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Go! いせさき 管理人の独り言
管理人・丸男が勝手な事を書いています。失礼な発言がありましたらご容赦ください。皆さまから、どしどし返信いただけると嬉しいです。


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絣の郷交流祭り 投稿者:しょうちゃん 投稿日:2015/10/29(Thu) 20:54 No.1258    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
丸男さん
HPのトップの絣の郷交流祭りの1編が2編に成ってますよ。

Re: 絣の郷交流祭り - 丸男 2015/10/30(Fri) 00:22 No.1259
しょうちゃん、1編も2編も同じページ内で、上下スクロール差が少ないので
区別せずにリンクさせています。悪しからず。


Re: 絣の郷交流祭り - しょうちゃん 2015/10/30(Fri) 12:27 No.1260
丸男さん、これは失礼しました。
最初に表れる画像が同じなので内容を良く確認してませんでした。

追伸
スマホから始めて?送ってます。


暑さ寒さの体感は〜 投稿者:こんがり 投稿日:2015/08/02(Sun) 19:37 No.1252    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
 表記のタイトルの記事、拝見しました。
本当に毎日暑い日が続きますね。
暑い、そして体感温度ということで夏の暑さに関するエピソードを一つ。
昭和50年ころ小学生でしたが、当時は紫外線に対する考え方も今とは大きく異なり、
子供は外で遊べ!色の黒いことは健康な証でした。
しかし私は色白だったため(現代のような陰湿なものではないが)
いじめにあい、当時は”弱”と呼ばれていました。
また(男性で)色が白いので、周りからも気持ち悪がれて
「半ズボン穿くな!半袖着るな!」と言われていたので
子供のころはどんなに暑くても長袖長ズボンでした。
男の子で色が白いなどというのはまるで非国民か犯罪者のような扱いでした。
当時は驚くべきことに学校主催で夏休み後に≪日焼けっ子大会≫
なるものが行われて、その時は本当に肩身が狭かった記憶があります。
ただし女の子の場合は色が黒ければ外で元気に遊ぶ健康的な子供。
色が白ければ女の子らしいきれいな子供。というように
ジェンダーに対するステレオタイプが非常にはっきりしていたと思う。
ちょっと怖いのは、世間の論調というかコンセンサスが
ある一定の方向へ変わりだすと知らない間に正反対(この言葉もいつの間にか死語、
最近ではみな真逆ということになってしまった)になってしまうことである。
いつの間にか日焼けは悪になってしまったし、今では美白ブームである。
ところが日焼けしろ!とあれほど声を大にしていっていた方々からは
謝罪の一言もない。日焼けと戦争の問題は全然関係ありませんが
先の大戦がはじまるまでのムード、国民の雰囲気などが知らないうちに
正反対になってしまうことに怖さを感じます。
群衆の斉一性のなせる業?
いろいろ書きましたが今では夏に半袖、ショートパンツ
が自由に穿けることに感謝しています。昔よりも気温は高くなりましたが
体感気温的には涼しいです。
これを読まれた方の皆さんの地域でもあったのでしょうか?
≪ひやっけ子大会≫

Re: 暑さ寒さの体感は〜 - 丸男 2015/08/03(Mon) 09:17 No.1253
こんがりさん、色白で子どもの頃に肩身の狭い体験をしたこと、大変でしたね。
子どもは言葉が荒削りで残酷なことが多いので、傷つきますよね。

私は逆に色黒で、夏に日焼けした水泳パンツの跡が、正月を過ぎてもまだ残ると言った感じで、
色白の人は、日焼けしても真っ赤になるだけで、すぐに元に戻ってしまうので、羨ましかったです。
色白の兄がいて、家族からは「洋服は色白の方が似合うね」とよく比較されていました。

今、MBに跨ってあちこち走り回っていても、近所に出かける以外は、
長袖を着て、手袋して、首に長いタオルを巻いて、帽子をかぶって、
顔には日焼け止めクリームをしっかり塗って出かけます。

庭仕事の時も全く同様で、露出部分がないので、すぐに全身汗ビッショリです(^^;)。

世の中で、「絶対的価値観」と思っていた、あるいは思わされてきたことも、いつの間にか逆転していることがありますよね。
常識、時には良識さえ変化するので、世の中って結構アバウトでいい加減と思うことがあります。
≪ひやっけ子大会≫・・・始めて聞きました。


