やタネンブチの方に遊びにいった思い出があります。
まさに知る人ぞ知る謎の隧道で、伊勢崎町の近代化遺産、徳江製糸所の貴重な痕跡だと知っている人は余程の事情通か、かなりの郷土史マニアックな人ですね!
最近は「伊勢崎城、最後の遺構」の現地調査に行った際、たまたまトンネル出口の真上にいる自分に気づきました。。(汗)私有地でしょうから、余りトンネルには近寄れないような空気でした。
県のサイトでは隧道とともに、「この階段の上には社員食堂があり、その下には石炭置き場があったという。現在は、使用されていない。」といった階段跡も残されているようですね。

画像は「ふるさとの想い出写真集・伊勢崎」からのもので、徳江製糸工場内の様子です。これを見ただけでも富岡の世界遺産!を思わせるような光景です。現在の東毛漁業協同組合の池の辺りが当時の工場跡地だったと言われてますね。
またまた、丸男さん撮影の煉瓦隧道のお写真は眺めているとタイムスリップして・・崖上の寄宿舎から工場まで、毎日この隧道を通って働いていた可愛らしい工女たちの歌声♪が聴こえてきそうです。
寄宿舎は「徳江製糸所の丸窓」と言われ、三角屋根の下に丸い窓が三つ横に並んだハイカラな建物でした。その丸窓が夕暮れの広瀬川の川面に映った光景もまたロマンチックで、中で暮らしている工女たちに思いをはせる、当時のいっさきの若人達にとっては憧憬だったそうです。
一方で富岡と同じように、遠い地方から希望にあふれて伊勢崎町に就職してきた工女たちでしたが、異国の地で切なく無念の死を遂げた者もあったようです。
彼女たちのお墓は三ツ家橋の袂を西に下った墓地の中に、現在も明治25年から39年に亡くなられた10基のお墓が並んでいるそうです。

ちなみに、徳江八郎氏は1870年(明治3年)に民部省を通して富岡に赴き、尾高惇忠、ポール・ブリュナに面談し製糸場の利害について論したようです。明治6年には伊勢崎町において近代製糸企業の草分けとなる共研社の設立しているので、それは富岡製糸場創業の翌年という個人としてはかなり早い時期に始めてますね。最初に徳江八郎氏が工場を始めたのは、たまたま先日の桐生新町道のスタート地点とした付近でしたが、あいにくそこは火災に見舞われてしまったようです。
しかし明治12年には広瀬川畔に新工場を建て、それはしだいに大規模化していって彼の情熱と不屈の精神は伊勢崎町の工業近代化を邁進させていったのでしょう。


Re: 「徳江製糸所の煉瓦隧道」 - 丸男 2015/02/14(Sat) 17:40 No.2134
鳩ぽっぽ さん、徳江製糸場の貴重な写真のアップ、ありがとうございます。
あのトンネルを通って広瀬川へ遊びに行った子どもの頃のこと、楽しく懐かしい想い出ですね。
工場は消え去りましたが、当時ここに徳江製糸があったことを伝える貴重な建造物、
あのトンネルをくぐって、広瀬川緑歩道をつなぐ遊歩道でも整備されるといいのですが。


Re: 「徳江製糸所の煉瓦隧道」 - 鳩ぽっぽ 2015/02/25(Wed) 22:37 No.2152
丸男さん、善應寺の小畠武堯の墓がGo!伊勢崎さんで紹介されて良かったです!
私は先月に同聚院側からおなべっ川を挟み、高い崖上にあるその辺りを眺めてました。
最近は三ツ家橋袂を西に下った墓地の中にある、徳江製糸所の工女たちの墓に行ってみました。
辛抱地蔵という新しいお地蔵さんの横に、古いお墓で徳江製糸工女、春子の墓、元子の墓、節子の墓はじめ、明治半ば頃に亡くなられたという10人の工女たちが眠っています。
かつての伊勢崎の町でも、富岡製糸のように工女たちが働いていたことが実感でき感動がありました。同時に、異国の地で若くして亡くなり故郷にも帰れなかった、彼女たちの無念さもこみ上げてきます。(泣)
もしまだお出掛けでなかったなら、ぜひぜひ彼女たちを訪ねてやってください。
この墓地は昔はかなり荒廃してましたが、この付近は何年か前に盛土されて一段高い素敵な住宅地になってしまいました。それに伴い墓地も綺麗にしたものと思われます。
図書館方面から歩いたら広瀬川緑歩道を確か、うぬき公園まで通しで行けたでしょうか?そのお散歩途中にあるいい場所です。できれば煉瓦隧道もお散歩コースに入れられたらバッチリですね!

余談ですが、この墓地の崖上、ハローワークの駐車場西辺りはかつて「薬師山」と呼ばれてましたが、ハローワークの奥の方の駐車場の隣にどちらかのお宅の墓所があります。画像の迅速側図によるとその辺りが昔の薬師堂の跡地のようです。
しかし、先日その墓所脇の小道を更に西に向かった所に、なんとお堂がありました。お堂にはかなり草書体で「堂師薬」とあるようにも見えますが、私は書道はわからないのではっきり特定できません。
何のお堂なのかは調査中です。



Re: 「徳江製糸所の煉瓦隧道」 - 丸男 2015/02/26(Thu) 09:33 No.2153
鳩ぽっぽさん、徳江製糸の工女の墓ですが、場所は知っているのですが、お墓参りをしたことはありません。

広瀬川緑歩道から「うぬき公園」までつながるラブリバーのコースは、あの辺を移動するときに利用しています。
菜の花、ハナダイコンソウ、ユキヤナギ、左岸側の木立ち、センダン、ヒガンバナ・・・「Go!伊勢崎」に何度も登場していただいています(^o^)。

お墓の西側は、現在は高く盛り土して宅地造成され、住宅が建っていますが、
それ以前は、葦が茂る人気のない場所で、中古車を取り扱った?物騒な小屋(店?)がありましたね。

今は更に平釜川合流部の西側も新たに宅地造成が進み、家が建ち始めていて、昔の雰囲気はなくなりました。

更に西方には果樹園があって、たまに東京方面の車が停まっているのを見かけます。
手入れをしている人の車なのでしょうかね?さしずめ、週末農園でしょうか。

今は更に、三ツ家橋の北詰の道路脇も盛土が進んで、某不動産屋さんの看板が立ちましたね。
お墓が高盛土の狭間に隠れて益々見えなくなります。
ここ十年ほどで、大きく変わりました。


煉瓦隧道 投稿者:あおば 投稿日:2015/02/14(Sat) 14:34 No.2133    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
丸男さん、しばらくです(*^^)v
徳江製糸所の煉瓦隧道いいですね〜。実は、私がこの場所を知ったのは、2013年の3月です。
たまたま自転車で走ってて、このすぐ近くのお宅がとても雰囲気のある感じで、門の前に家の方が
いらしたので「ステキなお庭ですね」と言って声をかけると、「良かったら中へどうぞ」と言って
くださり、中に入ると軽井沢に来たような、雑木林に囲まれてとても気持ちの良い空間で、
すっかり気に入りました。写真も撮らせてもらい、その後、椿・梅・桜・蝋梅・マンサク・
ハクモクレン・ボケ・ハナズオウ・藤・かりんの花・牡丹などなど季節ごとに伺い楽しませて
いただきました。
この時近くを散策してこの「煉瓦隧道」を発見。すぐ思ったのは、どうしてこの場所にと
不思議でした。その後も何度も見に行き、つい最近も又行って来ました。
このサイトで、このお宅が「避病院」のあと地に建てられたと知り、驚きました。
本当に歴史を感じますね。

Re: 煉瓦隧道 - 丸男 2015/02/14(Sat) 17:56 No.2135
あおば さん、お久しぶりです。
徳江製糸所の煉瓦隧道、訪れてたんですね。
>このすぐ近くのお宅がとても雰囲気のある感じで・・・
ひょっとしてトンネルの北方の坂道をグルリと回る所にあるお宅でしょうか?
そのお宅とすれば、私も通る度に「どんな方が住んでいるんだろうか?」と羨望の気持ちで通り過ぎます。
あおばさんが仰るように、軽井沢の別荘地のようで、
市中に近距離なのに、別世界が広がっている感じです。
屋敷周りの木々の風景がいい感じで、
広瀬川の右岸側を走っている時に、赤城山を背景に時々写真を撮ります。


