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近藤蔵人 が 想うこと(2)




更新:2013/7/30
東京プレリュード
海と絵
成人の思想
無事にと願うこと
招へいしたくない未来
サッカーを見終わって
民主的と封建的
知性
ちあきなおみのこと(「なめらかな社会とその敵」・鈴木建を読んで)
→(1)下記はこちら
はなちゃんへ(おさなごへの手紙)|良妻について|新郎の父でございます|感覚と充足|恋しき石器時代|象徴力|春|魚釣り|小学生の子供たち|答え|役に立たない日々|ひまつぶし|たましいという|漫画と綺麗と息つく暇なし|18年1月15日|結婚話3題|こどもたちへ|夏の物語

(3)→「上流志向と下流志向」
(4)→「質感」
(5)→「グローバリズムの罪」
(6)→「喜怒哀楽」
(7)→「紙一重とIQ」




掲載:2013/5/21 ▲ページTopへ

◆ 招へいしたくない未来 ◆


(1)

 未来を想像する時、想像された未来の実現可能性が増すことは知られている。
 バレリーナになりたいと思った子供と、思わない子供とでは何百倍もバレリーナになる可能性が高くなる。そのため、不吉な未来は語るべからずと古人は述べている。しかし、その未来を招へいしないために、未来を想像しなければならない時もある。



 数十年先のこと・・・・・、
 隣国と緊張が高まり、子供たちは軍隊に召集され、隣国との通商の自由がなくなった。政府は、「我々は自由である。どこの国にも指図を受けない」と、交渉を打ち切った。戦後100年を見据えて、自民党は自主憲法、軍隊を夢見てきた。米国の力の下で存在している日本を、立ち上がれ日本!と鼓舞してきた。
 米国によって平和を維持され、米国の夢見た戦争放棄憲法を、何とか自主独立憲法として変更するため、96条から変革しようと、2013年の参議院選挙で成立させたのだ。
 当時の都知事でさえ、尖閣列島に押し寄せた中国人など、空手と柔道で打ちのめせと、ツイッターに記載した。わが社の大工も、やられてばっかりじゃだめだろ。やっつけてやれ。と怒りを露わにしたのだ。国民のわだかまりは、強者である米国には向けられず、中国、韓国、台湾に向けられ、彼らの脅威に立ち向かう武力を欲した。
 当時の首相は、自民党内でも戦後レジームの脱却と言って、軍隊の必要性を訴え続けた人である。国民が一斉に右傾化した理由は、色々考えられるが、もっとも効果があったのは、ある海上保安庁の職員が尖閣諸島近海で保安庁の船にぶつかって来た漁船の映像を国民に見せるために流したことにある。映像は漁船の船長が自国で英雄扱いされているところまで、意図的に流された。
 保安庁の船がゴツンゴツンと漁船に当てられている映像は、首相が軍隊の必要性を解くより効果があったのだ。中国で漁船の船長が英雄視されている映像に、国民は、興奮させられてしまったのだ。そして、中国の進出政策を脅威として、軍隊を欲しがる国民が多数を占めることとなった。

 13億の国民がいる中国は、選挙で選ばれた政治家でなく、日本の官僚と同じ位置の組織内に頭角を現した派閥によって選ばれた政治家である。派閥の争いは卑劣で一時も隙を見せられない。また、15%もいる独立したい少数部族と、貧富格差がひどい人民を統治するという難問を常に突きつけられている。貧困な大多数の人民の興奮をどういう方向へ持っていくかが、政治家の常にある悩みである。日本の政治家でこの13億を統治出来る者はかってもいないし、これからもいないだろう。

 2013年の参議院選では、改憲派が優勢で勝利し、国民投票で憲法改革の是非を問うた。国民の過半数でどちらかに決定される。国民には良識がある、過半数まで取られることはないだろうと、知識人は護憲をうたい粘り強く戦ったが、メディア、経済界、政府の勢いに呑まれて、最後には国民の常識に委ねるだけとなった。
 しかし投票率は低く45%、23%が改憲に賛成すれば決定となる。自民党との反対勢力が不在なのだ。護憲は時代遅れとして、どの政党も護憲を歌えない。

 そもそも時代遅れの護憲とは何なんだろう。憲法は、常に変更するべきものではないはずだ。時代に合った憲法とは、国民国家からグローバル国家にシステムが移行しつつある現状に合わせろということなら、グローバルな一企業が、日本で発祥した経緯があっても、税金を安い国に納めているようでは、日本企業とは呼ばない。その企業が喜ぶように憲法を作り替えるということである。時代に合うとはそういうことだろう。
 すべての企業は、一億いれば企業は成り立つと言われた日本から脱出して、国籍不明の企業になりたがっている。商売は世界が対象ということだ。そして、社員すべてに、英語話者になれと言う。
 日本語なら、人権だとか、雇用法律だとかは話せるが、ほとんどの日本人は、中学以下の英語力しか発揮できないだろうから、そして、企業はその「英語なら馬鹿」を狙って、英語話者を要求している。
 悲しいことに、グローバル企業が必要とする人材を、日本の学校は造り続けていることである。下流志向な学生は、時代が造り出した使い捨て出来る人材なのである。(アメリカ映画、デタッチメント優しい無関心を見よ、下流志向がいかなるものか解る)
 グローバルな企業が日本を救うと誰が思っているだろう。企業のために派遣社員の法律を作ったのは、小泉政権の規制緩和だった。そして、この人なら変化がある、と喜んだのは我々だ。今、派遣社員は、自宅を購入しようにも、銀行は許可しない。そうして、政府も経済も信用しない若い人たちは、選挙には行かなくなってしまった。

 そのため、過去にない投票率となった。国民の50%が半数でなく、国民の22.5%が半数とされたのだ。
 新聞の予想通り、憲法は自民党の政策どおりに変更されることとなった。



 3年後、50歳以下の男女を問わず、すべての国民が徴兵の対象となった。
 北朝鮮と中国の戦備を対象に、軍事費が跳ねあがり、弱者救済は、国家存続にとって代わられ、失業者と、低賃金の労働者のため、購買層が少なく商店経営も成り立たなくなった。
 隣国は、過去の教訓から日本の軍備拡張に嫌悪感を抱き、駐在する日本の会社は存続できなくなり全て撤退した。経済はどん底状態である。それでも政府は強硬姿勢を崩さない。
 力の及ばない見上げるような山には、しなくても良い敬意を表し、見下げるような小高い山には(主観的に)、何を言われても反発する日本人気質は、隣国の干渉に敵意を露わした。国民は、やりきれない毎日と、メディアの戦意高揚策によって、蹂躙されるなら戦えと声高にデモ行進が始まった。(人々はいかなる時も、自分の楽しみを持たなければならない、でなければ、興奮させられる政策にまんまとはめられてしまう)。
 当初、政府中枢は、力関係で非力を見せなければよしとするだけであったが、隣国の挑発行為に乗ってしまい、実力行使で証明しなければならないと、国民の総意を後ろ盾に、隣国の軍港に奇襲攻撃の作を練っていた。
(米国は、ここまで野放図に行動する日本を、見過ごさないだろう。どこかの時点で、落ち付け!と声がかかるだろう。これは米国の思惑に掛っている。
 国益は、どの国も最優先課題である。米国の国益は、グロバリゼイションの波を世界に波及させ、超ド級の資本家たちに利益を供給することにある。企業は、創業10年以内に収益を上げて、最も安い税金の国に、税を納付し、個人資産の蓄積をめざす。日本は隣国には強硬で、欧米の圧力にはすぐさま柔順に反応する気質である。
圧力にはすぐさま柔順に反応する気質である。
 米国は彼らに反応している限り、少々の隣国とのいざこざは見過ごす体制である。東アジア共同体を作られて、米国から離れていくより、隣国といさかいを起こしている方が、米国にとっては有利だからだと、言われている。)

 不戦の誓いを立てた憲法があった時代からどうしてこのような事態となったのか、自問しなければならない。相手の威嚇に、同じ武力で対処する意味は、双方ほんとに玉が飛ぶよ!と、脅すことに有る。その現場は、我々と同じ人間が鉄砲を持って対峙している。
 その人たちの頭の中が真っ白になって、トリガーを引くこともあると想像しなければならない。あり得ると想像されることは全て事前に避けなければならない。それが経験則である。一度でもその方向を向けば、止められないのが過去の法則であるから。
 70年とならんとする平和は、憲法が守っていた。何故に、戦火に巻き込まれる恐れのある事態を招き寄せようとするのか。徴兵もしなければ、軍隊の派遣もない。これは、自立した国となるためにだけ必要なのである、という説明は成り立たない。



 韓国が北朝鮮のミサイル攻撃を受けて死傷者が出てもなお、静かに南北統一を夢見ることは、日本国民には出来ないだろう。ミサイルにはミサイルであがなうべきだという世論に太刀打ちする強さは日本にはない。(福島の広大な国土を喪失しても、文句は出ないが、尖閣諸島の中国の権勢にこの勢いなのだから)

 韓国は、南北朝鮮の戦いの経験がある。中国が付き、アメリカが付いた戦いに、国内は破壊され、ついには陣地の境界線を1mでも移動させたいがために、多数の無駄ともいえる戦死者をだした。その経験があるから彼らは我慢の哲学を選びとったのだ。
 日本と言えば、大戦でこれほどまでにしなくともと思われるほどに痛めつけられ、この次には勝って見せると言えないほど、意気消沈した。このトラウマが米国を見る時の無意識となり、米国には刃を向けなくとも、他国に転移して仕返ししたくてたまらなくなっている。これが現状ではないかと、疑っている。
 それらを避ける最も最初が、憲法96条を守ることである。不戦の誓いを立てた憲法は、人類の最終目標である。アメリカが作った意図は、彼らもこういう憲法を自国に造りたかったのだ。戦費の全てを、国民の福祉の為に使える国を夢想していたのだろう。戦費の不要な国家を夢見ていたのだ。
 過去数百年の間に、社会システムは理想に近づいてきた。奴隷制は廃止され、植民地政策も独立国となることで、それぞれの権利も守られた。理想的な社会を実現するために、人類は成熟し、模索し、実践するのだ。不戦の誓いを広めることを社会の目標とせずに、軍事費でなおかつ存続をめざすことは、人類の堕落ではないだろうか。

 その上で考えなければならないことは、人類は理想の社会システムを構築するだけでは成り立たないと言うことだ。個人の生活の満足を得ることなしに、理想のシステムは機能しない。スピノザの賢者論に

 「もろもろの物を利用してそれをできる限り楽しむことは賢者にふさわしい。たしかに、味の良い食物および飲料をほどよく摂ることによって、さらにまた、芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することなしに各人の利用し得るこの種の事柄によって、自らを爽快にし元気づけることは賢者にふさわしいのである」

 各人の楽しみが各人の人生にあれば、ことさら他者によって思想を植え付けられることもなく、戦争の楽しみを夢想する必要もない。
 現代社会は、うつ病患者を作り続けている。真正の欝であるならば攻撃性は起こらないが、ほとんどが仮性うつであるため、その症状を改善するため、興奮材料を模索している民衆である。先の戦いも政府・軍部だけが起こしたのではなく、国民の大多数が興奮のるつぼと化した為である。戦後、戦いはもうこりごりだと、思い続けたが、戦いを起こすために軍備を拡張するためでない、隣国に脅威を感じさせる為に軍備が必要だと言いつのっている。そして自立したいと言う。
 自立とは戦争を放棄することではない。隣国に馬鹿にされないようにしたいのだ。
(これは暴力団の論理だ。他者を怖がらせて道行く彼らが、血気盛んであっても、旧弊に堕して、白眼視されているおのれに、陶酔する余地があることに、新たな方法、戦いに陶酔しない方法を人は認識しなければならない)

(2)

 太陽の恩恵を受け続けている人類は、返礼の義務を疎ましく思い続けたと言う。

 人類は、始めて接する部族と交渉する時、何か贈り物を無人の地面に置いてくる。翌日それがなくなっていたら交渉を始め、いまだ残っているようなら交渉をしなかった。それを沈黙交易といい、贈与とその応答返礼、交易の始まりである。未開民族であろうとも、品物を受け取れば攻撃してくることはなく、コミュニケーションが取れると信頼できるのである。
 我々も、中元、歳暮と、贈与と返礼を繰り返してコミュニケーションを図る。贈与することで、相手をこちらを向かせ、そのまま放っておくと何時までも返礼しなければいけないと心が痛む。心が居着いてしまうのだ。
 「祈りのない治療は治療ではない」と総合失調症の権威である中井久夫の言葉である。これは、考えれば「祈りのない仕事は仕事でない」と言うこともできる。良くなってもらいたい、と思うことは祈りの贈与である。知らず知らずに、また、常に人は贈与する存在である。誰でもわが身に覚えがある。
 してあげる、手伝ってあげる。人は、他者や事物を「あげる」ことが出来る。下の位置から上の位置に移動することを「あげる」と言う。助けてあげる。生命の危機を救われた者は、生涯救済者に足を向けて眠れない。贈答されれば、返礼しなければならない、この義務感はどの民族にも付いて回る。