Re: 暑さ寒さの体感は〜 - こんがり 2015/08/08(Sat) 02:48 No.1254
 まる男さん
こんばんわ、いつもながらありがとうございます。
≪日焼けっこ大会≫昭和50年ころには
なくなってしまったようです。
今では(仕事中は別として)好きなファッションができるということに
とてもありがたみを感じます。
絶対的と思っていた価値観が逆転するというのは本当に怖いことです。
テレビのニュースなども、どこの放送局も同じようなものだ…と思っていたのが
やはりよく見ると局によってかなり伝え方が違い、実に巧妙に
世論を誘導しているようなところもあります。情報は何が正しく何が誤りなのかを
見極め選んでゆくことが大切なのではないでしょうか。


Re: 暑さ寒さの体感は〜 - 丸男 2015/08/08(Sat) 11:16 No.1255
こんがりさん、メディアの報道姿勢、バックの新聞社の方針も影響しているようですが、
私が一番残念なのは、「視聴率狙い」、「購読者増加」など「数字」が先に立って、
それぞれの話題がバッサリと雑に扱われてしまうことです。
時にはそのメディアの「力」を利用して暴挙に出ることもありますし。
本人たちは「数字」さえ取れれば、そんなことは知ったこっちゃないと言った態度ですが。

今はまたイン―ターネットの普及で、極端にいえば、全地球人が「メディア」になれるので
情報への接触、取り扱い方は、益々受け取る側の責任になって行くと思います。
30年以上前に、「イン―ターネットは情報の墓場」と予見した人もいます。


スパム投稿チェック投稿です 投稿者:丸男 投稿日:2015/06/18(Thu) 17:41 No.1251    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
拒否するIPアドレスのリストを更新しましたので、そのチェックです。

利根川の歴史 投稿者:鳩ポッポ観光 投稿日:2013/10/07(Mon) 19:33 No.1129    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
こんばんは。
最近は再び、昔々の利根川の流れに興味を持って、ちょっと取り組んでいます。
丸男さんのお花と樹木のお師匠、Kさんともかつて話題になったことがあり、いつかまた投稿させて頂きたいなと思っていた次第です。

以前、こちらの掲示板でも何回かお話させて頂きましたが、例えば、戦国時代に遡れば・・・利根川は現在の広瀬川辺りを本流としており、
その後、徐々に現在の流れに移動していったことは、皆さんもご存知のことでしょう。
伊勢崎藩家老の関重嶷(せき しげたか)が著した『伊勢崎風土記 』には、伊勢崎地方の物産としては、「鮭(さけ)、利根川及び比利根川(現在の広瀬川)に出ず、
葱(ねぎ)、下植木村に出ずるもの最も美味なり。」と記され、伊勢崎に活きのいい多くの鮭が遡上していた様子をうかがえます。
最近でも、秋になると鮭遡上のニュースが多く聞かれるようになり、伊勢崎市の川も綺麗な川に戻りつつあるのが嬉しいです☆

夕食ということなので、このつづきはまた・・・

Re: 利根川の歴史 - 鳩ポッポ観光 2013/10/07(Mon) 20:43 No.1130
以前にも紹介させて頂いたかもしれませんが、ネットで「治水地形分類図」といった主に昭和初期の測量により制作された地図を見つけました。
こちらから、ぜにご覧になってください。http://www1.gsi.go.jp/geowww/themap/view/mapview.php?type=lcmfc&dis=kantou1&name=isesaki&size=100&rc=11&xy=21

この地図では、現在の広瀬川の流れより西側の地域、すなわち連取町、連取本町辺りを中心に田中町、新栄町に至る地域の、所々に青い横線のベルト地帯「旧河道、旧落堀」が見られ、
これらはかつての利根川が流れた痕跡だと思われます。
ちなみに、現在の広瀬川の流れより西側の地域は、伊勢崎清明高校〜美茂呂町の退魔寺に至る際立った崖に見られるように、西側の方が市街地よりも数メートル低く、地学的には広瀬川低地帯と呼ばれています。