Re: 煉瓦隧道 - 丸男 2015/02/14(Sat) 18:11 No.2136
写真を探しましたが、キクイモが主役ですが、こんなのが出てきました。
紅葉時期に撮ったのもあったはずなんですが、見つかりません(^^;)。
この写真の右側の林の大半がこちらのお宅の樹木です。



Re: 煉瓦隧道 - あおば 2015/02/14(Sat) 19:51 No.2137
丸男さん、ひょっとして、ひょっとです(@_@;)(^^♪
そのお家です。桜の時期は、坂の所に枝が垂れ下がり、それは綺麗ですよ。
1千坪もあるとの事で、門からイチョウの木が両側にあり、庭に入ると大木のプラタナスなどが
何本もあり、夏は涼しくて、エアコンは不要とのお話でした。木道を歩いて家の中に入るように
なってます。このステキな庭を見ながら食事をしたり、お茶を飲んだりと本当に羨ましい限りです。
私も何回か、写真を撮りに伺う内に、親しくさせていただき、その都度お茶の接待にあずかり、
幸せです。普段は木に覆われて見えませんが、冬になり葉が落ちると、洋館のお洒落な家が右岸側の
サイクリングロードからも見えますよね。土地は、同聚院の土地と言う話しでした。


Re: 煉瓦隧道 - 丸男 2015/02/14(Sat) 21:57 No.2139
あ、やっぱり。
門のイチョウの木、以前「紅葉・イチョウ」のページで掲載させていただきました。
自宅の庭で春夏秋冬の自然の風情を楽しめること、本当に素晴らしいです。
あおばさん、いい方とお友達になれて、良かったですね。(^o^)
春の桜、覚えてられたら、今年の桜シーズンに訪れてみます。└(^o^)┐



Re: 煉瓦隧道 - 鳩ぽっぽ 2015/02/16(Mon) 22:20 No.2144
丸男さん、あおばさん、こんにちは。
私が子供だった頃の昭和40年代、児童公園の北は赤い屋根の老人ホームでした。公園から道路を隔てた所に、なぜか崖上の庭に通うじる階段とそれに沿って滑り台がありました。現在は素敵な個人様邸ですが、その階段と滑り台は現在も残っていると思います。
ある日、それが子供ながらにとても興味深く階段を上った途端、目の前の庭の藤椅子に坐った綺麗なお婆様と目が合ってしまい、そのまま後ずさりして階段を下りたような記憶があります。(汗)
いまでもこの辺りは、さながら堀辰雄の「美しい村」の世界のようで憧れです。

そこは老人ホームの前、明治時代は避病院だったのでしょう。因みにその裏、現在の県営住宅2棟の土地は一段低くなっていて、戦前は「小池」と呼ばれる沼でした。
その辺りは「おなべっ川」も流れこむ窪地になっていて、同聚院の墓地に行っても西方面の墓地が途中からなだらかなスロープで低くなっているのがよく解ります。
現在の同聚院の境内のほとんどは、中世の城館であった赤石城だった様子でかつては「赤石山同聚院」とも称していたようです。
またまた同聚院について、あおばさんがおっしゃっていたことを裏付ける面白いことが郷土史の本に書かれてましたが、中世の時代、同聚院はなんとその窪地の奥辺り、県営住宅付近にあったようです。
でも、お寺が建つ場所は低い所よりもどちらかと言えば高い土地でしょうから、ひょっとして元の老人ホームの所が?・・・なんて勝手に想像しちゃってます。

http://www.go-isesaki.com/shr_douju.htm
こちらに同聚院について、Go!伊勢崎さんでご紹介されてますが、「創建は平治元年(1159年)、領主である三浦之介義明(みうらのすけよしあき、源頼朝の家臣)が赤石左衛門の菩提を弔うために開いたと伝えられています。」
現在の同聚院の場所は、有名な武家門も残されているように初代伊勢崎藩主・稲垣長茂が最初に館を構え旧陣屋を置いた所で、従って長茂が伊勢崎に入った1601年頃の同聚院は、まだ奥の県営住宅の辺りにあったものと思われます。
現在の北小付近に新しい陣屋が完成後、長茂の館は同聚院に引き継がれたということでした。
まあ、ご住職さんにお聞きすればすぐに解るお話でしょうが・・私の話はいつも推定も含まれてますので、違っていたらすみません。(汗)
丸男さんのお写真にありますように、来月は同聚院のヒカンザクラ(緋寒桜)が咲くと濃いピンクのお花が綺麗でしょうね!


Re: 煉瓦隧道 - あおば 2015/02/17(Tue) 13:50 No.2145
鳩ぽっぽさん、こんにちは(^_-)-☆
崖の上の庭に通じる階段と滑り台、今も健在です。私もすごく気になって、この家の人に
聞きましたら、(以前、老人ホームだと聞いてるので、何かあった時の避難用ですかね)と、
おっしゃてましたが、それ以前の「避病院」の時代からでしょうか?
私もこの階段、上がってみましたよ。

同聚院の枝垂れ桜、初めて見たのは偶然にも丸男さんと同じで、2012年4月でした。
駅のホームからピンクの塊が見えて、あれが何だか気になり、帰りに見に寄って、
桜だったんだと分かり感激しました。一本ですけど見ごたえ十分です。
楽しみにしていたヒカンザクラは、去年見に行きましたが、駄目でしたよ。
どうしたことか、枯れてしまったのでしょうか?


Re: 煉瓦隧道 - 鳩ぽっぽ 2015/02/17(Tue) 23:58 No.2146
あおばさん、お返事ありがとうございます。
おかげさまで子供の頃から謎だった、「階段と滑り台」の謎がやっと解けました。
これは老人ホームができた時、(或いはもっと遡って避病院??)非常時の避難用に設置したものに違いないでしょう!
最初はお年寄りが一人でこの急な滑り台は無理!と思ってましたが・・ネットを検索したら、介護施設や幼稚園、病院の建物等に設置する避難用滑り台の業者も色々ありました。
介護の必要な方が避難する際は滑り台に沿って横に階段があるから、介護職員さんに援助されながら安心して滑ることができるということでした。こちらは階段の外側にはしっかりした白いフェンスと手すりも付いているから、職員さんも安全ですね!

子供の頃、児童公園の目の前に素晴らしい滑り台があったものだから、興味津々、子供ながら「あそこで遊んでいいのかな〜」なんて思って階段を上まで上がってしまったわけです。(汗。)
あれから40年、、謎も解けてスッキリしました。ヽ(^o^)丿
徳江製糸所の煉瓦隧道とともに、こちらも元・老人ホームの貴重な遺構ですね。
個人様のお宅のことを巡っていろいろとすみません。あおばさんが今度、お会いした際はどうぞよろしくお伝えください。m(_ _)m


福寿草 投稿者:あおば 投稿日:2015/02/15(Sun) 13:28 No.2142    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
丸男さんが、2014年2月6日(撮影日)に「某所」として福寿草の記事が載ってたので、
今回、2月14日に見に行って来ました。すごく綺麗でしたよ。
初めて行きましたが、思ったより広くて、まだ当分楽しめそうです。
この日は、風もなく最高のサイクリング日和なので、境駅北公園まで足を延ばして公園内を
ぶらぶらと、帰りは決まって、すぐ傍の喫茶店「羅異都コーヒー」で、一休みしてから家に、
あいにく「栄寿堂」さんがお休みで、きんつばは買えませんでした。残念。

Re: 福寿草 - 丸男 2015/02/15(Sun) 20:24 No.2143
あおばさん、福寿草の場所、出かけたんですね。
あの場所に福寿草とヒガンバナを植えているSさんが知り合いで、
以前、新聞で紹介された後、乱掘被害にあって悲しい想いをしたと言うことで、
場所は伏せておきました。まだ健在のようで、安心しました。

境駅北公園の喫茶店「羅異都コーヒー」、あおばさんのこの記事で知りました。
境駅北公園脇はちょくちょく通るのに今まで気づかなかったのですが、
大通りの一本南側の通りの住宅地だったんですね。
今度出かけた時には寄ってみます。