 われわれはお返しをすることに、慣れてしまっているが、お日様やお天道様と崇拝してきた太陽にはお返しすることが出来ない。いつまでも貰ったままではいけない、と権力の意志のある者には、強度の負担と感じるようだ。そのため、太陽と言う無尽蔵に贈与する存在を所有したいという願望が生まれた。それが原子力発電である。太陽その物を人類は手に入れることが出来たのだ。

 制御不可能であっても、最高権力を我がものとすることは積年の思いである。手放したくない大きな理由である。

 しかし、もんじゅで「安全文化の劣化」と指摘された通り、人類の気質的に完璧に運転を継続することは不可能である。
第一に、可能であると思いこむミスがある。自己判断が甘い。失敗はすべて直せると過信している。ミスを犯すのが人の性だと認識しない。ミスを犯しても存続するシステムをこそ構築するべきだろう。
 太陽は、お天道様・お日様と崇拝の対象とするべきで、その物を手に入れようとする奢りは、イカロスの翼を思い起こさせる。父であるダイダロスに太陽に近づかないように諭されているのに、太陽に近づきすぎたイカロスは、羽根の蝋が溶けて墜落してしまうのだ。
 小林秀雄が嫌悪し続けた、原子の爆発が太陽の原理と同じだ、と言う湯川秀樹の説明には、太陽を我がものにしたい願望が潜んでいたのだろう。我々には、ギリシャの時代から、イカロスの名を借りて、忠告があったのだ。

 太陽には近づきすぎるな!と。

25年5月20日 近藤蔵人


掲載:2013/3/2 ▲ページTopへ

◆ ちあきなおみのこと ◆

「なめらかな社会とその敵」 鈴木建 を読んで


 セレンビリティーは、科学者が仮説を立て、論理に沿って実験をする。が、いつまでも仮設通りにならない。実験は失敗の連続である。仮説が間違っていたか?実験の方法が間違っていたか?思案するが、答えが出ない。
 ある日、ふと、仮説は間違っていない、実験結果も失敗ではない、と右脳がつぶやく。調べると、失敗した実験結果から思っても見なかった細胞が出来ていた。その細胞の研究をすると新しい発見があった。これは良く聞く科学者の発見談である。
 左脳・論理で進めていくが、一歩前に出た行動の結果は思うようではなかった。だが、そこに新発見があった。新発見する右脳があった。論理よりふとしたつぶやきに世界を俯瞰する目があったということである。
 (セレンビリティーは、一歩前に出る行動の結果が、意図したものでなくても、新しい良き結果が得られると教える。)

 「なめらかな社会とその敵」を書いた鈴木建の先生は、彼の研究資金の提供の理由に「彼の言っていることは解らないところがある」と言って、資金を増額したという。たいしたものだ。
 解っていることは、既存の論理内に有り、解っているのでつまらない。解らないことに未来性があると踏んだのだと思われる。左脳が決定するのではなく先生の右脳が決定したのだろう。
 それは、小説家がプロット通りに小説を進めていっても良い物は出来上がらず、途中何が何だか分からない手に導かれて書いた物に傑作が現れ得る、ということと同じではないだろうか。良く言う誰かに書かされている状態である。右脳が左脳を使っている状態だろう。

 「なめ敵」によると、ギリシャ以前には、人類は意識を持っておらず、心は二つに分かれていたという。
 「ジュリアン・ジェインズは、およそ3000年前までは、人類は意識を持っておらず、右脳から響く「神々の声」にしたがっていた。心は基本的に2つに分かれていて、左脳は右脳の指令に従っていた。そして左脳が聞く右脳の声は、神々の言葉として受け取られていたのが、3000年前に言語の発達によって意識として統合され、神々は沈黙した」と言う。
 「左脳は右脳から響く神々の声に従っていた状態」であるという。ソクラテスのダイモンの声である。また、神は、声として存在し、形象として存在するわけではなかった。芸術家はこの右脳の働きによって、為すべき仕事が出来る。左脳は構築・統合することはできるが、神の声は聞こえない。
 農耕牧畜生活では、左脳有利に物ごとを図っていた。そのため、世界は蓄財できたが、人々は、息詰まる思いを抱いている。左脳有利となる世界を構築してしまうと、人は右脳の声を聞きたくなくなる。
 一つづつ進んで行く左脳の性格は、飛躍した意味不明の言葉に驚かされたくない。気配の察知や、殺気からの逃避や論理で説明できなものに価値を置かなかった。弥生時代から続いた数千年で、人類は右脳を抹殺してしまったかに見える。

 鈴木建は、左脳右脳が分離した状態が常態で、分かれた人、分人民主主義を唱える。そして、「世界の多様性を自らの中に取り込み、自己の多様性を世界にさらけ出す。そのループの中から、もしかしたら新しい知性が生じるかもしれない」と書く。難解だが、理解したい考えだ。

 昨年、知性は6000年前の状態がピークであったとの研究結果があった。その時代は狩猟採集時代のことである。右脳の神の声が聞こえた時代だ。狩猟採集者は分裂病親和気質と中井久夫先生は述べる。(ちなみに農耕牧畜民は、強迫神経症親和気質という)。分裂病とは左脳・右脳とこころが分かれている状態だろう。
 中井先生は、30年前に、分裂病の研究結果から、「分裂病と人類」という名著を書きあげられた。狩猟採集者気質の今日的意義を書いている本である。意識は分裂していて当然であって、統合することに間違いがあるという、鈴木建の言う分心の考えには大いに納得するものがある。
 意識の統合は、農耕牧畜者が「責任の所在」として植え付けたという。率直に考えてみても、自分の考えも、行動も、想像も、感覚もその場によって変化し、相手によって変化する。読書すれば、影響され、風が吹けば流される。そのままでよければ多様性は担保される。


 先日、コーヒーショップに入った。表には「会議も、打ち合わせも遠慮願います」と張り紙がある。3テーブルの内2テーブルに予約とあり、一席空いているので座ろうとする。店の若い主人が出てきて「今日は予約でいっぱいです」と断られた。人嫌いでも喫茶店が出来るのである。人嫌いであるから喫茶店という商売が出来るのである。素敵な人だけ来てもらえればいいのだから。
 一時、なんだかなーと思ったが、そういえば僕も人嫌いで人好きなので、抑圧しないで大いに人嫌いを通せばいいんだ、と納得する。

 狩猟採集気質は、気配を察し、全体像を直観し、透視力を持ち、類推力があり、同定する能力に優れていると、民族学の岩田慶治は述べる。しかし、大人数の共同生活が苦手で、人的ストレスに弱いのだ。悲しい定めである。そのため、狩猟採集者は、弥生時代から漂泊者として漂うことになった。右脳有利の漂泊者は、その性格から神の声を聞くシャーマンとなり、巫女となった。芸能者の出自は、彼らから変遷していった。


 昼ごはんを食べながら、今日は歌曲を聞こうと、色々なCDを取出した。ちあきなおみにしよう。CDをかけ塩サバなど口に運ぶ。何曲かの後、「祭りの花を買う」という歌が流れてきた。ゆっくり聞き込む。
 この歌は、何のことはない、タイトル通り花を買うと歌っている。何度も聞いた曲だ。だが、歌に引き込まれ、涙あふれる。彼女の心に残る数曲には、良くある現象だが、この歌は、ただ花を買うだけの歌である。
 彼女の魂全体が乗り移った声、だが、静かに歌っている。大きな声で歌うわけではない、どちらかというと小さい方だ。場面に応じて声が変化する。しみ入る。

 この歌に、どうしてこれほどの情念をつぎ込み、全身全霊で歌えるのだろう。そして、ちあきなおみはどの歌にも「さよなら」と言う感じがある。日本の歌謡曲の中では、図抜けた表現力の彼女である。
 夫のお葬式の棺桶に抱きついて、私も連れて行ってと泣き叫んだそうである。「喝采」は、別れた彼のお葬式の歌、実際の話だと言われている。もう十数年表に出ていない彼女は、復帰を期待する声と、アルバムのセールスが依然好調だそうだ。
 「右脳」で歌唱するちあきなおみは、「わたしは、どの曲もこれが最後のつもりで歌っている」と言ったそうだ。今生の別れと歌う歌なのだ。こころにしみ入らないわけがない。そんな彼女をバラエティー番組に誰が出したのか?

 「赤とんぼ」では、今日で店開きの居酒屋のおかみとなり、常連客との別れの哀切を歌い、「ラ・ボエーム」では、かつての若き思い出である、絵かきとの生活を慕情たっぷりに歌い切る。
 「ねえ、あんた」は、少し足りない娼婦とひもとの、非情に泣き、「アコーディオンひき」では、死んだアコーディオンひきと同じような演奏をする新しいアコーディオンひきに、「もうやめて!引かないで!」と叫んで終わり。
 「黄昏のビギン」は、水原宏の難曲を情感を込めて歌った。「朝日の当たる家」では、狂ったように歌い出し、妹に、私のような娼婦にならないでと歎き終わる。

 自分の持ち歌、演歌、シャンソン、ファド、ジャズ、そしてさまざまな歌手のカバー曲、簡単には、選曲出来なかっただろう。何回も歌ってみて、自分の声が出る歌を選んだだろう。そのどれもが、聞き込めるのだ。聞き込める密度を持っているのだ。ちあきなおみの魂だけが聞く者の胸に浮遊してくる。神の声を持つ右脳の働きは、このように表現者の気質によって、現れる。
 中井久夫は、分裂病と人類の中に、
「狩猟採集気質、または右脳優先者の人達が、生きにくいこの世に存在するのは、人類にとって必要なのである。人類とその美質の存続のためにも社会が受諾しなければならない税のごときものである。隠れて生きることを最善とする彼らは、非常時にはにわかに精神的に励磁されたごとく社会の前面に出て、個人的利害を超越して社会をになう気概を示すことが、度々発見される。そして、右脳優先者が人類に必要であるのは、人類にとって希望であるからだ」という。

25年2月28日 近藤蔵人

ちあきなおみ・(YouTube)♪

祭りの花を買いに行く
喝采
赤とんぼ
それぞれのテーブル〜ラ・ボエーム
ねえ、あんた
アコーディオンひき
黄昏のビギン
朝日の当たる家


掲載:2013/2/22 ▲ページTopへ

● 無事にと願うこと ●

 子供や孫のことを考えると、生き生きと、楽しく、しあわせな人生を送ってもらいたいが、それは、無事に成長してもらいたいということの後に思うことだろう。
 無事とは、変わったことがないこと、平穏、平安、また、無病、過失がないこととある。
 当然人生は、むやみやたらと、変な事件が起こり、驚き、失望し、失敗を重ねる。そうであっても仕方がないが、親心としては、悩みもなく、苦しむこともなく、無事にいてもらいたいと思う。そのためには、有名商社に入社しなくても、有名大学に入るより、そんなことより、頭を悩ませないで無事、過失なく、平安でいてもらいたい。
(日本は現状を過剰に死守しようとするというシステム異常に陥っている。警察や検察が、そのために偽証を進める事件があったが、最高学府に行ってもこれまでだ、と思った。子供たちが、そういう社会の中で成長することが良いことだ、とはとても言えない。この中で大学までやることは、彼らの心性に、ある偏りを植え付けることになるだろう。保育園から彼らに、緊縛衣を着せ始め、大学生になっても、そもそも自由という概念が理解できなくなっている。へき地や離島や海外の留学制度に、孫たちを預けたいとさえ思う。)

 だから、なおのこと、上など目指さず、ただ無事でいてもらいたい。ことほど無事とは、親が子に対してのこころ持ちようであるが、自分自身から、無事を考えることは少ない。無事には温度差があるからだろう。本人が無事に人生を送りたいと考えることは少ない。時には、何か、あっということが起こってもらいたいと考えることもある。無事な人生なんてつまらないというかもしれない。それが、還暦も過ぎると、自分の人生色々な事があったが、なんとか無事にやってきたなーとしみじみとするようになる。無事がよくなるのである。

 そうして、最後まで無事に過ごしたいと消極的気分になる。それは、ガンや心臓病や病気にならないで欲しいと願望するからだろう。現実は、最後までむやみやたらな事が起こる。健康だけ願っていても、マヒが起こったらどうするのだろう?マヒもガンも当たる人には仕様がないことなのだから、それも含めて、無事という言葉であってほしい。いまだ、生存しているということがあるのだから。
 無事であれば、世界の美しさを味わうことはできる。山並に沈む黄金の太陽の光が、だいだい、赤、紫、紺と変化し、雲が吹く風によって流れとどまることなく太陽の色の変化を反映する。世界には美しい瞬間がある。

 それでも、止まないことは、死することである。全てに死は訪れるが、全てにガンやマヒは訪れない。その他は偶然だが、死は必然だ。
 それなら、「無事に死にそうだ」と考える人もあるだろう。「無事に死ねそうだ」と思うこともあるだろう。ただただ、「いやだ!」と思うわけにはいかない。
 その時になれば、来るのか、去るのか、解らないだろうが、「嫌だ、俺は生きたい!」と思っても仕様がないし、「もう、終わりだな」と思っても、生還するかもしれない。
 眠りと同じように意識は薄れて行くという。大きな痛みが伴うかも知れない。成し遂げたいこともあるかも知れない。子供や家族と別れがたいだろう。それでも、いざという時がやって来る。しかし、その時、と理解できるだろうか?
 映画のように首の力が抜けてガクっと頭が落ちるものでもないだろう。すると、今生の別れを演出することは、かなわないかもしれない。毎日の睡眠に特別な意識を持たないと同じように、その時は訪れることがあるだろう。