また、この地図の下にある「下へ移動」をクリックして伊勢崎南部をご覧ください。
こちらでは、現在の五料橋付近から分かれて存在した、利根川の現在の流れより北を流れていた「もう一つの流れ」をありありと確認できます。
この流れはかつて「七分川」と呼ばれていました。
一方、現在の流れは分流地点で三分の水量が流れたので、「三分川」と呼ばれてました。

五料橋付近から分かれた「七分川」は、現在の日本CMK、まるか食品の辺りを蛇行しながら南下し、上武大キャンパスを通過し
富塚町の交差点辺りから東へ横移動するようになり、坂東小あたりで二手に分かれ、一方は市民プラザ(南に現在も七分川の名残り「七分川公園」がある)
もう一方はパーネデリシアのパン屋さん辺りを通っているように見えます。
二つの流れは、八斗島工業団地の恐らくサンデン辺りでまた合流し、工業団地の北部を横断し飯島町辺りから、現在の韮川の流れとダブってきます。
国領町で、まゆドーム辺りから流れてきた別の支流と、南からの支流(恐らく三分川)とも合流して、島村方面に向かってます。当時は島村で烏川とも合流してました。

またまた、この辺りの地名をよく考えてみると、七分川と三分川にはさまれた「八斗島、福島、飯島」は文字通りの「島」となり、
流れのない所は自然堤防や小さな丘陵(塚)ができ、そこに人が住んで「富塚、戸谷塚、馬見塚」となったようです。
もちろん、水に関する地名としても、沼地が多かったであろう「長沼」、現在の上蓮、下蓮町は、かつては上蓮沼、下蓮沼という地名ということもありました。
子供の頃に見た伊勢崎市の地図は、南部のこの地域に、たくさんの沼地や湿地?が残っていたような気がしますが、現在はすっかり埋め立てられてしまったのでしょうか・・・



七分川の最期 - 鳩ポッポ観光 2013/10/07(Mon) 22:14 No.1131
七分川は、天明3年(1783年)の浅間山大噴火によってもたらされた大泥流によって、河口がふさがれ、その流れもすべて埋没してしまったようです。
それ以来は三分川がこの辺りの利根川の本流となり、現在に至ります。

七分川の流れていた地域には想像もつかない大泥流とともに、上流の吾妻川流域で暮らしていた多くの民の遺骸が流れつきました。
火砕流により家もろとも川に押し出され、高熱の泥流に加え酷暑の夏のことであったため、遺骸はほとんど腐乱して、利根川が浅瀬となる五料、柴町、戸谷塚のあちこちに打ち上げられたそうです。

その遺骸を集めて供養したという場所が、旧ヒタチヤ(現在のカワチ薬局)を西に入った、戸谷塚観音堂(写真)として今も残ってます。



Re: 利根川の歴史 - 丸男 2013/10/08(Tue) 19:11 No.1132
鳩ポッポ観光さん、暴れん坊・利根川と、その流れに応じた地名の由来・・・良く調べましたね〜(@_@)。

七分川と三分川に挟まれた「八斗島、福島、飯島」の「島」の由来、
流れのない所は小さな塚)ができ、「富塚、戸谷塚、馬見塚」などの「塚」、
沼地が多かったであろう「長沼」、現在の上蓮、下蓮町は、かつては上蓮沼、下蓮沼という地名
また現在も名を残す「七分川公園」、
実に興味深いです(ー_ー)。

戸谷塚と吾妻川上流のある地域とは、浅間噴火の縁でまだ交流が続いている話を聞いた記憶があります。


Re: 利根川の歴史 - 鳩ポッポ観光 2013/10/08(Tue) 20:28 No.1133
丸男さん、お返事感謝致します!
こちらの掲示板にも、昔のことに興味を持ってくださる人たちがいらして嬉しいです。
戸谷塚と吾妻川上流域の人々の交流が、現代も続いていること・・・大震災の被災者と助けに駆けつけた人々の絆を見るようで心温まる思いです。

上蓮沼、下蓮沼にかつて実際に沼があった記録は、残念ながら今のところ見出せませんが、長沼町に七分川が流れていた辺りには、明治初期の古い地図で沼らしきが確認できるとのことです。