きんつばは残念でしたね。
手からこぼれ落ちそうなタップリのあんこ、美味しいですよね。


水利と開墾の歴史に関する展示会 投稿者:丸男 投稿日:2015/02/07(Sat) 19:05 No.2121    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
景観サポーターメンバーのSgさんから、先ほどタイムリーなメールが届きました。
===============================================================
水利と開墾の歴史に関する展示会(2/8)と関連情報について

(1)時:2月8日(日)
展示会:下植木公民館9:00〜15:00。
説明会は10:00〜約30分。
6〜7日もありました。
場所は医師会病院と太田県道の中間よりやや北より。

(2)町内の生涯学習としての企画のようです。

(3)八坂用水の関連展示もありました。
 八坂大樋のカラー図面があるとの事です。(展示あり)

(4)「八坂用水資料目録」が図書館にあるそうです。

(5)展示資料作成は殖蓮史談会のA氏(元市職員さん)です。

7日の展示を見学して色々な説明を受けました。石碑の写真・碑文も展示されています。
充実した展示ですので参考になると思います。以上取り急ぎ連絡まで。
============================================================

八坂用水で盛り上がった当掲示板です。投稿した下さった方、閲覧された方、時間がありましたら、足を運んでみてください。

男井戸川河川工事 投稿者:オオキ 投稿日:2015/01/31(Sat) 08:32 No.2104    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
おはようございます。以前国道354BPで現場代理人をしていた大木です。
今回も男井戸川工事の取材にいらしてたんですね、現場事務所に寄って頂ければお茶でも
お出ししましたのに。
伊勢崎駅南側で当社の土木部長と話をされたそうで、部長からも話を聞かせてもらいました。
また男井戸川にお越しの際はぜひお声掛け下さい。

Re: 男井戸川河川工事 - 丸男 2015/01/31(Sat) 11:29 No.2105
大木さん、お久しぶりです。354BPの工事はお疲れさまでした。
立派な道路ができて、開通後も、車や自転車で何度も利用させていただいています。
立派な道路なので、自転車専用レーンを走っている時には、何だか申し訳ないくらいに快適です。

掲示板に投稿していただいた以降も、354BPにはちょくちょく出かけていたのですが、
休日に出かけることが多かったので、なかなかお会いできずにとても残念でした。

伊勢崎駅前で部長さんとお会いし、山の話で盛り上がって、楽しかったです。
正月にも雪山に行かれたそうで、まだまだ現役のようで、刺激されます。

男井戸川の現場にもまた寄らせていただきます。
粕川や男井戸川、用水路、サイクリングロード、農道など、たくさん交差していて、
しかも、土地なりも立体的なのでご苦労も多いと思いますが、ぜひ頑張ってください。


伊勢崎陣屋重ね図 投稿者:海彦山彦 投稿日:2015/01/10(Sat) 18:14 No.2029    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
先日、丸男さんから伊勢崎陣屋の重ね図の電子データの依頼を受けました。
早速、休み明けにpdfをmailしたいと思います。
伊勢崎陣屋(個人的には伊勢崎城)は、赤石城とともに伊勢崎の礎と考えています。
個人的には、ゆっくりと長く調査をしていきたいと思っています。まだ現役なのであまり時間を費やせない事情が背景にあります。
目標は、3DCADで3次元的に伊勢崎城を復元したいと願っています。
少し前に赤堀歴史民俗資料館で伊勢崎城本丸建物の間取り図が展示してありました。図書館に保管されているようですが、もう少し精神的に余裕ができたらT館長さんにお願いしようと考えています。
追伸 伊勢崎城の堀は水堀であったといわれていますがどこから水を引き込んだのでしょうか?
どなたかご存知でしたら教えてください。

Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/10(Sat) 22:53 No.2030
海彦山彦さん、お忙しいところ、まして年度末の多忙期にすみません。
伊勢崎城の3D模型の製作、有意義でかつ楽しそうです。
伊勢崎城の堀・・・水路勾配を考えると、おなべっ川か赤坂川でしょうかね。
鳩ぽっぽさんが探してくれた1946年の航空写真でも、赤坂川は現在位置と同じ位置にありますね。
あの周辺の標高を調べてみます。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 鳩ぽっぽ 2015/01/11(Sun) 19:01 No.2031
海彦山彦さん、丸男さん、アドバイスをありがとうございます。
何年か前に海彦山彦さんの「いせさき景観情報サイト」と出会って、「伊勢崎城の遺構を尋ねて」の記事を拝見した時は目から鱗でした。
特にCADによるお城縄張り図と現代の街の重ね図は、郷土史ファンにとってまさに画期的で、重ね図をもとにした具体的な遺構の調査もさすがですね!!
またまた、3DCADによる伊勢崎城の復元、とても楽しみですね〜。ぜひぜひ実現なされて、橋田友治先生も星野正明先生もビックリの伊勢崎郷土史、デジタル時代の金字塔を打ち立ててください!

さて、「伊勢崎城の堀はどこから水を引き込んだのでしょうか?」ということですが、言われてみると不思議ですね。
ひとつ参考資料として、画像は国土地理院地図からのものですが、明治前期の低湿地を表しています。
ベージュ色は水田、田ということで、伊勢崎駅の辺りも田んぼが多かったことがわかります。地図の「大手町」と書かれた辺りまでベージュ色が来てます。そこには寛政10年の古図にもありますが、中台寺東の通りから今の井下時計店辺りにかけて幅一間(1.8メートル)の水路があったようなので、その辺から水を引いたんじゃないか?という気がします。いや、あくまで素人判断ですが・・・

また、この明治前期の低湿地の地図で特筆すべきは、伊勢崎城北部から東部にかけての内堀が水色で描かれていることです!水色は川、湖沼なので、内堀に確かに水があったことが確認できます。
ただ現代の地図との合わせが悪く、海彦山彦さんの重ね図のようにぴったり納まってないので、雁行する道路と堀がズレているのが惜しいです。

小学生の頃は寛永の古図なんかを見て、「水は広瀬川から引いたんだろうな〜」なんて単純に考えてましたが、かつて川幅の狭かった広瀬川が現代よりも水面が高かったとしても、伊勢崎城は言うまでもなく崖の上、段丘上に築かれているので、堀を相当深く掘削しなければ水は入ってこないし動力ポンプでもなければ無理ですね。
城の北側、現在、県営住宅の建つかつて沼地であった辺りもベージュ色になっていいるので、水田であればそこまでは水が来たのでしょうが、県営住宅から今の石井皮膚科の辺りにかけて道路が若干、登りスローブになっていたような気がします。
或いは、おなべっ川か赤坂川かという、丸男さんの説も有力ですね!
藩政時代の伊勢崎城と城下町は、稲垣長茂によって骨格が形成されたと言われてますが、それ以前の中世の城館(赤石城)はそれより北側の同聚院の辺りに位置し、おなべっ川がその堀として活用されていたようですね。
最初に同聚院に陣屋を置いた長茂が、新しい城郭縄張りを構想した時に、おなべっ川の水を引き込もうというのは自然の流れだと思います。
また、取水ルートを敵に知られ、塞がれて空堀にされてしまうという事態もあり得る時代なので、現代でもどこから水を引き込んでいるのか解らない城も多いようですね。
昔の人は井戸を掘ったり地下水脈を探ったり、高度な土木技術を持っていたのでしょう。今後の調査を楽しみにしてます♪



Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/12(Mon) 23:01 No.2032
鳩ぽっぽさん、伊勢崎駅周辺の水路関係ですが、推測と記憶と調査結果を含めてまとめますと・・・

●現在建設中のベイシアの南側辺り(旧自転車置き場への通路)沿いに用水がありましたが、普段は枯れていて、雨天時にも流れの方向はハッキリしない。現在は埋め土されている。
●ベイシアと大胡県道の間にある旧家の前にも用水があるが、普段は渇水。流入元は不明。
●数十年前まで、アイタワー花の森の西側(公園通りの西側)に池があったが、流入元は不明。
●アイタワー花の森の東側に用水が流れていて、現在暗渠として駅東・南北通りにやや平行に流れている。暗渠のため、常時水が流れているのか不明。
●これらは西桂川が粕川に合流する堰から分流する西桂川用水?(サンデンの下などを縦断)から引き込んでいる?
●西桂川用水?はボーリング場の北側付近で分流し、赤坂川まで流れる。大胡県道までは暗渠。
●おなべっ川は雨天時の雨量調整的位置づけと、周辺の湧水を集めただけで、付近の水系を水源にしていなかった?