 友人が、あと半年の命と覚悟した。覚悟すると、無性にソースを作りたくなったという。玉ねぎを刻み、ニンニクやショウガをみじん切りにし、それを特別なフライパンで炒め、味見しかできない自分の体に、無理にうまいまずいを判断させ、それでも、ほぼ一カ月作り続けた。すると、放射能で焼けただれ再生しないと言われた細胞がよみがえり、拡張し癒着した。
 回復すると、ソース作りも乗り気がせず、緊張にほどけた精神が、疲れから立ち直るため、ウツのように休憩を求めた。良き生に良き死が宿ると言われるが、死そのものを考えても埒があかない。
 怖さも、恐ろしさも、そのことを考えると息が詰まるが、死は誰にも解明できない謎である。友人は、そのときまで、自分のためでなく家族のためだけにソースを作るという良き生を保ち続ける行為によって、細胞を活性化させた。
 死を思いわずらわず、生きることにかけられた精神が、放射能に焼けただれた細胞に本来の働きの記憶装置を活性化させたのだろう。だから友人は、無事に旅立てなかった。いまだ、その時期でなかったのだろう。

 それでも、その時期は誰にでも訪れる。その時には、無事に行きたいものである。さまざまな私の思い出を連れて、出来れば思い出しながら行きたいものであるが、それより大切な事は、そのことは忘れて今を充足して生きることであるようだ。死は最後の恩寵だと言うけれど、それも解らないではない、やっとお迎えが来てくれると思うことがあるのだろう。だが、すこし違う。無事にとは、もうすこし積極性があるように思う。無事に死にたいとは、良い生であった、しからば、次のステップに進む時期ではないかと。

 我々が成したことのほとんどは、暇つぶし事であった。良き生と暇つぶしは、相反しない。人にとって、暇つぶしごとを持っていることは、人生の重要事項である。仕事も趣味も研究も、時間を埋めてくれる。そして、それ以上のものではない。
(暇つぶしごとの為に地球を消費することは、地球には許されるだろうか?その暇つぶしごとが、地球にある全存在、または、地球にある全生命体にまたがるコミュニケーションであれば、地球にも認められるかもしれない)

 今西錦司は人類が狩猟採集民の時代、全生命は共生していたという。人類のしあわせを、宗教者は考えつくしたが、今西錦司は全生命体に考えが及んでいた。我々の暇つぶしには、地球が遡上されることはないように思うが、我々庶民には、隣近所との共生と、家族内での思いやりぐらいしか、成すことはできない。
 異常な両親に育てられた異常な子供たちの物語が氾濫している現在、家庭内でさえ、居心地のいい場所ではなくなった。そこで、力を振り絞って、共生する努力をしなければならないのだろう。

25年2月21日 近藤蔵人


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■ 成人の思想 ■

 小津安二郎の映画は、観客に向かって台詞をしゃべる。

 父と子が会話をしている時、父が子に話す場面では真正面からカメラが撮り、子が話す時も、正面からカメラで撮る。カメラが我々観客の位置にある。これは、観客を、話者の言葉を聞く者と監督が設定しているからである。他人に向かってしゃべっているなら、聞き逃すこともあるが、自分に向かって話しているなら、襟を正して聞くというものだ。

 白黒の映画、長屋紳士録、父ありき、一人息子、晩春、風の中のめんどり、東京物語、麦秋は、その映像のテーマとなる言説を、主役や登場人物が正面の観客に向かって語り始める。



 例えば晩春の
「そうじゃあないよ、今お父さんと一緒で幸せかもしれないけれど、お父さんもいつまでも生きているわけではない。
結婚して、初めは幸せではないかもしれない。初めから幸せと思う方が間違っている。
幸せは二人で作っていくんだよ。
初めは苦しいかもしれない、お母さんも台所で泣いていたのは、お父さんも知っておる。お前たち二人で、幸せは作っていくんだよ。それに、おまえなら幸せになれるよ。わかったね?わかっただろ?
そうだよ。それでいいんだよ。」と、僕たちに結婚の意味を語る。
 娘は、「わかりました。おとうさんはどうするのですか?あの方と結婚するのですか?」と父親に問う。父はうなずく。本当にするんですね?となお問いただすと、また、うなずく。
 娘は、父親の再婚を汚らしいと思うが、自分が離れても父親の面倒を見る人がいるのならと、誰とも知れない者との結婚を承諾する。
 結婚式の後、娘の友達と語らう父親、
 「お父さんは再婚するのですか?」と問われて、父親首を横に振る、「え!しないのですか?」とただすと、「一世一代のうそをついたよ。」と父、顔赤らめて言う。
「そうでも言わないと娘は結婚しないだろうから」
感心する娘の友達は、「さびしくなるわねー」
父親、「いやーなれるよ。なれるさ。君も遊びに来ておくれよ」と乞う。



 風の中のめんどりでは、
 「おくさんが、君が戦地から帰らないので、子供の病気の入院の費用を、一夜の身売りでこさえたからって、文句は言えないよ。
 そりゃ、君の気持はよくわかるよ、だけど、感情は意思の力で抑えないといけないんのだよ。
 君もつらいだろうけれど、おくさんだって苦しんでいるよ。わかるだろ。」と、観客におとなの作法を伝える。
 それが決して聞きづらいものでなく、素直に聞けるのはそれまでの映画作りに、リアリティーと、様式の美しさと、映像から現れる他者へのいつくしみと、つねに観客に向かって語り続けているからだろう。
 溝口健二の初期の映像にも社会性の強いものがあるが、それは観念が先に立って見ずらいものがある。

 小津安二郎は、幸せの方程式を生涯追求した人である。映画ごとに、成熟しておとなになって、幸せになって欲しいと繰り返す。その表現方法として、観客に正面向いて話しかけるのである。



 東京物語では、尾道の母親の葬儀の日に、形見にあれも欲しい、これも欲しいと言う東京から来た長女を、
「いやよ!あの席であんなこと言うなんて」と憤慨する末っ子に
「長い間離れて生活すると、仕様がないのよ、あちらの生活が本当で、そういう考えになってしまうものよ」と、戦死した次男の嫁の紀子が言う。
「お姉さんもそうなの?」と問うと「そうよ、そうなるのよ」
8年間亡き夫の写真と共に暮らしてきた紀子が答える。
「そんなの嫌よ、わたしは絶対そういうふうにはならない!」と末っ子の憤慨おさまらない。
 紀子に義父は
「結婚してもいいんだよ、その方がおとうさんも安心だ。そして幸せになっておくれ。
おかあさんが誉めていたよ、東京に行ってもあんたが一番良くしてくれた、感謝してるよ。おかあさんのかわりに、ありがとうと言うよ、ありがとう。」と言う父に、
「わたしは、正二さんのことを一日中思っていられなくなりました。
そんなに偉くありません。ともすれば、一人がさみしくてしようがないことがあります。」と泣き崩れる。
「いいや、偉いよ、それにそんなに正直なのだから。しょうがないんだよ」と、母親の時計を形見分けに渡す。
 幸せ、幸せと今では空虚な言葉になってしまった感があるが、大衆の幸せをこれほど祈った監督は、いまだ見ることはない。
 小津の映画を見て、映画を志したものが多いと聞く。
 映像の性格上西洋では認められないと海外に出品することの少なかった小津の作品は、予期に反して、海外から日本の監督の評価の上位をしめている。おとなへの移行と成熟をうながす小津の文法が、世界で通用したということだ。



 長屋紳士録では、隣の絵かきがひろってきた子供を、「一晩とめてやっておくれよ」と、無理やり預けられた独り暮らしのかあやん「世の中世知辛くなったよ、自分の子供も捨てるんだから、昔はそうじゃ無かったよ」と、終戦後の社会状態を言う。
 寝小便をする子どもと暮らして、服などを買ってやることとなる。数日後、子供の父親が訪ねてきた。
 「色々探して、前の住まいでここで預かってもらっていることを聞いてきました。有難うございます。九段ではぐれて今日までほうぼう探しました」
 いもの土産を「こんなものですけれど」と、子供の頭をなでながら見つけた喜びがあふれている。
 かあやんは「ぼうや、よかったねー。おとっつゃんが見つかって」と、二人を見送る。
 見ていた長屋の者たち、「かあやん、よかったね、せいせいしただろ」
 かあやん、突っ伏して泣いている。
「おいおい、どうした、あんなに嫌がっていたじゃないか、それとも、情がうつったかい?」
 かあやん
「そうじゃないんだよ、よかったんだよ。感じのよい父親なんだよ、お土産なんか持ってきてさ、探し回ったんだと。
ぼうやが幸せになると思うと、泣けるんだよ、うれしくってさ。」
「世の中が世知辛くなったんじゃあないよ、わたしらが昔のようじゃあなくなってしまったんだよ。変わってしまったんだよ。戦前はもっと良かったよ。もっと気が効いていたよ」と正面を向いて話す。



 父ありきでは、
 父、息子二人暮らしだったせがれは、帝大を卒業して、青森の高校の教師をしている。
 父親は東京で、教師を止めてサラリーマン勤めである。
「おとうさん。青森から東京に移って、おとうさんといっしょに住みたいんです。いつもそのことばかり考えていたんですが、どうでしょう?」と父に聞く。
「それはだめだよ、やっと教師の職を得て、子供たちの将来をお前に託しているのだから、責任は重いよ。子供たちの両親もお前に子供を預けているんだ。立派な仕事じゃあないか、それを、止めるのはいかんよ、おとうさんは志半ばで止めてしまったが、どうかお前は続けておくれ。」と、観客に向かって、教師の志の高さを説明する。
 父親と二人で暮らしたい最後の世代だろう。父親との温泉旅行がなによりも幸せそうである。



 一人息子では、
 長野の寒村で、成績の良い子の寡婦。お前は偉くなるんだと、田畑、住まいを手放してこどもを大学にやる。大学を卒業して務めが決まり一年程経った頃、母親は子供に会いに行く。
「よく来てくれましたねー。疲れたでしょう」
「びっくりしちゃあいけませんよ」と言って。嫁を紹介する。その横には、すやすやと赤ん坊が眠っている。
 せがれは、もっと落ち着いて何でもやってあげられるようになって、母親を呼びたかった。日ごとの生活費も欠かすありさまでは母親に来てもらいたくなかった。夜間学校の同僚の先生に借金し、妻の着物を売って、母親と東京見物した。
そして、
「おかあさん、僕は東京に来たくはなかったんです。田舎にいたかったんです。東京では、人が多すぎて、偉くなる余地はありません。こんな姿を見せたくはなかったのですが、仕様がないんです。」
 母親の期待の大きさを案じて、言ってしまう。
「おかあさんは、今は土地もなく家も売ってしまった。会社の寮住まいだ。それもみんなお前に偉くなってもらいたいからだ。だから、そんなことを言わないでおくれ、まだまだえらくなれるよ、大丈夫だよ」と涙ぐむ。
 隣家の子供が、大けがをして入院する。そこも子一人母一人の家。
 せがれは、その子を病院に連れて行き、最後のなけなしのお札を「これで」とわたす。それを見ていた母親は、
「良いものを見せてもらったよ。これで安心して帰れるよ」とせがれに言う。
 せがれは、初めから最後まで笑顔を絶やさない。
 嫁は、「おかあさん、わたしを気にいってもらえたでしょうか?」と気に病む。貧乏だけれど、決して悲観しているわけではない。母親に精いっぱいのことをしたくて、苦しんだのである。



 小津の映画に出てくる子供たちは、総じて生意気、わんぱく、減らず口、怒りんぼである、それをいさめようとして怒鳴る父親は、ダメだよ、怒ったら可哀そうだよと、反対にいさめられる。
「子どもはあのくらい元気が良いよ」と誰もが口にする。
麦秋の二人の子供たちも、言うことを聞かない。
「だめね、いさむちゃんは!」と、お母さんは言うだけでそれ以上追及しない。
子供二人が家出から帰ってきても、叱責している節がない。
子供に、大人になりなさい、と言うことがない。それでいいのであろう。
 今では、子供の社会性を植え付けないといけない、とか、しつけを厳しくするとか、親が子供に、早く大人になりなさいと、強要する。子供の時は、子供でいいのである。時がたてば、成熟しなければならない。
 教育にしても、才能があればおのずから芽が出るだろう。それから援助すればいい。かえって才能などない方が平和に暮らせるということもある。やらなくっちゃあ生きていけない程になってでいいかもしれない。いやいやピアノの前に座らせることはない。