と言った感じです。
陣屋のお堀ならば、流れていなくても良かったでしょうから、河川や水路からの流入でない可能性もありますね。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - ぷうぷうち 2015/01/13(Tue) 00:07 No.2033
海彦山彦さん始めまして。
鳩ぽっぽさん、丸男さんお久しぶりです。
門外漢のド素人ですが、この話題にわかに興味が沸きました。
以前、Go!伊勢崎さんで話題になった「歴史的農業環境閲覧システム」の迅速地図を参照しますと丸男さんが言っている旧自転車置き場沿いの用水路と、アイタワー西の流水の流入経路が分かります。アイタワー西というよりも、現伊勢崎駅の場所に南北に川が流れていた様です。線路や駅が出来たことで流れが変わってお堀の水が無くなったとも想像できますね。
鉄道の無かった明治初期に作成された迅速地図にはお堀が描かれていますが取水ルートは分かりません。ですが駅の所を通っていた川が怪しいのではないでしょうか。ここから駅前通を南下する水路を作れば、そこから西へは水を流しやすいと思います。
いま、市街地は空洞化から再開発に移行しつつあります。空襲を受けたときよりも町並みが変わろうとしているように思います。再開発時に発掘調査でも入れば証拠がでるかも知れませんね。



Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/13(Tue) 10:17 No.2034
ぷうぷうちさん、お久しぶりです。
今年もよろしくお願いします。
「歴史的農業環境閲覧システム」の迅速地図・・・全く思いつきませんでした。
私も早速に確認してみました。
少し先入観も作用したかも知れませんが(^^;)、河川と水路、お堀部分に色付けしてみました。

現在、建設進むベイシアの敷地を西北西から東南東に向かって流れていた水路(現在埋め土されています)の存在が気になって来ました。
この水路が駅南・東西通りを暗渠で横断し、
また、現在、建設進む三原診療所の北側を東西に流れていた水路、
この辺が水源だったのかなぁ・・・と想像しています。

取りあえず、加筆前の画像です。



Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/13(Tue) 10:21 No.2035
加筆後です。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 鳩ぽっぽ 2015/01/13(Tue) 20:22 No.2036
こんばんは。丸男さん、ぷうぷうちさんの考えがかなりいい線いっているようですね!
いや〜、今日まず、お二人のコメントを拝見して、みな考えることは同じなんだな〜としみじみ思いました。才覚あふれるお二方にアドバイス頂いて、この謎も一挙に解明が近づきました!
私も昨夜はグーグルマップの画像で伊勢崎駅の周りを見回したり、かすかな記憶をたよりに昔の風景を思い出していたところです。
またまた、海彦山彦さんの問題提起「伊勢崎城の堀はどこから水を引き込んだのだろうか?」・・・そのキーポイントとなる地点が、、おもしろいことに今、まさにベイシアと(都)3・4・44号線道路をはじめとした駅周辺開発工事の最中であることも実にタイムリーです!

「ベイシアの敷地を西北西から東南東に向かって流れていた水路。」への着目はさすがですね。実は私も、投稿の画像を昨夜、グーグルマップから複写したところでした。
画像の中央をご覧ください。道路わきに橋の欄干にあるようなデザインの石造物とフェンスがかろうじて残っていました。この下を、水路が駅南・東西通りを暗渠で横断しています。
ただし、この水路の遺構も今日はすでにないかもしれませんね。

また昔の話になってしまいますが、稲垣氏は新しい伊勢崎城、外堀と城下町を築いた時に、町の周囲も「お囲い土手」で囲み惣構(そうがまえ)にしました。
その土塁は確か、幅三〜四間、高さ二間の規模で、上には松が植えられていたそうです。土塁の外側には幅一間の堀を設け、町の外へ出るには橋を渡ったり囲いを抜ける木戸をくぐりました。
海彦山彦さんのサイトで紹介された寛政10年の古図でも、東側は中台寺東の通りから今の井下時計店前を通り八坂町にかけてあった水路がはっきり見られます。また、その古図では水路が中台寺から西方向に折れ曲がり、途中で途切れてますが現在の駅南を東西に横切るように書かれてます。
そこは、ぷうぷうちさん紹介の迅速地図でも確認できますが、私が子供の頃は中台寺付近、銭湯があった辺りには、藩政時代からあったであろうその水路が暗渠になってなかったのでよく分かりました。



Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 鳩ぽっぽ 2015/01/13(Tue) 20:54 No.2037
丸男さん、「●ベイシアと大胡県道の間にある旧家の前にも用水があるが、普段は渇水。」というのはこれじゃないですか?
旧家の奥は堀沿いに大谷石でできた蔵も建ち並び、かつての大正〜昭和初期を思わせる今でも風情ある通りですね。この堀も、(都)3・4・44号線道路の計画とかぶっているので、やがて消えさる運命でしょうか・・・城下町の懐かしい風景は残したい、でも街を新しくしたいという、ちょっと複雑な心境になりますね。



Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/14(Wed) 16:11 No.2038
鳩ぽっぽ さん、そう、その場所です。
塀の中の旧家もそのまま和風旅館になりそうな風情で、気に入ってます。

ところで、昨日、海彦山彦さんから伊勢崎陣屋と現況の重ね図をお送りいただきましたので、
図形処理やページを制作するなどして、後日、掲載しますね。
お楽しみに・・・。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 鳩ぽっぽ 2015/01/14(Wed) 21:19 No.2039
丸男さん、海彦山彦さん、重ね図のご手配をありがとうございます。
「伊勢崎城の堀はどこから水を引き込んだのだろうか?」ですが、、ぷうぷうちさんもご参加くださって盛り上がってきたところですけど、すみません、気が短いので伊勢崎図書館に行って調べてきてしまいました。
「伊勢崎市史 通史編 近世U」の中に、画像のような明治四年の伊勢崎陣屋と周辺の地図がありました。
このページを開いた瞬間、おお〜っと! 陣屋の北東部で、東西に流れる水路から外堀までの水のルートが目に飛び込んできました!
この水路は、昨夜お話した城下町一帯を囲む惣構(そうがまえ)の土塁に沿った水路です。取水地点は、現在の伊勢崎駅前の交差点〜西の須田歯科医院の範囲にあったと思われます。
すなわち、「現在、建設進む三原診療所の北側を東西に流れていた水路、この辺が水源だったのかなぁ・・・と想像しています。」と言われていた丸男さんが図星でしたね!!
水のルートは、そこから同聚院に突き当たる道で曲がって、その後も雁行して延命寺南の道路をちょっと東に進んだ、角に赤いポストのある梅田印刷さんを入った辺りで外堀に注がれているようです。それにしても、取水口からお堀までストレートで来てもいいように思いますが、これも敵の目を欺くようにでしょうか、水路もわざわざジクザクに雁木折(がんぎおり)しているのが面白いところです。
また、もう一か所、惣構の水路からではありませんが「紺屋町(こうやちょう)」とある水路が真ん中にある大通りが雁木折している箇所と、外堀が一本の水路でつながっています。ここは元、田原屋、現在はお城(といっても西洋風の)のある結婚式場あたりでしょうか。
余談ですが、外堀の最下流は新開橋の手前、元交番のあった三光公園の所で水は広瀬川に放流というわけですが、こうしたお堀も現代はある程度、循環させないと水質が悪化し、悪臭を放ったりアオコが発生してしまうという話も聴きました。

さて、伊勢崎駅南の取水ポイントに話は戻りますが、、ここの惣構の水路の水はどこから来ているかというと、地図上部に何本かの水路が惣構水路に入っていることがわかります。一本は、丸男さんが言われた例の旧家前の用水から来ているらしき水路。他に、ぷうぷうちさんが言われていた現在、伊勢崎駅の辺りから流れ込んでいる水路が数本見られます。一方、惣構水路は西に向かうと現在の、おなべっ川のルートになり赤坂川に下っているようです。
ということで、「伊勢崎城の堀はどこから水を引き込んだのだろうか?」、お二人にご検討頂いたおかげで晴れて謎が解けました!お付き合い頂いて心から感謝です!!
ふるさと先生の真似になりますが、丸男さん、ぷうぷうちさん、海彦山彦さん、そして伊勢崎城に乾杯♪



Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - ぷうぷうち 2015/01/15(Thu) 21:26 No.2040
鳩ぽっぽさん、本当におお〜って感じですね。
さらに図書館も流石です。
それにしてもよく見付けましたね。ネットだけではみつからないですよね。
駅前通りの真ん中を水路が流れていたりして今の都市とはちょっと違っていて・・・どんな風情だったのでしょうね。
現在、駅前通りは南北に高くなっていて大変緩やかではありますが市街地の背骨のように感じます。この高いところに水を流すため赤坂川から水を引く工事をしたのでしょうか。「Google earth」で見ると赤坂川の取水場所は今も当時の堀を留めているように見えます。
この水路、自然の流れには思えません。水の少ない町中を灌漑するために作られたのでしょうね。
この話題のお陰で、古墳探しとは違った視点で古い航空写真や古地図を眺めることが出来て良かったです。ちなみに迅速地図にある古い往還が今も結構残っているのが分かり不思議な気分になりましたが、その話題は別の機会ということで・・・。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 鳩ぽっぽ 2015/01/16(Fri) 01:14 No.2041
ぷうぷうちさん、お返事ありがとうがざいます!
赤坂川の件ですが、ちょっと私の説明不足だったようですみません。赤坂川へは取水でなく、どちらかと言えば排水になります。この川は城や城下町のある段丘よりも低い所を流れてます。
伊勢崎駅前にあった惣堀(そうぼり、惣構の水路)の水の流れは西に向かうと、おなべっ川と呼ばれる同聚院と善応寺境内の間の斜面を蛇行しながら流下し、城北橋のある窪地に流れ込み赤坂川に排水されます。
また、明治の迅速測図を見ると、大胡県道を入った旧家前の用水であれば遡ると太田町、現在の伊勢崎ゆまーるの辺りで赤坂川から取水していたようです。

ちなみに、善応寺に小畠武堯(おばた たけたか)という伊勢崎藩郡奉行のお墓があります。当時、田植え時には水不足に悩む伊勢崎領の水田に水を灌漑するために、小畠氏が1704年から用水の工事を担当しました。それは八坂用水と呼ばれ、伊勢崎町と波志江、安堀、太田、今泉、茂呂等の各村が用水の恩恵を受けることができました。
水田だけでなく、ぷうぷうちさんと丸男さんが見つけた城下町の水路の水もきっとこの用水に関係しているのだと思います。
また赤坂川を遡ると、太田町で丸男さん設計の「平成赤坂アーチ橋」を経て、伊勢崎市立第三中学校の南を流れる八坂用水にたどり着きます。

>「Google earth」で見ると赤坂川の取水場所は今も当時の堀を留めているように見えます。
私も「Google earth」を近いうち、ダウンロードして見てみたいと思います!御意見また、よろしくお願い致します。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - ぷうぷうち 2015/01/16(Fri) 21:34 No.2042
鳩ぽっぽさん、こちらこそ大いに説明不足で恐縮しております。
赤坂川から取水していたと考えた場所は太田町郵便局の近くです。(添付画像の矢印付近)
今でも堀の様なものが残っていますが、江戸時代からあったものか作り直されたものかわかりません。
この場所はGoogleMapでもYahooMapでも写真モードでわかります。
とにかく赤坂川の河床も低いので堰や樋など何らかの方法で分水していたものと想像します。

八坂用水が江戸時代に華蔵寺の辺りからどこを流れていたか寡聞にして知らないのですが、赤坂川とも関係があったと思います。(今も分水していますね)
また、伊勢崎駅辺りを南下していた当時の川も八坂用水と関係していたのでしょうね。
ちなみに市内の八坂町って町名は何か関係があるのでしょうか?

小畠 武堯(おばたけ たけたか)はWikipediaにも出ていて地域の偉人として小学校で教えている様です。以前「八坂樋」の話を子供から教えられましたが、今は樋の位置がすっかり変わっています。前橋の二之宮町にある智技授山文珠尊堂というお堂の近くに女掘の様な遺構があります。これが旧八坂用水です。ストリートビューでも見れます。時々自転車で通るのですが、ここに木造の大樋を架けて水を渡したと想像すると、結構ダイナミックです。

伊勢崎陣屋のお堀の話が微妙に逸れてきたのでこの辺で失礼いたします。



Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 鳩ぽっぽ 2015/01/17(Sat) 15:49 No.2043
ぷうぷうちさん、丸男さん、画像をありがとうございます。
赤坂川からの取水は、これですか〜!!そうですね、航空写真で見られる堀の跡のような形跡が、迅速測図の水路とよく似てますね。恐らくこの水路は現在は大胡県道の下を横切り、郵便局の北から歩道が急に広くなっているので、歩道の下を暗渠となって流れているのでしょう。
迅速測図によると、そのまま大胡町道沿いを南下して丸男さんの見つけた旧家前を通り、伊勢崎の城下町〜お堀に流れていたものと思われますね。
稲垣長茂の時代から、伊勢崎藩では田植え時になると水不足で、村々の間で争いが絶えなかったようです。

ところで、旧八坂用水というのはこれ(画像はグーグルマップより)じゃないでしょうか? ぷうぷうちさんの言われたように、智技授山文珠尊堂の近くを探していたら見つかりました! 自信がないので迅速側図で確認すると、お堂のある山の東側をしっかり南北に流れる水路が出ているし、そのちょっと下流には水路が神沢川を渡る橋まで出ていたのでスゴい!と思いました!いや〜、迅速側図ってほんっとに、おもしろいですね〜。



Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 鳩ぽっぽ 2015/01/17(Sat) 16:14 No.2044
またまた、画像はアイオーしんきんさんの「いせさきフロンティア」からお借りした、「八坂樋の外観写真」です! この木製大樋は全長70メートルもあったんですね。現在のコンクリート製の大樋は、ここから神沢川を500メートルほど上流にありますね。
藩政時代、神沢川の向こう岸の下増田村は前橋藩領であったために、測量は夜間に線香の灯りをたよりに行われたことや、初めての通水の朝、小畠氏は白装束で善応寺本堂に入り、もし通水しなければ腹を切る覚悟であった等々・・・小畠武堯にまつわるエピソードを聴くと、この人は本当に偉い人だったようですね。
当時は神沢川の左岸、この辺りを八坂村と言ったようです。八坂用水はまさに、偉大な先人の歴史を今に伝えるものですね。



Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 鳩ぽっぽ 2015/01/17(Sat) 20:20 No.2045
丸男さん、写真の掲載、感謝です! 恐縮ですが、いささか写真とコメントの辻褄が合わなくなってしまったので補足させて頂きます。
コメントNo.2043の「赤坂川からの取水は、これですか〜!!」というのは、一つ前のコメント、ぷうぷうちさんの写真のことを言ってます。
「ところで、旧八坂用水というのはこれ(画像はグーグルマップより)じゃないでしょうか?は、コメントNo.2043に掲載された写真についてです。ぷうぷうちさんに確認してもらわないとはっきり特定できませんが、このまるで女堀のような遺構、江戸時代に掘られた旧八坂用水ということでスゴい!と思いませんか〜。
このガードレールの道を左方向(西)に向かえば、すぐに丸男さんもよくご存知の智技授山文珠尊堂です。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/17(Sat) 22:54 No.2046
鳩ぽっぽ さん、大丈夫です、コメントのずれ、ちゃんと理解してました。
智技授山文珠尊堂東方の堀跡、あの脇は神沢川から荒戸川へ向かう私のサイクリングコースなので、
時々通って、気が付いてます(^o^)。
確か、写真も何回か撮っていたような?フォルダを探してみます。見つかるかなぁ?
三郷地区には八坂(やっさか)と言う字名があって、確か今も使用されていると思います。
「中の面」や「岡屋敷」南方の八坂用水周辺地区です。
今の町名では波志江二丁目ですかね?