 麦秋では、主人公が親の進める相手ではない子持ちの男と結婚することになる。両親兄弟こぞって、可哀そうだと思いやる。
「結婚というのは普通の人たちが、別に「赤い糸」で結ばれていなくても、卓越した人間的資質がなくても、生涯変わらぬ激しい愛情なんかなくても、そこそこ幸せに過ごせるようなシステムとして設計されている。」
「だれと結婚したってそこそこ幸せになれる能力」が必要だと小津に影響された内田樹は述べる。
「あらゆる結婚は失敗だったと思う時があるものだ」
しかし「結婚が必要とするのは、相手と共生する力である。
よく理解もできないし、共感も出来ない相手と、それにもかかわらず生活を共にし、支えあい、慰めあうことができる。その能力は人間が共同体を営んでゆく時の基礎的な能力に通じている」
「このもっとも大切な能力を開発するうえで、結婚というのはきわめてすぐれた制度である」と言う。
 あらゆる人間のあらゆる行動は、
「主観的には首尾一貫したロジック」によって貫かれている。
 配偶者のうちなるこの「ロジック」をおのれの全知全能を尽くして見いだそうという努力が結婚生活において最優先の仕事である」
「この能力の開発は、結婚生活を支援するにとどまらず、一見するとランダムに生起する事象の背後に反復する定常的な「パターン」の発見という、知性のもっとも始源的な形式であるということを知らせる」
内田せんせい、冴えわたっている。

 相手が常々起こす嫌な行動には、必ず相手の考えが潜んでいる。それを発見し認めることが、夫婦の和合に結びつくと言っている。それを目いっぱい考えろと教える。
 小津安二郎のファンである内田せんせいの結婚語録である。内田先生、神について
「人間が人間に対して犯した罪は人間によってしか贖うことはできない。それは神の仕事ではなく、人間のはたすべき仕事である。
「私たちだけの力ではこの世界を公正で慈愛に満ちたものにすることはできません。神さま、なんとかしてください。」

 このように泣訴する幼児的な人間を神がわざわざ創造することがありえようか。
神がその名にふさわしい威徳と全能を備えたものであるならば、神は必ずや神の支援抜きでこの地上に正義と、慈愛の世界を作りだすことのできる人間を創造されたはずである。
だから、成人の信仰は、神が世界を負託できるものたることを自らの責務として引き受ける人間の出現によって証されるのである。」

 内田先生が引用したユダヤ人のレヴイナスのこの考えによって、ナチの迫害でユダヤ教から離教する者が、もう一度ユダヤ教の教えにもどされた。
世界を良くするためには何をなすべきなのか、
「神はわたしたちを見捨てたのではない。むしろ神は私たちを信じたのだ」
神に頼るのではなく、自分たち人間が、成人として成し遂げなければならない。
その為には、小津が映像に残したように大人となり、成人として成熟しなければならない。



 かつて我が国では法然、親鸞、日蓮、道元が成人の信仰を取り戻そうとした。大衆に対して、神抜きで正義と、慈愛の世界を取り戻そうと考えつくした。法然、親鸞は南無阿弥陀仏の名号を、日蓮は南無妙法蓮華経と題目を唱えることで、他力によって救われると説き、道元は、只管打座によって、修行の場に答えがあると説いた。
 神なくして、この世界を住みやすくする役目は、我々自身に掛っている。

23年12月22日 近藤蔵人


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■ 海と絵 ■


 絵を描くと言うことは、対象を見つめることである。
 見える範囲のどんな些細なことでも見落とさない。
 些細なこととは、明暗の差と、ライン・物の境界線のことである。
 白紙の画面に向かって、物の輪郭を薄く間違いながらでも描いていく。
 間違った線は、後で消せばよいのである。(実際には、グリッドをひいて描いていく)
 この辺の作業は、シューマンでも聞きながら、大まかに勢いだけで描いている。
 輪郭線を、間違って決めてしまうと、あと後まで響くので、書きなおしをしながら決めていく。(シューマンは、本当に日本人的だと思う)
 これを描きたいと思い定めている対象を、写真から現像し、その対象を眺めて、暗いところ、明るいところと対象の物の識別より、明暗のみの、識別を、2B,3Bで薄く斜線で塗り分けていく。
 次に4B,5Bと徐々に濃くしていく、この段階で、すこしずつ、物の形態の把握に努めていく。一番明るい処と、くらい処を決めて、その間の明暗に沿って描く。
 画面に描かれるのは、広い海に出っ張る岩だけで出来た小島と、其れに打ち寄せる波と白波などである。
 僕は、陸から突き出た高い岩山から、見降ろしている。
 見降ろしている僕の存在がわかれば、よしとする。
 ここから見ているのだなと、感じて欲しいのである。



 ここは佐渡の北にある、瀬波温泉から北北西の位置にある粟島。住民は400人程で、自転車で一周出来るだけの小さな島である。今は日本中が都会になっており、すべて、自分の思う通りになることを、良しとしている。しかし、孤島では、海の影響を考えないと生活できない。自然に沿って生活するその状態を田舎という。田舎というのは孤島にしか存在しない理由である。
 ここでは、元寇と戦った松浦水軍、摂津で活躍した渡辺党の一族と、新潟本土からきた本保家などが漁師と、民宿を兼ねて営業している。ほとんどすべての人々が、狩猟採集に従事しており、隼人の民、海人族から、平家、源氏の力の下で、水運・武士を兼ねて使用された歴史に登場する人たちであり、海人族の末裔を感じさせる。
 本土の日本人は、縄文も弥生も混血されて、それでも縄文顔には、時々お目にかかるが、粟島では、混血が少なく、縄文顔が多く見える。西洋人風で、明治に発行された「越後風俗史」には、男子は体格偉大強健にて容貌和順、女子は眉目清秀多しとある。
 この島の南西にある釜谷。ここで舟休みし、夕飯でも食べたかのような名称の村が、往きつけの村である。高台には、塩釜六所神社がある。

 定宿のお神は、え!と言うほどの身目麗しき乙女であったが、年月がたつのは定めであるが、その兄が僕と同い年で、誇張しなくても鬼顔で、釣り師である。
「おら、いやだ!」と言ったら、梃子でも動かず、子供が居たら、飛んで行って、かまって遊んでいる。
 彼のファンと、雉バトの声を持つお神のファンでこの宿はなりたっており、彼の如く、おらいやだの世界に浸りたくて、釣りに来るのである。まさに、中井久夫氏述べるところの、狩猟採集民の世界である。
 鬼顔の彼が、釣り道具は、リール、竿、道糸(リールに巻く糸)、ハリス(針をつける糸)、その間の重りだけで、簡素極まりなく、飾りっけなく、最もシンプルで、後に、古代釣りと命名するその釣り方を教わった師匠である。その宿のお神の通い婚の主が、本来の釣りの師匠である。
 彼いわく「鯛は一匹づつ個性がある」。「針に付いた餌がっちょ(ヤドカリ)を、大鯛がくわえている、こちらはそれを引っ張っていて、手元に感じるんだ」と、鯛との格闘の瞬間を述べる。
 「夕闇に隠れるまでの2、3時間が勝負だ」



 釣り時間になると、在郷者の僕らの姿など顧みず、猪の様に釣り場に向かう。まるで、何日も魚釣りをしない釣師の様に、切羽詰まって急いでいる。頭の中は狙う大鯛だけだ。釣りを同行させていただいて、無様にも竿先が折れて釣りにならない時、師匠の釣っている後方で眺めていると、竿をゆっくりと上げ下げしている。餌のがっちょは、底付近で鯛の来るのを、じっと待たしている方法の釣りが本道だと思っていた(がっちょは飛び上がることはない)自分が、惨めになった。鯛は、動いている餌に、好奇心でよって来る。当たり前のことである。

 魚は、流れのある下流から、流れに逆らって登って移動する。餌は上流から流れてくるからだ。その時、匂いと、音と、視線によって餌と認定する。動かす方法さえマスターすれば、格段に魚が見つける確率が上がる。
 焦って餌を食う魚は、竿先が水中へ曲がる程、食って移動する。これは誰でも釣れる。しかし、学習しているからか、慎重な魚の方が多いのだ。小魚でさえ、えさの先を食っては反転することを繰り返すから、針に掛らない。
 竿先が、10センチ、20センチと軽く沈んでも、すぐに起き上がるような当たりが続くと、小魚と思って間違いない。竿先にコンコンと小さな当たりに、小魚と、大物のあたりが隠れている。
 重りの負荷で、竿先は、すこし海側に曲がっている。それが常態である。その竿先に1センチ程の変化がコンコンという当たりだ。竿とリールを握っている手元に伝わってくる。そのあたりで合わせても、魚の口に針がかかることは稀だ。魚が、重りの下5センチ程のところにある針のついた餌を、前歯で食い直後、横に首を振り餌をはなす。または、餌の針以外のところを食っている、その状態がコンコンだ。すぐ離すので針に掛りづらい。しかし、2度目か3度目のコンコンで、竿を大きく素早く起こして(それを合わせるというのだが)ためさなければならない。

 食いの立っている日は、潮流の変化、水温、風向き、波頭の大きさ・荒さ、などで、刻々と変化する。潮目が流れていない時は、流れに乗って餌を探す習性の魚は、食い気が少なくなる。恒温動物でない魚の体温の変化も大切な要素だ。水温が上がると魚の体温が上がり、熱中症となり。水温が下がると、魚の血液の循環が悪くなり、どちらも食餌しない。それらのととのった良い日が、大漁が期待できる魚の食餌する日だ。そんな日に何回あたっただろうか?年数回の釣行では、めぐり合うことの方が難しい。
 これらの変化の中、磯のある地点に魚が回遊、寄って来る場所がある。魚の道があるのだ。

 まき餌を使わない僕の釣りでは、魚が食餌に来る場所の暗記(ポイントという)が、最も大切なことである。5時間寄ってこなくても、夕闇が迫ってきたころ合いには、来る確立が上がる。その時間を目安に、絶えず竿の先に緊張感を持続する。精神が切れたら、大物は釣れない。



 先程の、コンコンで釣れない時には、その日は違う食べ方を魚がしているということだ。
 食いのいい時には、コンコンのあと、大きく竿がしなって、海中まで竿が折れんがばかりにまがる。大きく合わせた竿に引っ張られて魚がこちらを向く。大物ならすぐに反転して、沖に向かって一直線に走りだす。鯛は短距離走者の鯛が多く、大きければ走ったまま、こちらも向かずに一直線だ。リールは鳴き続け、竿はのされて立てられず、挙句に、糸が切れて、竿の力がなくなる。1mもある真鯛だ。竿の号数を大きくし、糸を太くすれば持ちこたえられるが、それでは、興味がわかない。
 細竿で、竿に会った細糸で釣ることこそ、魚に、敬意を表することなのである。出来るだけ魚と対等でありたいのだ。その危うい瞬間が愉悦のもとなのだ。さあ、今日は食い気のない日である。

 日中小魚が、うるさく餌にからみつく。釣っては逃がす。それらは、外道と言って、狙っている魚でなく、持って帰りたくない、ふぐ、べら、スズメダイ、コッパグレ、などである。魚が、餌を食べている音は、大切な大物を寄せる儀式である。
小魚に食べさせると、そのグチャ、グチャいう音が、まわりに反響し大物が寄って来る。水の中の音は、大気より伝達力があるためだ。
 太陽が水平線を真っ赤に染め、徐々に黄金色に変化して、海にとろけ込むようになる。まわりが薄暗くなると。小魚の当たりがなくなり、餌が針についたまま上がって来る。しめた、待ちに待った瞬間が来る。大物が寄ってきたので、小魚は恐ろしくて退散したのだ。より強く集中する。竿を立てて、餌の有無を確認する。餌はある。

 竿をゆっくりと上下している。
 う! 竿を上げると、根がかりの様に竿の先が沈んでいる。
 ふっと竿先持ち上がる。
 手元のリールと竿を持っている部分がゴリと言う。重りの振動音である。
 大物が針にさわって、上下に餌を動かさず、重りだけ動かした、その音だ。竿をゆっくり10センチ程上げる。
 また、食っている。竿先が上がらない。曲がったままだ。
 のせ!のせ!とこころで叫ぶ。
 竿先がくわえた餌を離した反動でふっと上がる。餌を離した。
 大物が、居ついてホバリングしたような状態で、餌をくわえたり、離したりしている。
 その餌と僕の手は、繋がっている。鯛が居る。その鯛と僕は繋がっている。
 水中の底に間違いなく鯛が、僕の餌に食らいついている。
 前歯でくわえている。前歯に合わせて鯛を釣っても、途中で離れる確率は高い。
 歯の中まで針はのめり込まない。何としてでも身に掛けなければ。
 鯛が反転してくれさえすれば、口の脇に針がかかる。
 のせ!というのは、走っていけ!と念じているのだ。
 そうすると、鯛の体に針は掛かり、僕の竿は満月に曲がり、リールは悲鳴をあげる。
 りーーーーと。



 三回目の、くわえだ。竿先が曲がったままだ。
 えいや!と合わせる。かかった。
 こちらを向いて頭を振っている。鯛だけは、こちらを向くと、針を外したいのだろう、首を右に左に、振り続ける。ゴン。ゴンと竿が揺れる。
 あれ!軽い!。こんなはずはない。大鯛のはずだ。
 首は振っているが、竿につれて上がって来る。
 小さい。あれ、小さい。

 帰って、大物の当たりなのに掛ったのは小物ってことある?と師匠に聞くが、そんなことはないと即座に答えられた。
さすれば、あの当たりはなんだったのだろう?