木製の水路の「八坂樋」の写真・・・よく見つかりましたね(@_@)。
神沢川をオーバーパスする昔ながらの土木技術、素晴らしいです。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/17(Sat) 22:57 No.2047
それと、ちょっとコメントを控えていたのは、忙しかったせいもありますが、
海彦山彦さんから送っていただいた重ね図のPDFファイルを
画像処理したりページ作成していたためで、明日には掲載できると思います。
調査や確認などでご利用ください。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - ぷうぷうち 2015/01/17(Sat) 23:51 No.2050
丸男さん、鳩ぽっぽさん八坂用水も歴史があって興味を引きますね。
何年か前に赤堀の資料館で八坂用水の歴史を展示していた様なのでその時に興味を持っていれば・・・、と惜しい気持ちです。
これまた何年か前に子供と八坂樋の見学に行ったとき記念に撮った看板の写真です。この絵は古文書からの転写でしょうか、中々面白い絵ですね。
伊勢崎陣屋のあとにも、分かりやすく碑や説明の看板があっても良いのになぁって思っています。



Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/18(Sun) 09:04 No.2051
ぷうぷうちさん、八坂用水の説明板、始めて知りました。ありがとうございます。
素晴らしいです。これ、どこにあるのですか?

智技授山文珠尊堂東方の堀跡も女堀規模で、
でも位置が女堀とは違うし、何なんだろうとずっと気になっていたのですが、
八坂用水跡だったとのことで、今回謎が解けて嬉しいです。

今日付けで、伊勢崎陣屋の地図も掲載します。謎解きの参考にしてください。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - しょうちゃん 2015/01/18(Sun) 12:00 No.2052
丸男さん
八坂(やっさか)に付いてですが、八坂は波志江町三丁目(お富士山古墳北側)に成ると思いますよ。
<シティーマラソンコースのお富士山付近の道路の北側・内側は三丁目、南側・外側が安堀町>
実際、古墳北側の地区公民館は「八坂生活改善センター」と言う名称に・・・

ただ、自分の親父らは今住んで居る波志江町二丁目(中野面等)でも行政区(班)は有るのですが、
八坂側とか新田側と呼ぶ事が有るので丸男さんの言う二丁目?内の八坂の事は自分には詳しくは説明出来ません。
親父が今、親類の法事に行っている為、帰って来たら八坂の件を聞いて見ますね。
自分が言った、八坂は三丁目・・・で無かったら再び投稿します。
序に、シティーマラコースに有る<十三屋またはチコマートと言う商店の隣>には「お賓頭盧様」と言う薬師が有りますよ。(ここも八坂に成るのかな?)


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - ぷうぷうち 2015/01/18(Sun) 16:19 No.2053
丸男さん海彦山彦さん、陣屋の図面拝見させていただきました。
目を見張る詳細さです。この図を頭に叩き込んで曲輪町界隈を自転車で散歩してみます!
こんな、素晴らしい図を見たあとで八坂樋のレスを着けるのも恐縮ですが、看板の位置をお知らせします。
智技授山文珠尊堂を話題にしておきながら看板は三郷側で全東院の裏手に有ります。そのまま行くと砂利道を通って神沢川の端まで下りることも出来ます。
八坂用水は地元では「しんぼりがわ」または「しんぼりっかわ」(新堀川)と呼ばれていたと記憶しています。江戸時代に出来ても新堀なんですかね。八坂用水というのはかなりフォーマルな呼び方だったと思います。
それから今日、赤坂川の分水地点と思ったところを通って見たのですが、この辺で分水は無理そうですね。赤坂川は河床が思った以上に深いです。分水できる程の高い堰を作ると物凄いダムになり、水没する地域が出そうです。



Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - ぷうぷうち 2015/01/18(Sun) 16:41 No.2054
しょうちゃん、丸男さん、連投失礼します。
手元に波志江の字名を記した資料があったのでスキャンして添付します。
コレを見ると今の道路が記載されていないので分かり難いのですが、八坂樋のあたりは新堀上/下という字の様です。
北関東道の側道に新波橋というのが有りますが(前橋の新井町と波志江町の境)字=八坂とはここの波志江側周辺のことみたいですね。(なんだかピンと来ませんが・・・)いかがでしょうか。



Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/18(Sun) 18:49 No.2055
しょうちゃん、八坂は三丁目でしたか。
実は二丁目と三丁目の境界は良く分かっていません。
一丁目は何となく分かるのですが。
新田・・・と言う字名は初耳でした。

ぷうぷうちさん、説明板の位置図、ありがとうございます。
北北西側に延長すると、智技授山文珠尊堂東側のお堀跡に繋がりそうですね。
それにしてもぷうぷうちさん、あんな奥まった場所の説明板、よく見つけましたね。
私も遠からず写真を撮りに行ってきます。

それと、波志江の字名の資料のアップ、ありがとうございます。
分かる名前が2割くらいしかありませんでした。
いつかこの画像を拝借して、現況図と重ねてみたいと思います。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 鳩ぽっぽ 2015/01/18(Sun) 21:03 No.2056
「伊勢崎陣屋重ね図」が、ついに「Go!いせさき」さんにその姿を現しましたね! しかも今回は、CADによる海彦山彦さんの渾身の作を収めたオリジナルファイルをベースに、丸男さんスペシャル♪でリニューアルされた形で公開されて素晴らしいです!!
地図のスケールが大きく城郭図らしく堂々たるものになり、土塁もリアルに描き込まれたので見ていて迫力が、縄張図のようなスゴ味があります! 特に、フルサイズ表示にするとオリジナルの緻密さが露わとなって、ほんと目を見張るものがありますね!
これは伊勢崎市史の中でも未だかつて無かったもので、、海彦山彦さんと丸男さんのコンビは、伊勢崎市史に偉業を成し遂げたと言っても決して過言でないでしょう。
色々と掲示板でも書かせて頂きましたように、この重ね図を通して、現代の街の中に今まで気付かなかった様々な新しい発見がありました。例えば伊勢崎織物協同組合の角の交差点の、今では花壇になっている更地は昔はガソリンスタンドだったように思います。その辺りにかつて城の最初の大手門があり、その更地に面して北側に現在でも残っている細い通りが、実は門の下をくぐっていた通りで、つまりそこは城の玄関であったことが解りました。そのように今まで自分が何気なく通っていた所が、かつての城の重要ポイントであったことを知った時の驚き!はまさに、ふるさと再発見で一番おもしろいところです!

最近、城郭ファンの方々のブログを見ることも多くなってますが、遠くから伊勢崎陣屋の史跡巡りにやってくる人が意外と多いことがわかります。しかし、それといった遺構が見つからずに「遺構を残さないのが伊勢崎人の気質なんだろう・・・」と書かれていたり、「これだけの城郭があったところなんだから、せめて説明板くらいは立ててほしかった・・・」云々といったことが記事に書かれてます。

幕府大老として権勢を誇り下馬将軍とも呼ばれた前橋藩主・酒井忠清が、二男の忠寛に分与した二万石の伊勢崎陣屋だけあって、その全貌は本丸を囲むように二の丸、乾崎郭の諸廓に外堀、城下町の各所に寺院を配置、道路は雁木折り(がんぎおり、筋違い)にしたのは軍事的防御に基づくものと言われ、更にその周り城下町一帯を総掘りと土塁で囲んだ総構え(そうがまえ)で、「陣屋」とは言うものの完全な城郭構造の体をなしていたスタイルですね!
この「伊勢崎陣屋重ね図」を通して、私たちは後の時代を生きる伊勢崎の子供たちに、歴史を伝えてゆかなければならない!!と切に思わされています。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - しょうちゃん 2015/01/19(Mon) 00:20 No.2060
ぷうぷうちさん・丸男さん
親父に直説聞くことが出来なかったんですが、ぷうぷうちさんの資料から
自分なりに解った事をお知らせします。
三ノ堰から新田・八坂前・西屋敷前・四反田と北側の八坂・西屋敷・西屋敷東の区分線が
北関東道とほぼ一致する様な気がします。
伊勢崎大胡線は岡屋敷(中央))・半在家左(西)・大鍋右(北)・大鍋前右(東)の区分線が合う様な?
これはあくまで予想なのであしからずですが、この地図で二丁目(中野面)に八坂と新田と言う
名称が有るので親父の言う八坂側・新田側と呼ぶ意味と位置が合う気がしてます。

これは失礼しました。
もう丸男さんが別スレで回答してましたね。
投稿後気が付きました。、どうもすみません。
北関東道はほぼ合ってましたが大胡線はチョットずれてましたね。
ごめんなさい。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - 丸男 2015/01/20(Tue) 08:46 No.2064
しょうちゃん、中野面や八坂は子どもの頃から知っていたのですが、
三ノ堰、新田、八坂前、西屋敷前、西屋敷東、四反田、半在家左、大鍋右、大鍋前など、
始めて聞く名前ばかりで興味深かったです。
皆さん、まだ覚えているんでしょうかね。

それと、小字の地図が現況図にピッタシは重ならなかったので、多少の変形を加えています。
その関係で、大胡県道や石山県道(深津伊勢崎線)と小字が微妙にずれているかも知れません。

いずれ、八坂用水関連は別スレで。


Re: 伊勢崎陣屋重ね図 - しょうちゃん 2015/01/20(Tue) 22:09 No.2065
丸男さん
70歳代以上?でしたら新田・八坂・半在家は殆ど解ると思います。
実際今でも会話の中で家の位置とかでしたら、60歳代以上方からは出て来ますよ。
中屋敷の新しい(北関東道関連の工事開始以降)住宅街は半在家の・・・・とか
親父なんかは、近年の行政の指定区より新田側とか本組(中野面)八坂側とか方が解るとか・・


伊勢崎城、最後の遺構 投稿者:鳩ぽっぽ 投稿日:2015/01/07(Wed) 23:25 No.2021    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
丸男さん、今年もどうぞよろしくお願いします♪
さっそくいつも古い話題で恐縮ですが、Go!いせさきさんで何年か前に、「中心市街地で探した自然・おなべっ川沿いの風景」という興味深い記事がありました。URLはこちらです。
http://www.go-isesaki.com/green_in_city_center.html
この記事の中に「この川は、その昔「おなべっ川」と呼ばれ、橋の名は「城北橋」。上を通る道は明治時代、伊勢崎陣屋と太田村(後に安堀村、波志江村と合併し三郷村となる)とをつなぐ「廓新道」として造られました。「城北」と言う由来を考えると、この当時は伊勢崎城(赤石城)の城跡が残っていたのかも知れません。」といった説明がありました。
この説明の後半が、さすが丸男さんの勘の鋭いところで、戦前までは確かにこの付近に伊勢崎城のまとまった遺構が残ってました。
昨年は場所をはっきり特定できるまでに至りませんでしたが、先日、図書館でいい資料が見つかってかなり解ってきましたので、是非この場をお借りして報告させて頂きます。

まずは、添付した地図をご覧ください。この地図は恐らく歴史学者の山崎一氏の縄張り図をもとに、また現在の道路や建物の位置は伊勢崎景観情報サイト「伊勢崎美尋」さんの地図を参考に作成してます。
赤の線、印が現在の道路や建物を表してます。おなべっ川の「城北橋」は曲輪町県営住宅(@の建物)の東側の道路「廓新道」をちょっと(約50メートル)北に進んだ所です。なお、おなべっ川は中世にあった赤石城の堀だったようです。
伊勢崎城(陣屋)最後の遺構は、、県営住宅(@の建物)南、わずかに雁行状の小さい交差点の所から、伊勢崎ハイツ(母子寮Dの建物)の辺りにかけてありました。
現在、伊勢崎ハイツ(母子寮Dの建物)になっている所から「廓新道」にかけて、戦前までは緑色で記したように東西に渡って小高い土塁が残っていたそうです。
また、その土塁に沿って外堀の一部が青く記したように蓮池となって残ってました。その蓮池の畔には、クリーム色で記した「避病院」という町営の伝染病院があったということでした。その病院の跡地には、昭和の時代までは老人ホームが残っていたように思います。
土塁と外堀はかつて「第二公園」という(華蔵寺公園が第一で、こちらは第二のようです)丘にベンチがある程度の小さな憩いの場になってましたが、昭和17年頃に食糧増産の耕地造りのために、土塁を崩して蓮池を埋めてしまったそうです。
戦後はカスリン台風の大洪水に被災した人々の住居(水害住宅と呼ばれた)をここに建てたという記録もありました。
伊勢崎城(陣屋)最後の遺構がなくなってしまったのは非常に残念ですが、歴史遺産を残すより、町民が目の前の被災者を救おうとして取った行動だったので、それは高く評価したいと思います。
ちなみに、小さな交差点から「廓新道」を南下するとCのあたりが石井皮膚科さん。北小学校の敷地に本丸があったのでしょう。Aが、あかいし保育園さん(旧第一保育所、その前はたしか市営プール)、Bが延命寺です。あかいし保育園から延命寺にかけての道路はいまでも雁行していて風情ありますね。


Re: 伊勢崎城、最後の遺構 - 丸男 2015/01/08(Thu) 17:31 No.2022
鳩ぽっぽさん、こちらこそ、今年もよろしくお願いします。
伊勢崎陣屋と太田村(後に安堀村、波志江村と合併し三郷村となる)とをつなぐ「廓新道」・・・
特に「おなべっ川」周辺はあのアップダウンと狭い住宅街とが、
古の時代にタイムスリップしたみたいな感じで、時々足を運びます。
この正月休みにも出かけて、適当に住宅地に入ってしまって、行き止まりで戻ったりしました(汗;)。

伊勢崎陣屋跡と現在の地図を重ねた図面も持っているのですが、紙媒体なのでスキャンしないとアップできないので、悪しからず。
後で作成した本人(Sさん)にデジタルデータから直接PDFにしてくれるように頼んでみましょう。
数年前に、伊勢崎陣屋の遺構巡りをした時の資料です。
今でも、
●蓋つき用水路=堀の跡
●郵便局本局駐車場北側の段差=土塁の間の大手門
●赤レンガ塀が残るゴストー北側=旧大手門への通路
●群銀伊勢崎西支店駐車場南側の段差=お濠の段差(予測)
等々、何ヶ所かで確認できます。

でも、県営住宅や伊勢崎ハイツ付近に土塁が残っていたこと、知りませんでした。


Re: 伊勢崎城、最後の遺構 - 鳩ぽっぽ 2015/01/08(Thu) 22:11 No.2023
丸男さん、貴重なアドバイスをありがとうございます。
伊勢崎景観情報サイトの「伊勢崎美尋」さん(Sさん?)作成の合成地図では、伊勢崎ハイツ(母子寮)の建物と緑色で示した土塁の位置が見事に一致しているのでさすがだと思いました!本当にいい仕事をされてます。ただ残念なのはサイトでは地図の画像がぼやけているので、シャープな画像で見てみたいですね。また、こちらのサイトでは外堀を「内堀」という解釈の仕方です。
http://www3.ocn.ne.jp/~sato4415/isessiro.html

県営住宅から南に50メートルに位置し、現在の伊勢崎ハイツ(母子寮)から「廓新道」にかけてあった土塁ですが、この土塁を崩している昭和17年頃の写真が古い写真集にありました。キャプションに次のように書かれてます。
「その堤を崩して蓮池を埋め、食糧増産の一助に(そこを整地して馬鈴薯づくりを)しようというので駆り出された泉町(現、曲輪町)壮年団の人々。背後の煙突は徳江製糸工場のものである。」
画像とキャプションは橋田友治 編「ふるさとの想い出写真集 伊勢崎」のものです。
徳江製糸工場は現在の図書館の北にあったので、この写真は堀側から南を向いて撮影したものと思われます。