 奥が深い。ふーむ。

 それらの生き物たちが住む海の深みも表わさなければならない。小島と、僕が立っている岩は明るい、海は深緑で岩に比べて暗い。その差を鉛筆で描いていく作業が、何日も続く。こちらは鉛筆書きなので、ひと動きに一本の線しか引けない。その積み重なりで、面を暗くする。

 マーラーの5番をかける。音が鳴っていても時々しか音楽を聞いていない。ぐっと来るフレーズに声を合わせてうなる。画面に集中する。
 小島は、奥の大きな小島と、手前の小さな島とあり、その間を、水路となって水が行き来している。風は東から西に、画面では左から右に吹いている。そのため、磯の左側は波立ち、右側は鏡のように平らな所がある。水路から小さな波が立っているが、周りは濃い。
 小島の向うには、広い海が水平線まで続いている。間に潮目が何本かある。手前には、僕が立って見ている岩棚、そして、小島までの海。この島と岩棚の間に有る海を、今あるその海の様に描きたい。
 この認識は、前景としては現れてこない。ただ、右手と鉛筆だけが動き続けている。
 目は画面に集中し、空間は、音に満たされ、見たまま、それだけを、もう、何も考えることなく、手だけが動き続ける。誰が描いているのか解らない状態である。深さを表す暗いみどり、そこにうねりが入っている。
 うねりの上には、小波が立つ、その小波の上に、左から吹く風にあおられて、海の表面だけ風に影響された薄い被膜部分の波。スーと左から表面が揺れる。それらの動き続ける海、まるで生きているように生動する海。



 自然はなんと饒舌なんだろう。一か所、一か所に生動の意味がある。
 その海の中に、微生物からプランクトン、小魚、岩に付くサザエ、アワビ、貝、カニ、海藻、そして海牛、ひとで、うに、透き通った海ではそれらが波間にゆられて、こちらを見ている。見るつもりになれば、自然の息吹きが聞こえてくる。それらのすべてを描写したい。



 描写とは言祝ぐことかもしれない。
 あなたは、美しい。美しいあなたをそのまま表したい。
 早春賦の、賦とは、事物を羅列して言祝ぐことだったという。
 山があり、木々があり、花が咲く。
 花は、純白あり、深紅にそまるものもある。
 白い昼の月が輝き、透き通る青い空がある。というように、羅列する。
 言わば、写生である。
 写生の本義は、つまるところ、自然の賛美であるのだ。
 あなたはこんなにも美しい。
 あなたを歌わないではいられない。
 それが、生の意味となり、生の充足となる。
23年12月17日 近藤蔵人


掲載日:2011/11/20 ▲ページTopへ

■ 東京プレリュード ■

チェロ奏者・ピーター・ウィスペルウェイの録音現場に同席して

 バッハの無伴奏チェロは、シュタルケル、ロストロポービッチの時代に聞き込んだ覚えがある。どちらが精神性が深いかが判断基準であった。二十歳代の僕に解る訳はなく、ロストロポービッチは知り合いに進呈し、シュタルケルの弦のバチバチ響く音に、圧倒されながら聞いた。ちっちゃなタンノイのスピーカーの時代である。その後、ビルスマ、日本人のチェリストを購入したが、当時ほど、聞き込んでいない。
 昨年、ベルイマンの遺作「サラバンド」を見て、ベルイマンが、彼らの自己執着と見過ごすことの出来ぬ我執の関係までを包摂しようとする姿勢と、老教授の孫が引く「サラバンド」(何番のサラバンドかも失念してしまったが)によって、救いが現れるそのサラバンドの美しさに、もう一度無伴奏を聞いてみたくなったが、いまだ、そのままであった。

 思わぬいきさつあって東京、ロシア大使館そばのサウンドシティー(録音スタジオ)にて、オランダのチェリスト「ピーター・ウィスペルウェイ」の録音現場に立ち会うこととなった。録音ホールで器具の調整やら、持ち込んできたヒッコリーの板の置き場所をセッティングし、夕刻ドボルザークのチェロ協奏曲の演奏会を済ませ、バッハの無伴奏の録音の為やって来るのを待っている。
 演奏会後食事もせず、急路飛んできた印象である。9時前に到着。
 10人程いた現場の人々を一瞥して、録音エンジニアが、この場所がバイオリンでは響きがいい場所である旨聞くと、すぐさま赤や黄色のステッカーが目立つ白いチェロケースを開け、古色蒼然の楽器が手に取られ、中腰になりながら音を出し始めた。
 この場所、あの場所と、数か所チェロ下部から引き出した、先のとがった脚を、床のフローリングに突き刺しながら、どの場所が最も響きがいいか、聴き比べをする。
 そのうち、演奏用イスに座りながら、背の高い天井を差したり、白い大理石の壁と反対側の壁とを両手で差しながら、良くないという表情をした。というのもこのスタジオは、天井が6m巾15m、奥行き10m程で、平行面がないように、梁は露出して、1m角の柱も立ち、まわりに、小さい録音室のガラスの扉5,6か所あり、複雑な空間を呈している。一目でどこが良いかは、見当もつかないスタジオである。演奏者の要求で、50センチ高さの演奏台が必要だということで、台のセッティングに行ったわけだが、50センチの高さの上で音出しすると音が吸収されてしまい、床面で直接鳴らした方が響きが豊かだ。台はとりやめ、隅に置きやられた。
 コントロールルームに向かって、大理石を背にした場所が最もいい場所だと演奏者も言い、演奏者、聴衆にどうであろう?と聞き、良しということとなった。
 床のフローリングは楢材のようで、それならヒッコリーの35ミリの板を下において聴いてみようと言うことになり、上にイスを置き、二本の弓を取出し床の上に置き、手持ちの音差ヘルツ計とでもいうのだろうか?それにて、弦の調整を始めた。それまでに、何度も音チェックの弦の響きに、ふくよかで暖かく、ブワーンと響くその音の中で動き回っていた10人ほどの聴衆は、位置が決まって演奏者がゆっくりイスに座り初めてのように音出しするその瞬間に、緊張して佇んでいた。
 たーらら らららら らーらららーと、バッハ無伴奏チェロ組曲3番プレリュード出だしである。皆は、この場所が良い。ヒッコリーになって音が良くなったと、石黒社長。
 演奏場所が決定した。

 やっと落ちついて聴衆を見まわした演奏者「ピーター・ウイスペルウェイ」さんは、視線をきょろきょろさせ、ここにいる人達はどういう人たちですか?若い通訳者に聞く。「一人ひとり、紹介してもらいたい」と言ったように聞こえた。(英語が苦手なもので、正確には翻訳できない)
 落ち着かない演奏者の視線は、僕にもそそがれ、すぐにそらされ、違う方向にもきょろきょろと動かしている。なんだか、野獣の動きの様である。野獣と言えば、攻撃する方を想像するだろうが、そうではなく、攻撃されないように、視線がサーチしているようだ。
 それぞれにナイス・ミーツ・ユーと握手してまわる、僕の手を、大きくて厚く暖かい手でくるんだ。普通の日本人の表情ではない。自制感や、内省感が感じられない。しいていえば、自閉症児や、情緒不安定児のように動き、と感じているようだ。
 今回の録音は、無伴奏チェロ組曲6曲のプレリュードのみ6曲の録音である。全曲でなく、「東京プレリュード」と銘打って販売の予定だそうだ。バッハの曲想に違えないだろうかと心配がよぎる(後になって、プレリュード1曲でも、完璧に終われる、と知ることになる)。

 録音ホールに彼一人となり、明る過ぎる照明を落として欲しい、彼から見えるコントロールルームの照明も落として欲しいと、何度も照明調整する。
 やっと夕刻の演奏時間がやってきた。頃あいは10時になっていただろうか。
 コントロームルームには、今回の発注者であるアコースチックリサーチの石黒社長、日本シャンソン館の羽鳥氏、ジャケット写真家の藤本氏、多分このスタジオのオーナー夫婦、出自の解らないおじさん一人、それにこの僕と、坂原君。正面の機械類の前に座る目にくまのできた録音技師、おなじ白髪の年頃の譜面を読みながらチェックする人、その横に、うとうとしながらパソコンの音波グラフを見ている物言わぬ青年、入口には音漏れをふさぐためにドアチェックをする技師の弟子の青年と、あと一人好青年の通訳がいる。
 一心に演奏者の演奏が始まるのを待っている。
 その時、この部屋の長老とも言うべき録音技師が、録音するにはディレクターが要りますが、誰がされますか?と石黒社長、羽鳥氏に向かって言う。ディレクターが、もう一度演奏して欲しい、とか、何小節めを直して欲しいとか、OKを決める。それを、マイクに向かって、通訳者に話してもらわなければいけない。その役をどちらかが決めないといけない。両人とも初めてのようで、それには荷が重過ぎそうと感じる。
 羽鳥氏では私がやりますと、申請する。
 通訳、テイクワンと、マイクに告げる。

 初めに何番から始まったか、多分一番だったろうが覚えがない。
 音の軽さに驚いたのだ。
 ふむ バッハ?
 あの、型ぐるしいバッハ?
 若すぎる。
 バッハはこんなに若くはない。
 ・・・しかし、
 聴くにつれて、音から感情がたちあらわれてくる。
 演奏者は、一瞬恍惚としている。ふくよかな気持ち、胸苦しくなる旋律、ふっと息の抜ける解放感、あたたかい!青年のバッハが恋に生き、絶望に襲われ、落ち込んでいる。有頂天になり、孤独になり、平静にもどる。
 へんこつバッハおじさんが、みずみずしい、そして、若若しい、ロマンチックな青年バッハになっている。バロックの時代の音楽でも、こんなにロマンにあふれた音楽として演奏できるのだ。音は、ソフトで、あたたかくやさしい。刺激音が高音にも低音にも存在しない。低音が唸りすぎない。
 クラシック音楽と他の音楽との違いは、一つの音に責任を持って鳴らすところである。ポピュラーなら、一つのフレーズに責任を持てば充分なようである。
 日本映画に、ローマの市街地を恋人二人が建物の中を錯綜しながら、やっとたどり着いた教会の2階の窓。そこから見えるイスに座った数十人の聴衆と、一心不乱に演奏するチェリストのバッハ無伴奏が、教会の中全体に響き渡る。すごい!と感動した覚えがある。
 それは、曲そのものの強さに唖然とした。
 覗いて聴くシーンは、同じだと思いだした。
 しかし、このシーンは、あの荘厳なバッハではなく、頬に赤身を帯びた青年バッハである。

 演奏者は、5回も6回も繰り返し同じ曲を演奏し、そのたび、曲調を変化させ、長くのばし、短く切り替え、そして、はなから始め、また繰り返す。25回もテイクを繰り返すこともあった。
 録音技師が、もう一度やってもらいます?と羽鳥氏に聞く。一回ずつ指示をしなければいけない。これは大変な作業である。決定しなければいけない。でもどれを良しとして、どれをダメだと思えばいいのか?音の間違いだけは、素人の僕でも解るが、どのテイクもニュアンスの違いはあるが、青年バッハの多感さが表れている。
 その時、羽鳥氏が、「だんだん音が詰まって来る」と述べた。
 僕は、思うのであるが、日本人の良き特性として「思い図る」ということがある。演奏者は先程あの大曲ドボルザークのコンチェルトを弾いて来たばかりだ。彼なら何曲かのアンコールを演奏したかもしれない。その後、時を置かず、何度も何度もテイクを重ねている。可哀そうだ、もう疲れきっているだろう。そんなにやってもらわなくてもいい。これが日本人の思う心である。
 羽鳥氏は、この気持ちに、良い演奏を録音しなければならないと、ディレクター、プロデューサーの立場も加わっている。
 僕は人の心なぞ知りやしないが、羽鳥氏は、演奏者が可哀そうになったのではないだろうか?それが、プロデューサーの込み入った言葉として現れたのだと思う。僕は、初めの挨拶の時、羽鳥氏が演奏者と会話しているところにいたのだ。演奏者がどんな演奏がいいですか?と羽鳥氏に聞いたんだと思う。
 羽鳥氏は、「わたしは、ピーターさんの演奏は、軽やかだと思うのです。」と答えた。
 かのピーターさんは両手を広げ「ブラボー」と叫んだ。
 その時の、僕の気分は「バッハが軽やか?嘘だろー」と内心、心配した。しかし、羽鳥氏のおっしゃる通りであった。

 録音技師、「それは演奏者に伝えなければならない。演奏がダメなら今日は中止にした方が良い」と、羽鳥氏に伝える。録音技師、羽鳥氏、石黒社長、通訳そろって、ドアを開け、憔悴しきっているように見えた演奏者と話し合っている。マイクオフにしているので、内容は解らない。
 しばらくして帰ってきて、録音技師が、演奏者は自分で良いか悪いかは判定して、自分で決定しているからという、やさしい返事。一同安心して微笑んでいる。この体力は超人的だと、石黒社長述べる。憔悴していると思ったのは、やはり、そう思う環境であったからだ。疲れてはいるだろうが。

 録音再開する。いまだ5分も休んでいない。
 4曲目何番だかは定かではない。最後に5番、その前が3番それだけは覚えている。12時ごろであったか。
 一曲に平均15,6回は録音している。初めから通しであったり、何小節めであったり、特に初めの4小節は、大切だとしてどれも何回も録音した。失敗すると、大きく唸ったり、人差し指を顔の前に立ててもう一回を繰り返した。右手より左手が疲れるようで、終わると弦を押える左腕を肩から回して緊張をほぐしている。左手の弦を叩く音は気にならない。
 コントロームルームは、私語もなく静かに聞き入っている、時折、長老が指示するぐらいで、通訳のテイク何という言葉が、聞こえるだけだ。
 静かな僕たちを見て、「眠れているかい?」「皆眠ってもいいよ」とスピーカーから聞こえる。演奏者の実音ではなく、部屋に作りつけている大きなスピーカーから聞いているのである。演奏が気に入ると、「イエスー」と叫ぶ、そして立ち上り終わりのお辞儀をする。
 気に入らないと、何小節目から始めると言い、引き始める。僕たちは、演奏者を見続け、毎日このように意識的に練習し、う―だ、あーだ唸りながら、引き続ける演奏者と対峙している。部屋の中では、感動したも良いも悪いも誰の口からも出ない。
ただただ、見続けている。時折、若い通訳が、小さな声でベリーグッドとか元気づけている。

 「5分程休む」と言って、中止して入ってきた。
 表情は、きょろきょろした落ち着きのない視線である。が、疲れているようにも見えない。

 中井久夫が「分裂病と人類」でのべている。
 16世紀のヨーロッパの農村荒廃は、我が国よりも広範囲で激烈なものであった。これに対するルネサンス宮廷は、幻想的な解決方法で、全くの失敗に終わった。この失敗の責任転嫁が「魔女狩り」の原因であるだろう。そして、この完全な手詰まりを救ったのが、オランダの「インターナショナル・カルヴイニズム」の「魂が究極に救われるか否かは人間のはからいを超えたものであり、ひとは神から与えられた現世の天職にいそしむべきである」という思想とともに重商主義と干拓技術と勤勉清潔の日常倫理であった。オランダの干拓事業を見たゲーテは、「瞬間よ止まれ、お前は美しい」と賛辞をあたえたほどである。
 中井は、農耕民は、執着気質的職業倫理を持ち、狩猟採集民的分裂気質者を執着気質者に仕立て直すという。狩猟採集民は、三日前に通ったカモシカの足跡を乾いた石の上に認知し、かすかな草の乱れや風の運ぶかすかな香りから、狩りの対象の存在を認知する。微妙な気配や変化・兆候に非常によく反応し、起こるべきことを常に先取りする。
 強迫気質・執着気質・粘着気質の農耕社会の文明の中にあっても、シャーマン・預言者・王・学者・芸術家として未来を先取りし、革命的指導者となることがある、と述べる。
 農耕民は出来上がった物の維持、修復、改革は得意だが、狩猟採集民はそのシステムの変革が行える。しかし、狩猟採集民は社会的管理や支配が存在せず、対人不和が生じれば逃げるだけであり、その為ストレスに弱く、失敗に学ばない、毎回同じ過ちを繰り返す。

「人類が強迫的産業社会に不適合な分裂型親和気質者を抱え込んでいるのは、災いではなく、逆に希望なのである」と述べている。

 長々と引用してしまったが、演奏者がきょろきょろしている視線を考えるに、実はきょろきょろではなく、おどおどしていたのかもしれないと、思ったからである。
 思っただけで本当かどうか解った物ではないが。

 中井は続けて「エチオピアは、もっとも非強迫的、非執着的な社会である。宮廷の女官たちは、テーブルに平行に、あるいは直角に食器を並べられない。そろえられないのだ。日本から手伝いに行った人たちは、彼女たちは知能が低いと判断した。しかし、その他の文化を検討してみると、エチオピアではそのような強迫、執着に価値を置いていないことが分かった。彼らは、一瞥にして相手の信頼性を正確に把握できる比類ない直観力を持ち、技術の一身具現性の卓越がみられる。今の分裂気質者にとって最もくつろぎを感じうる社会ではあるまいか?」と述べる。

 休憩でコントロールルームにいると、パソコン画面の前に座るお兄ちゃん、隣の譜面とにらめっこしている師匠に、この調子で一本にまとまりますか?と、不安げに聞いている。うとうとしているのは、眠ってはいなかったのだ。師匠、「大丈夫まとまる」白髪の譜面師自信ありげに、僕と目を合わせて言う。一回づつの演奏が、同じ曲の中でも変化しているからだ。

 通訳に何とかして、この若き音楽の感想を伝えてもらいたいと思ったが、何分、このメンバーの中では最も音楽業界から遠く隔たっており、音楽は好きではあっても、ただそれだけの素人なので、ついに声をかけれなかった。
 頑固バッハおじさんだと思っていたが、あなたの演奏で、みずみずしく、若々しいバッハお兄さんが現れた、と。この変化は大変なもので、かつて、グレン・グールドが、ゴールドベルク変奏曲を情感豊かに演奏して一世風靡した現象を思い起こしたのだ。
 バッハが、一曲ごと、完成した曲を並べていたということが解ったからでもある。プレリュード何番をその曲だけ聞いてもいいのである。またこれは、「東京サラバンド」と続けてもいいかもしれない。
 演奏者は、今日は2時までかかる、と予言していたようであるが、深夜2時10分に終了した。皆で暖かい拍手で迎えて終わった。その時になって、やっと目は疲れを表し、そして、変わらず我々に愛想を振りまいて、手を振って通訳と出て行った。僕たちが、引き上げたのは3時になっていた。


 日本でも、縄文時代人は、11世紀まで、縄文社会、狩猟採集社会としてあった。なにも終わった過去のことではない。遺伝子として狩猟採集民として顕在である。そして、社会不適合に苦しんでいる。赤坂憲雄は現代も縄文は東北に続いていると言う。
 と言うのも、「ピーター・ウィスペルウェイ」さんは猟師であったのではないか、という感触があったからである。視線の動き、落ち着かない感じは環境へのチェックを、つねに行っているからだろう。仕留めなければならない獲物と、攻撃されるかもしれない不安との戦い。その上、今まで誰も演奏したことのない無伴奏チェロ組曲を作った(10年前までは、CDを買いあさっていたが、現在の演奏家については、何も知らない、その情報の中で)、並はずれた才能だと思えるのに、そう思わせないほど自然に引き切った。
 音楽と言うものは、最高潮に達すると、音が消えて、作曲家がその場にたたずみ、作曲家の魂と言えるものだけが現れてくる瞬間がある。
 録音スタジオでは、繰り返し同じ曲を演奏し、それでもひつこくバッハお兄さんと言う感触を得られるのであるから、演奏会場で、一発必中の演奏がなされれば、ピーター・ウイスペルウェイの魂とバッハの魂が一体となって、音からも離れた、聴衆、演奏者、作曲家が浮遊する至福の時間が現れるように感じる。

 僕はといえば、夜に弱いと自覚している割には、終わらないで欲しいと、朝まででもこの演奏が続いて欲しいと願っていた。

23年11月20日 近藤蔵人


掲載:2012/12/7 ▲ページTopへ

■ 知 性 ■


 2012年11月、アメリカ、スタンフォード大学のジェラルド・クラブトリー教授が、「人類は2000−6000年前に知性と感情の働きがピークとなり、以後現代にいたって衰え続けている。」という研究結果を発表した。何世代も経ると、遺伝情報から人類の大切な気質がなくなるだろうとも言っている。
 6000年前、石器時代には、狩猟、採集するものを求めて移動漂泊生活、または、定住生活がはじまりかけた時代だ。その時代の知性が最も活発で、感度もよく、人との親和力もよかったということだろう。
 狩猟採集時代には、分裂病、今では総合失調症と呼ばれる精神疾患の権威である中井先生は、その時代が作った気質である感覚、心情、経験、志向性によって、分裂病親和気質が優勢だったと言われる。

 おぼろげなものでも一つの兆候によって、色々な発想が湧き出てくるのだ。風が吹いてきたその中の匂いに、いのししが居ると感じる感覚は、その感じすぎる気質によって、現実的でない発想が出てくることがある、それが分裂病親和気質と言われる所以である。中井先生は、微分的兆候といわれている。
 世界に対して感覚がオープンである狩猟採集者は、感知し察知し、気配を全身で感じていた。サヴァン症患者のように、記憶力が抜群で、何日も前に見た景色を、写真を見ているように記憶から取り出すことができた者もいただろう。(「獲得と喪失」では、言葉を獲得したかわりに、記憶力を失ったという)
 そういえば、過日のこと、有る中程度の受験校の中程度の成績の生徒が、全国模擬試験で一番になった。彼はその後の試験の発表の時には、分裂病を発症して精神科に入院していたそうだ。試験の時、分裂気質が(狩猟採集気質と言ってもいいだろうが)優勢となり、問題の解答のページが写真を見るように見え、推敲するプロセスにも間違いがなかったのだろう。
 クラブトリー教授が、狩猟採集民の知性の優位をいうことに、信ぴょう性はあるのだ。

 岩田慶治が採集した狩猟採集者の擬娩(出産する妻のそばで夫が横になり、うめく妻と同じようにおおきな声を発し、痛がる妻と同じように痛がって見せること)で、狩猟採集者は、相手の気持ちに成りきることを大切にし、そのようにしてまでコミニュケーションしようとするやさしさがあるという。生死が日常的で、常に最良の判断を下さないと生きていけない環境に、仲間との意思の疎通も現代以上に緻密であったと思われる。

 狩猟採集気質者は、自然のただなかでのみ生活する。その自然への愛着は、時代が下っても、私たちの心情として存続している。イギリスの学者が、無私(法悦、悦楽など)となるトリガーを研究発表しているが、最も多く無私への引き金となることは、自然との邂逅だという。
 山登りして翌朝、黄金に輝く朝日を見た時、涙ぐむほど感動する。町はずれの林の中の光さすほんの小さな空間に佇んでいると幸せと言う人もいる。
 沖縄やその地方にある「御嶽(うたき)」は、杜(もり)の中の空間にカミが訪れる。やしろも、建物と言えるものも何もなく。大木の前に岩があったり、石が数個あるだけの少し広がった空間に、時々カミが訪れる自然だけの聖地である。その杜(もり)が、神の杜として、神社という建物へと変わった。神さまを1柱、2柱と呼ぶ意味も、おんばしら祭も、木が神のよりしろとしてあるからだろう。
 神話学のキャンベル先生が、人には誰でも自然の中に、そこへ行くと気持ちが落ち着き、安息を得られる聖地が必要であるという。その他のトリガーは、宗教的法悦、愛情にまつわる様々な事象、過去への回想、芸術から受ける印象、運動した時、知った時、創造した時、美しいものにめぐりあった時に恍惚に至るという。

 サボテンの感受性について記したことがあるが、それは、数人の学生にサボテンの前を歩かせ、そのうちの一人がサボテンを足下にする。後日電極を付けたサボテンの前を学生に歩かせると、蹴った者が通った時だけサボテンの電極が発火してけった者を特定すると言う実験である。
 山川草木すべてに感受性がある、仏教でいう魂があると思われる実験である。庭の花に声をかけてやれば成長が促進され喜ぶという。それらを一網打尽に、また、むやみやたらに食いつくし、退蔵している我々は、そのものたちに恨まれているだろうと思う。
 生命は、他の生命の命を賭して自分を生きているが、人間は、あまりに貪欲すぎて、野生生物の食生活とはかけ離れてしまった。どれだけ無碍に失った生命が、人に向かって怨念の力を向けているか想像してみると恐ろしいものがある。狩猟採集時代、保存もできず、その日暮らしであった生物たちと同じような暮らしができて、やっと、ポストモダンと言える日が来るのかもしれない。

 樋口一葉が、「最後には乞食、かたいになりて、果てたい。」、折口信夫が、「乞食丐」を書いたのも、石牟礼道子が、「野垂れ死にしたい願望がある」というのも、ポストモダンを夢想して、人類の理想を感じたのだと思われる。

 渡辺京二の石牟礼道子評に、
 「最近石牟礼道子研究に専念している熊本大学教授岩岡中正は、道子の文学の文明論的な意義について、『近代の認識論やひろく近代知によって失われた全体性、複雑性、関係性、多様性、内発性』を回復しようとするのが石牟礼文学の志向であり、それはまさに彼女における『脱近代の知の創出を示すもの』だと述べている。彼女の創造した世界はこのように様々なゆたかな解釈の可能性をはらみつつ、私たちの前に置かれている。」と述べている。
 池澤夏樹が世界文学全集を編纂し、日本の文学者の中から、ただ一人石牟礼道子の苦界浄土をとりあげているのは脱近代の知の創出というテーマの為だと思われる。。
 石牟礼道子という作家は、狩猟採集時代の採集を幼児からなりわいとし、野山の草ぐさや、海、山、川、森にもぐりこみ、やまもも、ぐみ、よもぎ、ふきの搭などを採取、食べごしらえした。「上古の人たちの野原へのときめきが、よりいっそう自分の中に甦ってくるのを覚える」と言い、「早春の気配がすればもう、わたしは野に出ずにはいられない」と言う。
 苦界浄土は、聞き書きし、調査もしてはいるが、リアリズムではなく全編彼ら彼女らに乗り移り現代の巫女となって書かれたものである。
 「食べごしらえ おままごと」「椿の海の記」「草のことづて」というエッセーでも、幼児の再妙な記録は、同じ手が描かしたのだろうと思われるが、土に根差した、かの上古そのままに生きている生活の描写がなによりも慈養となり、この知性こそかって盛んだったころの数少ない名残であるように思われる。