Re: 伊勢崎城、最後の遺構 - 鳩ぽっぽ 2015/01/08(Thu) 22:29 No.2024
こちらは逆に、土塁側から外堀を撮影したものです。このように当時は外堀の一部が蓮池となって残ってました。堀の向こう岸に見えるのが、避病院(ひびょういん)と呼ばれた伝染病院です。
昔の伊勢崎の子供たちは夏になると、広瀬川のタネンブチ(太郎右衛門渕)に水浴びに行くのに、この伝染病院の前を急いで駆け抜けたそうです。
避病院とは明治時代に造られた日本の伝染病専門病院で、町の郊外に多く造られコレラ等の患者を隔離したようです。伊勢崎には明治34年に、昨日の地図でクリーム色で記した辺り(昭和時代に老人ホームのあった場所)に造られました。



Re: 伊勢崎城、最後の遺構 - 丸男 2015/01/09(Fri) 12:01 No.2025
鳩ぽっぽさん、SさんはそのSさんです(^o^)。
笑点の昇太じゃありませんが、お城の趣味をお持ちです。

鳩ぽっぽさんの写真、土塁や蓮池が写っているのが貴重ですね。
子どもたちが伝染病院の前を急いで駆け抜けたと言うエピソードもイメージが湧いて、懐かしいです。
病院を避病院(ひびょういん)と呼んだことも世相を反映しているようで、感慨深いです。

旧東町役場前の池を「病院沼」と呼んでいたことなどを思い出します。


Re: 伊勢崎城、最後の遺構 - 鳩ぽっぽ 2015/01/10(Sat) 15:50 No.2026
丸男さん、お返事ありがとうございます。
伊勢崎陣屋の土塁と堀のあった辺りの昔の航空写真を、国土地理院の例のサイトで探してみました。写真は1946年(昭和21年)10月の米軍撮影のものです。
この写真はちょっと曲がって撮れてますが、右下に北国民学校(北小)の敷地、その上に近代的な市民プール(現、あかいし保育園)がよくわかります。
また画面中央よりやや左に目立った沼があり、最初はこれが外堀か!と思いましたが、この沼はかつて「小池」と呼ばれ、沼のあった所に現在の曲輪町県営住宅が建っています。
沼の北に城北橋、一方、沼の南の画像中央の白くなっている所(ピストルの弾のような形)が、伊勢崎陣屋の土塁と堀のあった所です。土塁のあった所には、まだ緑が残っていたことがうかがえます。
ピストルの弾の頭(道路がカーブしている)の所に寄棟の屋根が確認できますが、それが先日の避病院の建物と思われます。
ということで、避病院は敷地の南北を堀と沼地に囲まれ、西は崖になっているという地形に建てられたことになり、伊勢崎町がこの地を選んだ理由も解ってきました。
19世紀の終わり、コレラの大流行で日本では10数万人以上の死者を出し、明治政府は日本各地で避病院の設置を進め、当時は治療が不可能だった患者の収容・隔離体制が整えられたようです。



Re: 伊勢崎城、最後の遺構 - 鳩ぽっぽ 2015/01/10(Sat) 16:07 No.2027
こちらの画像は、土塁と堀のあった辺りのグーグルマップによる現代の風景です。
中央の駐車場や洋風民家のある辺りが堀のあった所、左端の民家のすぐ裏に伊勢崎ハイツ(母子寮)があり土塁があった場所と思われます。
また画像右端の樹木の茂みに避病院があったのでしょう。避病院のあった所は昭和40年代頃までは赤い屋根の老人ホームになってました。



Re: 伊勢崎城、最後の遺構 - 丸男 2015/01/10(Sat) 17:38 No.2028
鳩ぽっぽさん、土塁が残される写真、よく見つかりましたね(@_@)。
県営住宅の位置の蓮池もはっきりと分かりますね。
今日も伊勢崎駅から「同じゅ院」の前の路地を通り、県営住宅の北側を自転車で走りましたが
あの辺、今でもアップダウンが残り、謎深い場所です。

市民プールと言えば、当時、三郷小学校や中学校にはプールがなかったため、水泳教室はこのプールまで通いました。
ひと夏に1回か2回程度だったため、ほとんどトレーニングにはなりませんでしたが。

・・・ところで、昨日、Sさんと会いまして、陣屋と現在の地図を重ねた高密度のPDFを頼んでおきました。
届きましたら、何らかの方法で紹介します。


Re: 伊勢崎城、最後の遺構 - 鳩ぽっぽ 2015/01/17(Sat) 23:01 No.2048
丸男さん、小さな橋シリーズ、稲荷町の韮川に架かる「城東橋」ですが、かつては橋の西側に確かに「今村城」といった城がありました。
城東橋を渡ってすぐの十時路を左折して進んだ集落の中に碑があるのですが、わかりずらい所なので、よかったらこちらの方のブログ「城郭放浪記」さんをご覧ください。
http://www.hb.pei.jp/shiro/kouzuke/imamura-jyo/

今村城は、中世時代に現在の伊勢崎市西南部(かつての那波郡)を中心に興亡した武家の名門、那波氏の那波宗俊(なわ むねとし)によって築城されたようです。
宗俊は今村城の他に、名和小学校付近の那波城(堀口城)、同聚院辺りにあった赤石城を拠点として、関東に出陣した長尾景虎(謙信)に対抗しましたが、上杉軍により次々落城して那波氏は没落してゆきます。


Re: 伊勢崎城、最後の遺構 - 丸男 2015/01/17(Sat) 23:24 No.2049
鳩ぽっぽさん、今村城でしたか。
私は今村城は倭文神社の北辺りとずっと思い込んでいたので、
候補者から外してしまっていました(><)。
謎が解けました。ありがとうございました。


いせさきかるた 投稿者:しょうちゃん 投稿日:2014/12/31(Wed) 16:30 No.2020    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
伊勢崎かるたが出来た様ですけど・・
http://www.raijin.com/ns/2414199443531199/news.html
何時・何処で購入出来るんでしょうかね?
丸男さん知ってますか?

わが町を思う 投稿者:あおば 投稿日:2014/12/12(Fri) 19:20 No.2017    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
まず、景観まちあるき「境・糸市・絹のまちめぐり」に参加して
境町の歴史ある街の風景・建造物にふれてなんと魅力的な所なんだろうと
思いました。その後何回も訪れました。
また、境図書館文学歴史散歩、秋の「信州の鎌倉」めぐりにも行きました。
忘れてならないのは、「Goいせさき」の丸男さんと知りあったことですね。
そのお陰で私の知らなかった、我が街いせさきの魅力をたくさん知る事ができました。、
千本木神社の秋祭り「龍頭神舞」初めて観ました。とぶさ欲しかった(^▽^笑)

Re: わが町を思う - 丸男 2014/12/13(Sat) 09:45 No.2018
あおばさん、おはようございます。
車移動だと、狭い道路や渋滞する道路が気になりますが、
サイクリングや徒歩ならば、自分たちが住む地域をゆっくりと眺められるので、新発見が多いですよね(^o^)。
あおばさんもサイクリングを楽しんでいるとのことなので、
これからも色々な場所を新発見して、教えてください。
私もサイクリング&取材&新発見・・・と楽しみながら頑張ります└(^o^)┐。

とぶさ・・・実は我が家の玄関にも飾ってあります。Suh sanから毎年いただいています(^o^)。
神社で舞う龍頭神舞の時、周りで見ていると、小さいとぶさが飛んで来ることがあります。
来年はそんな偶然に期待して、また訪れてみてください。


伊勢崎シティマラソン 投稿者:しょうちゃん 投稿日:2014/12/11(Thu) 22:11 No.2015    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
丸男さん
誤字発見です。
4月11日掲載の<<剣道伊勢崎大胡線交差点付近、体育館前交差点など>>
剣道??県道って解ってはいますが(^_^;)
今年は、高校駅伝もシティマラソンも、走路指導員として交通整理に立ちませんでした。
高校駅伝は友人が走路指導員として立って居た場所に行って応援して、シティマラソンは自宅ベランダから応援??してたつもり・・・

Re: 伊勢崎シティマラソン - 丸男 2014/12/12(Fri) 08:27 No.2016
しょうちゃん、ご指摘ありがとうございます。
先ほど訂正しておきました。
時々、自分でも相当に古い記事の中から間違いを見つけて、汗をかくことがあります(^^;)。


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