 ユダヤ人は、キリスト教からの差別によって土地の所有を許されなかった。2000年程前からの事である。土着定住農耕牧畜することなく漂泊生活した2000年は、我々定住者とは、かけ離れた知性として存続していた。
 石牟礼道子が、幼児より野山に食べ物を採集することによって、狩猟採集の記憶が途切れなかったように、ユダヤの民は、漂泊を重ねることで、農耕牧畜の強迫神経症に罹患せず、自由を手に入れ、芸術の力、科学の力、商業の力を知性の発露としたのではないだろうか。

 クラブトリー教授が言う、狩猟採集気質の保持が、ユダヤの民の知性を温存したのだ。だとすると、「漂泊と自由」がその知性のトリガーと言ってもいいと思われる。

こじきかたいとなりてなり・・・・・

2012/12/7 近藤蔵人


掲載:2012/10/30 ▲ページTopへ

■民主的と封建的■

池谷祐二の本「脳のくせ」によると、心は脳にあるのではなく、身体や環境の記憶に散在するという。
骨身に染みついた経験が、思想やそれを実現しようとする意志よりも強靭であり、
度重ねられた経験が、行動や物言いとして「無意識の反射」で成されるため、より身体経験有利となるようだ。
脳が思考した結果行動するのではなく、思考以前に行動しているということである。
胸の心臓あたりを指して、心の有りかを示した時代がある。
その後、脳の機能が心と言われてきたが、脳が心ではなく、身体で記憶した無意識が、心であるということだ。
人格は「氏と育ち」と古人は言うが、まさにその通りでもあるということだ。
氏は遺伝情報の受け継ぎをいい、無意識である。
育ちは、無意識の反射をなさしめる家庭内身体経験を言う。
結婚するなら、相手の両親や家庭を眺めろということである。

父母が店の将来のため長男には大学に行かせないで商売を継がせるという規範の家庭では、
常日頃から封建的家訓が守られていただろう。
その子供たちは、民主的な教育を受け、本人も自分は民主的に行動しているつもりでも、
「君、君たらずとも、臣、臣たれ」や
「親が親らしくなくとも、子供は親の言うことを守る」
「親は子供を導く主君で、いくつになっても子どもは親に従わなければならない」と、
儒教による封建主義が身についてしまうことがある。
自分が親の立場になると、自分は君主なもので自分を査定することなく、子供だけを査定する。
江戸末期まで続いた封建制度には、善良な部分も多くあり一概に抹殺する必要はない。
社会が規範を熟成し、住民が意識することなく順守出来るようになれば、良い社会生活が送れる。
それが江戸後期の桃源郷のごときと言われた社会であった。
現代では、民主的であることが常識となっているゆえ、封建的子育てと対立せざるを得ない。
それは両親だけが、賢者であるわけがないからであろう。
人は、つまずいて転んだり、計算間違いをしたり、止まれの標識の前で、信号と思って5分も待機したり、
止めようがなく怒りが爆発したり、冷静に判断すること少ない。
人は、この様であるのがごく普通である。
その為、文明が滅びるとすれば、「発達しすぎた科学技術についていけない脳の不備」を上げる学者がいる。
科学技術に脳の働きが付いていけないのである。
人は、身の丈に合った物が、一番安心する。
自動車は、早すぎるし、家は飛び降りても助かる高さにするべきだ。
機械がコンピューターで動くようになって、修理はあきらめた 。
発達しすぎた技術があふれきて、身の丈が自然とは考えなくなってしまった。
荘子に「機械あれば機事あり、機事あれば機心あり」とある。
便利そうに機械を使っているが、使っていると機械の事故がおこり、
事故が起きるとその心配が発生するのだよ。と便利さを注意したが、文明は機能だけを追求した。
そして、事故にあふれ、心配ごとをふやしつづけた。
人知をはるか通りこした現象である放射能は、いたいけな、間違いを犯す人類には扱いが不可能である。
かつて、小林秀雄が湯川秀樹と対談した折、湯川が「原子力は太陽の働きと同じです」と言う言葉に、
自然現象であっても人類には制御も統制することも出来ない現象として不快感を表した。
湯川秀樹は、不安を認めながらも原子力を承認したが、小林秀雄は、将来にわたって孤軍奮闘、反対し続けた。
殺気の感知が出来たのだと思う。

話が飛び過ぎたが、賢者であることのむずかしさを考えれば、
親も子も同等と言うのが民主主義の考え方であると思う。
池谷祐二は、思想的訓練を子供に及ぼすより、
良い経験を度重ねて積ませるほうが子供はしあわせであろうと述べる。
積み重ねられた経験が、無意識の反射の正体である。
それならば子供時代は、狩猟採集的感性の充実を目指してあげたい。
竿先に一点集中し、その先の餌のついた針まで幻視するという感覚である。
感覚は研ぎ澄まされ、たとえ狙っている大物が釣れなくても、
自然の真っただ中で感度を上げるその行為だけで釣りは充分な時間を与えてくれる。
そして、察知する感度を上げる訓練となるだろう。

映画「大阪ハムレット」では、小学生の男の子が「おかあさん、僕は女の子になりたい」と言う。
母親は驚きながらも、批評せず聞くにとどめる。
さげすみや差別やいじめに会うことを考えると不安でしょうがないが「いけません」とは言わない。
民主的解決である。
親は子供を指導する立場である。
だが、人は自分だけが常識的で、普通だと考える生き物である。
他人が、その規範に沿わない場合、自分の普通を押しつける癖がある。
最後の民主主義は、そのおしつけまで許すことになるが、
最初の民主主義は、自分だけが普通と考える癖を出来るだけ取り払う努力が必要である。
女の子になりたい男の子は、性同一障害などの遺伝子的気質である時、
禁止しても将来女の子になりたいと思い続けるだろう。
そして夜な夜な女装して、罪の意識にさいなまれながら男を探すやも知れない。
無意識の反射を産む両親の育て方にはそれほど複雑な要素が存在する。

監督の園子温は、過常な親に育てられた過常な子供の物語を撮り続ける。
映画「ヒミズ」は、酔うと「お前を産みたくなかった」と告げる父親と
男を連れ込んで、食事も作らない母親の間に生まれた中学生の男の子を
いかにして成人にするべきか、挑戦する物語である。
「大阪ハムレット」の、子供の個性を尊重しようと言う態度と比べると、存在すら認められず、養育もされない。
封建的子育て以前の話である。
子供は、親に育てられて大人になるが、育てない親のもとでは、人殺しか芸術家になるよりないと言われている。
ヒミズの主人公は、自分を殴りつける父親を殺し、
殺人者となった自分は一人でも多くの悪人を殺すことがこれから先の使命だと、悪人を探して街をさまよう。
主人公の存在をも抹消したい暴力をふるう父親に対処するには、逃避するか戦うかの二つの選択しかなかった。
そうして戦ったあげくに父親を殺してしまう。
この映画では、監督は逃げるという選択をしなかった。
逃げることで無意識の中に潜ませることを恐れたのだ。
幼年期極寒の網走で母親に捨てられ、住む場所もない永山則夫は、殺人者になった。
後年自身の出生を悔やむが、泥棒と逃亡者にしかなれない者には、無意識の反射は殺人だった。
市場で捨てられた魚を漁り、余りに臭く汚れているため大人は、蹴散らすだけだった。
彼に人格を望めるだろうか?

民主主義は、最後には封建主義をみとめなければならない。
異常な両親に育てられた異常な子供が、両親を責めることに躊躇しなければならないのは、
両親も異常な祖父母に育てられたからと考えるからである。
誰のせいにも出来ずに、自己克服しなければならない。
「ヒミズ」では、がんばれ!がんばれ!と主人公を理解する友人がいる。
出来うるなら、そういう他者をはぐくむことも必要であるだろう。

世の恋愛物語は、彼らに早く子供を作りなさいと言うことを告げるためにある。
他人である彼らどうしと、子供と言う身内と共生する訓練を重ねることが、人類学的必然であるという。
子供を作る相手を価値あると認定でもしないと子育てが成就しないから、恋愛と言う物語を編み出したのである。
恋愛があるから子供を作るのではなく、子供を作るために恋愛制度を作ったのである。

男と女の物語が存在しない時代はかつてなかった。
いつか、より良い社会をその子供たちに取り戻してもらう為に、子供は必要なのである。

2012/10/23 近藤蔵人



掲載:2012/6/27 ▲ページTopへ

■サッカー、試合の後で■


サッカーでは、アウェイとホームと呼び、競技場に違いがある。
自陣あるいは同族と仲間たちをホームと言い。
敵陣あるいは遠隔地の敵対者と戦うことをアウェイと言う。
地元で戦う時には、勝たなければならず、敵地で戦うときには、負けなければ良しとする。
(たいていのスポーツは、敵地での試合を引き分けでいいとは考えていない。
これが他のスポーツと本質として違うところだ。)
大勢のサポーターという同族の中での試合では、高タンパク質の獲物を持ちかえり、
食べ分ける為に、ホームという概念がある。
だからサッカーは狩猟であるのだ。
狩猟者である選手は、一人の主神(主審)によって、行為の判定と善悪を裁かれる。
主審は一神教の使いのようであるが、狩猟採集者を、上から目線の論理で判定する土着定住者とも見受けられる。
(先の試合、あまりにホーム優位に笛を吹くので、かちんときている。少し公平さをかいているかもしれない。)
狩猟採集時代には、主神は存在しない。
それぞれのモノや行為や現象にあらわれるそれぞれのカミだけがいた。
だから、時代を経てゲームとしてサッカーが成立した時には、主神がいたとしても、この対比は、考えづらいものがある。
その時代には王は存在せず、皆平等で、時として長老が問題解決をするのみだ。
サッカーの成立時期は、牧畜農耕時代以後の工業化の時代のことであるから、過去の遺物である狩猟としてのゲームを、農耕民的エートスで裁きたいのだと思える。

サッカーと言う狩猟は快楽そのものである。
農耕民は、いい加減にしろ!と冷や水を掛けたいのだ。
(俺たちは毎日こつこつと仕事をこなしているのだ)
その為、主審は、安全な帰郷と豪華な接待の為ホーム有利に判定する。
引き分けで試合が終わりそうな時間帯に、敵にフリーキックで一点を取られることは、もってのほかである。
夜の饗宴が、そのヒト蹴りのため、後ろからナイフで刺される恐怖を味わわなければならない。
事件にならなくても、罵声と饗宴では、待遇が違いすぎる。
そういう真理とは関係のないところで、ゲームは存在するのである。
狩猟者は、成熟してその判定に甘んじなければならないが、
判定者は自己を真実のもと点検することはしない。
(機械で判定するというなら、まだ土着者にまかせた方が良い。)
左脳優先の牧畜農耕土着者の主審は、他人の言説にたじろぐことはない。
なぜなら、主審は善意でことを進めているからである。
(彼らは、ボランティアで審判になったのだ。)
それは、母親がグレートマザーになるのが愛情のせいであることと変わりがない。
左脳で決定したことに、論理的優位と、おそろしいことに善意と愛情がまとわりついているのだ。
黒豆が動いた、と、たとえ話がある。
男が、黒豆が落ちていると言うと、もう一人が、動いたからゴキブリだよ、と言った。
男は、そうじゃあないよ、黒豆が動いただけだよと、返答した、というものだ。
黒豆と左脳で決定したからには、何が何でも黒豆と見えるのだ。

先日アメリカの空港で、アルカイジャの幹部の名前の搭乗者が居ると、10数名の精鋭が飛行機に乗り込み、
仲間共3人を逮捕し、空港事務所に連れ行った。
本部に連絡し数十分で解放したが、当の名前の主は1歳半の赤ちゃんであった。
両親は怒ってその飛行機には再搭乗しなかったと、記事に有る。
決定した者のことを考えると、現場では異言が唱えられなく、
赤ちゃんであっても、その場で結論できない程に、システムは機能していない。
どんなに優秀でも土着定住者には、先は見えない。そういう構造になっている。
今現在の改革には、驚かざる負えない精度と様式を創造出来るが、
崖から落ちようとも一斉に落ちるのだから隣の人物に注意しているだけである。断崖が見えないのだ。
システムの維持に全力をつくしても、システムの変更には躊躇する。
黒豆と決定したからには、動いても黒豆なのだ。

左脳優先によって人類は滅亡するかもしれないと言われる。
避けるには、狩猟民としてのエートスを思い返さなければならないと思う。
我々は、40億年狩猟採集してきたのだ、たかだか数千年前から変化してきた、牧畜農耕作業によって培われた左脳優先の新しい気質にだけ従順であることはない。
よーく、思い起こせば、われわれは狩猟採集民の血筋を引いていることに気がつくはずだ。
海を思い起こし、山や川や湖をそれらを体験した昭和3,40年代のふるさとを思い起こせば、自然と同体の時があったはずである。その上日本人は、漁労採集も長く続けてきたのだ。(かわいそうだが、昭和50年以降には、思い出す過去もない。東京オリンピックがその境目だと言われる)
木々のざわめきに生物を発見し、
石の表面に附いた足跡で、いのししの頭数と行った方向を決め、
風向きで行動を決定し、
生えた草木で土の中の飲み水を感知する、それらが、ごく自然に出来たのである。
太陽の動き、月の変化、気配の察知、殺気からの逃避、自然が生き物として感じていたはずである。
そして、夜は踊りと歌で仲間と同化する。
彼らのように、感知したり、察知したりする能力が極端に墜ちてしまったのだ。
色々な提言の有った原発では、維持にのみ努力し、想定外で済ましてしまおうとしている。
土着定住者としての思考形態しか、思い浮かばないのである。
駐車場の白線に、ドアを開けて確認してから、平行に止める。なにゆえに?
そうしない運転手には、平行に止めなさいと叱咤する。なにゆえに?
数千年の間、苗を真っすぐに植えたかったのである。
自然は直線を忌み嫌うというが、直線で田畑を分割してきたのだ。
自然をすべて、人工物に変えたかったのだ。
車をもう一度動かして駐車し直すということは、強迫神経症という病態であることも認識できない。。

もし、狩猟採集者が、広い駐車場に規則正しく引いている白線を見ると何と思うだろうか?
白線の意味がくみ取れれば、恐怖を感じるのではないだろうか?と思う。
自分は自由だが、この白線は、自分に強要する。自由を奪おうとする。
最低限必要なだけの強制は、狩猟社会にあるが、
現代のように、なにからなにまで指示によって行動することに、不安を感じるだろう。
石灰でざらざらの壁、傷だらけの家具、時間を表現するため、古く見せる加工をした店内に、はじめてやって来たカナダ人が、日本で色々な所を廻ったが、ここの空間が一番落ち着く、と、感想を述べた。かのカナダのひと、それまで、日本のきれい過ぎる空間に、強迫的な視線を感じて辟易していたのだと思う。

ユダヤ人には、農耕牧畜は許されなかった。
数千年遍歴を重ねている、まっすぐに苗など植えた経験のないユダヤ民族は、人員に比例してノーベル賞や芸術活動のずば抜けた評価は、農耕牧畜によってはぐくまれる強迫神経症に罹患しないことによる。彼らは、近隣の他者の顔に依存することなく、自由に自己に忠実に創作活動が行われた。農耕牧畜時代に、「漂泊・遍歴」するものが、苦痛をささげるかわりに自由を手に入れていたのだ。
狩猟採集者や、芸術家は自由の真の意味を知っている。農耕牧畜者には、理解すること自体が、不可能に思える。
一週間入院して感じたが、大病院の設計者は人工空間が、もっとも入院者が安心する空間だ、と言う考えしかもっていないようだ。我々は、入院しているが故により自然に包まれる場所が欲しいのだ。大きな病院の中、新鮮な空気と、木や草やその梢の中で休息する場所を探したが見当たらない。淀んだ室内空気は、エアコンで循環するだけである。

狩猟採集民は残酷なところがある。
死に行く人が一人でさびしくないように、はるか上流の他狩猟民が一人でいるところを狙って、
誰であろうと首を切って持ち帰る。50年前の慣行である。
土着定住民は、そんな残酷なことはしない。
彼らは、農耕による蓄財によって、上下の地位の差ができ、王が現れ、他部族との収穫の奪い合いで抗争となり、集団の死人が出る。
縄文時代には戦争による死は見られないが、弥生時代になると、戦死体が多数現れる。
残虐なのは、どちらだろうか?
そうではない、人間そのものが残虐性をおびている。
狩猟採集民に擬娩という習慣がある。
妊娠した女性の出産する隣で、当の妊婦と同じように叫び、痛がり、うめき苦しむ様を演じる夫がいる。
夫婦同体同時経験のためである。
恋する二人が、同じ音楽を聞き、同じ映画を見、同じ食事をして、いつも同じでいたいと思う。
ところが出産を考えると、同じ経験は出来ない。
同じ経験をして、いつも同じ感覚でいたい、とは無理な望かもしれないが、狩猟採集民はその願いをかなえる。
ボルネオの伝統社会に、蚊の鳴くような音量の口琴楽器があるそうだ。
聞くには、肩寄せ合い、耳を近づけないと聞こえない。
その子供に聞かせるのか、
かけがえのない相手に聞かせるのか、
二人は、密着している。
残酷な首狩りも、部族の仲間同士の思いやりからの行為である。
彼らは、言葉を交わさなくても、意思の疎通がある。
又、食べる分だけの狩猟をすると言われている。
川に釣りに行くときには、一か所で10匹取ると、違う場所に移動して、5匹釣ったらまた移動する、
水中の魚と会話して釣る数を決めているようだと、観察者は述べている。
夜、狩猟の為待ち伏せしている男が水辺を見ている。
みみずが蛙に食べられている、蛙が蛇に睨まれ終にはのみ込まれてしまった。
蛇が退散しようとしたら、猪が見つけ、食いちぎり叩きつけ呑みこんでしまった。
狩猟者はその猪をまっていたのだが、自分を食べる存在を考えないではいられないだろう。と先の観察者は考える。
生と死の違和感のない同居である。
民族学の岩田慶治は、狩猟採集民の特質を、
1.「いきもの」をとらえる鋭い能力をもっている。
2.全体像を直観する。部分から全体のイメージをつかむすぐれた能力をもっている。
3.鋭い透視力を持っている。目に見える世界から目に見えない世界を構想する。
4.類推の能力に秀でている。アナロジーの自由な展開をたどる力がある。
5.同定つまりアイディンティティーをめぐる鋭敏な感受性にめぐまれている。
と、のべる。

ブータンで、断崖絶壁の山道を車で走っていて、折からの豪雨のため、急流となった濁流にのみ込まれて一台の車が、崖下に落下していった。そこで見ていた現地の人は、引き上げることはできません、だから祈っているのです、と、だけ言ったという。無事を祈るのではない。鎮魂の為祈るのである。
生と死と祈りの世界。
人の命は地球より重たいとは誰が言ったのだろう。先の氷河のクレパス落下事故で、現代人であっても5人の人を助けるすべはなかったはずである。(ブータンのように祈った者がいただろうか?)

今西錦司は、ダーウインのように弱肉強食の適者生存や自然淘汰説をとらず、独自の住み分け理論を考える。
「せいぶつの始まりは、多数の高分子が変わるべき時が来て多数の生物個体になった。
その時が種社会の始まりであるとともに、種個体のはじまりであった。
これからのち、この二者が生成発展していく時でも、変わるべき時がきたら、
この種社会の成員である種個体の全部が皆同時に一斉に変わることによって、種社会そのものもまた変わってゆく。」
種ごと変異して住み分け、競争するのではなく共存するのである。
「その上で、この三者は、つねに他を顧みながら歩調を合わせて、発展し、進化してゆく」とのべる。
だが、今西は人類が狩猟採集から牧畜農耕民となって、住み分け理論は適用できなくなったと言う。
日本では弥生時代からの農耕によって、人が強者となり、地球40億年の歴史を塗り替えてしまったのだ。
治世するものは、稲作を最も大切にし、税を稲で納めた。
それ以外の職業を賤なものと差別した。

新モンゴル人であった弥生人は、古モンゴル人であったその当時世界有数の文化を創造した縄文人も差別した。
その意識は、我々に埋め込まれている。
木奴は、野蛮人と。
鬼の顔は縄文人の顔のデフォルメしたものである。
東北へのわれわれの目は、それが未だに潜んでいる。
ちなみに、縄文人は、征夷大将軍・坂上田村麻呂に侵略され、11世紀に滅ぼされたというが、その生活を続けている人は、東北地方から北関東、北陸、山陰、四国の徳島、高知県、南西九州、沖縄などで、古モンゴロイド的体質が多いと言われている。
アイヌは蝦夷(えぞ)といわれ、蝦夷(えみし)とよばれた縄文人をさし、金田一京助によって、
西洋人と言われるほど、目鼻立ちがくっきりしている。
坂上の雲をNHKで見た人は、瀬戸内育ちの主人公の実物の顔が日本人ぽくないことに驚かれたと思う。
古モンゴロイドは我々のあこがれの西洋人のようである。
新モンゴロイドは、のっぺり卵顔で、蒙古ヒダの細く一重まぶた、鼻は低く、手足に比して胴体は長く、毛が少ない。
2,3万年前から地球が冷えたために、それに備える為に出来るだけ表面積を少なくした結果である。
うりざね顔・のっぺり顔が、今、美形と敬っている縄文人を差別してきたのだ。
うりざね顔は弥生人のことであったのだ。
(幕末の頃、西洋人を赤鬼・青鬼とおそれた彼らを、今、美の典型と持ち上げたのはだれだろう。)

魚釣りをする人は、針についた餌が、底近くを漂うように調整する。
岩があったり、くぼみがあったりする海中を、針で探索し、想像するのだ。
そうしないと魚が徘徊してくる場所を特定できない。
今そこに鯛はいなくても、何十回目の餌の漂いに、そこを通過して食う可能性があるからだ。
サッカー選手は、試合中、上空から俯瞰してゲームを見る能力が必要だ。
パスは、俯瞰することによってのみ通すことが出来る。
そうして時間を先取りする。
狩猟には必要な気質である。
ただ彼らは問題解決者ではなく、問題設定者であると、分裂病研究者の中井久夫は30年前に述べている。
「狩猟採集者は、かすかな兆候から全体を推定し、それが現前するごとく恐怖し憧憬し、先取り的対処ができる。
平和時には隠れて生きることを最善としていたが、非常時には、にわかに精神的に励磁されたごとく社会の前面に出て、個人的利害を超越して社会をになう気概を示す。
狩猟採取気質者が人類に多数占めることが、おそらく人類にとって希望であり、必要な存在なのだ。
人類とその美質の存続の為にも社会が受諾しなければならない税のごときものである。
かりに牧畜農耕民のみからなる社会を想定してみるが良い。
その社会が息詰まるものであり、大破局は目に見えないという奇妙な盲点を彼らが持ち続けることに変わりはない。
先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてもなお気づかないのが彼らだ。」と、この時代を予言した。

伝統は時間と共に変化する。
述べる時代の言葉と共に変化し新しくなったように感じる。
しかし、人類が新しくなることは、100%あり得ない。
遺伝子によって成り立っている生命は、伝統のみがよりどころである。
遺伝子を補佐するために成長したと思われる脳機能は、時代性に腐食されるが、
遺伝子を捨てるわけにはいかない。
生命は、ただ滅びるものと、生き延びるものとにわかれる。
われわれは、今まで生き延びてきた。
大きな環境の変化があっても、生き延びてきたのだ。
人類学的人間の宿命というものいいを使うなら、子供たち孫たちを生存させる努力のことを、言うのではないだろうか。

ETS幹細胞は、組成はがん細胞と同じだと言われる。
変化の仕方が違うだけである。
幹細胞は自分が何に成長するか知らず、隣の細胞の動きを感知しながら徐々に変化する。彼らにとって大切なものは、コミュニケーションだけである。
そのうち肺になったり、右手になったりする。
隣はどうするのだろうと、見つめあって成長するのだ。
初期の恋人たちのように、相手を尊重する気持ちである。
ひるがえって、がん細胞は、他人の事なぞ、自分には関係ないと自我を押し通し、
自分だけが良くなればよいと自分探しの旅に出たものだ。

人は、生まれてすぐから、おぎゃーと自己表現をする。
表現したいと思う気持ちは、人本来の持ち物である。
表現なおかつ発見も自己を投影することに尽きるという。
ワトソンとクリックが、二重ラセンの遺伝子を発見できたのは、彼らが、二人組であったからと言われている。
科学にしても自分以上の事は発見できないのだ。
幹細胞が必要としたコミュニケーションは、人類がその細胞のように、生命はコミュニケーションが有ることによって成り立っているということだ。
コミュニケーションは狩猟採集時代もっとも研ぎ澄まされた。
(サッカー選手が見ないでも的確にパスが出せるように)
退化しつつある右脳と左脳のコミュニケーションは、今取り戻す必要がある。

霊長類・人類は狩猟採集を、数百万年続けてきた。
狩猟採集時代には、全生命が共存していたと、今西錦司は述べる。
右脳の働きの勝った狩猟採集民は、ストレスに弱く、構築していく力がない。
左脳が計量し、測定し、配分し貯蔵する。
左脳・右脳は、必要で成されたものである。
遺伝子の変化によって出来た新しい人類は、古い人類に勝るとはいえなく、脳容量は変わりはない。

「いきし世の面影」で渡辺京二が再現したように、かつて良き世があったなら、その世をふたたび孔子のように、夢想してみたいものである。

孔子は、創造したのではなく祖述しただけだ、と言った。
名君であった周公の足跡を理想として述べただけだと、
伝統は、語る時代の言語によって新しくなるだけで、新しくなることを望んでいない。
孔子は、「述べて作らず、信じて古を好む」といわれた。

2012/6/30 近藤蔵人





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