鳩ポッポ観光としても今までに、七分川の流れの痕跡を探すフィールドワークを試みてきました。
坂東小の北、100メートル位の所に小さな川が流れてますが、そこにはかつて3メートルほどの段差があって、坂東小自体も70年代までは葦の生える沼地であったそうです。

戸谷塚町では、七分川の流れのあった辺りに、貯水沼や小さな池が見られます。
36.283692,139.178233 こちらの地点をやっかいでも、またグーグルマップにコピー&ペーストして読み込ませ、その地点にペグマン(黄色い人形)を立たせてぜひ360度、見回してみてください。
(グーグルマップはこちらです。https://maps.google.co.jp/maps


これが七分川の跡だ! - 鳩ポッポ観光 2013/10/08(Tue) 21:12 No.1134
昨日、紹介させて頂いた「治水地形分類図」http://www1.gsi.go.jp/geowww/themap/view/mapview.php?type=lcmfc&dis=kantou1&name=isesaki&size=100&rc=22&xy=01
をもう少しよく見ると・・・
地図中の「上蓮町」と表記されている所に、、現在の「まゆドーム」のある子供のもり公園辺りから始まり、南に下って飯島町に流れていた
七分川の支流とも言える旧河道があることがはっきり確認できます。
子供のもり公園は「保泉」と表記された下の広瀬川と、その南を走る現在の354号線の間の辺りだと思います。
(ちなみに、現在は子供のもり公園入口の西に郵便局がありますが、こちらの地図の時代は更に西方に郵便局のマークが見られます。)
そういえば、子供のもり公園内にはビオトープや小さな湿地帯が設けられているのは、七分川の名残りか或いは偶然なのでしょうか?

子供のもり公園入口のある国道354号線の道路沿いから南方向を見渡すと、目の前の広い水田が、その七分川支流の河道跡と私は見ています。
また、公園の第2駐車場やその奥に民家のある水田の東側の地帯は、水田よりも一段土地が高くなっており、その地形はゆるやかな弧を描いて、そのまま南東方向に続いています。

「治水地形分類図」の「飯島町」と表記されている「町」の字付近の流路左岸になると、その段差は著しく目立っきます。これが七分川の跡です。
36.267464,139.226805 こちらの地点をまたまた、グーグルマップで是非ご覧になってください。これは一見の価値があります!
県道295号線の道路から見て、西側の、田んぼと〜畑や宅地の境界線に段差が際立っています。

この場所は以前、下蓮町のご出身で現在は東京都にお住まいの方のブログ「トクチャンのブログ」で知りました。http://ameblo.jp/tokuchan2001/day-20110814.html
この段差は現地に立って見渡すと、更に醍醐味が出てきます。
自転車やお車なら、さきほどの子供のもり公園から354号線を南東に進み、下蓮町の交差点をそのまま直進して300メートル位走ると道路がゆるやかな下り坂になっていたように思います。
道路沿いの民家が途切れ、左右の風景が田んぼになった所です。
これはあきらかに七分川の残した段差に間違いないでしょう。


Re: 利根川の歴史 - 丸男 2013/10/09(Wed) 08:22 No.1135
鳩ポッポ観光さん、またまた詳しく調べましたね。

ところで、浅間山噴火と戸谷塚地区の交流とのことですが・・・

「世界災害語り継ぎネットワーク TeLL-Net」に関 俊明さんと言う方が
「嬬恋村鎌原地区と泥流被害地の取り組み −天明三年(1783)浅間山噴火災害−」
と言うパワポ原稿を寄稿していて、その中の20ページに

「6 伊勢崎市戸谷塚地区・「夜泣き地蔵」「先祖が世話になった。」」

として、戸谷塚地区との交流が記されています。同26ページにも130回忌のことに簡単に触れています。
URLはこちらですが、ファイルサイズは大きいので、ブロードバンド接続(光回線など)でない方は要注意
http://tell-net.jp/portal/download/seki_jp.pdf


下蓮沼集落の南を流れていた利根... - 鳩ぽっぽ 2013/12/25(Wed) 22:12 No.1162
丸男さん、和@さん、こんばんは。
先日は広瀬川の旧河道を確認した後、かつて下蓮沼村集落の南を流れていた利根川の本流「七分川」の残した段差を撮影してきました。
写真は道路から見た左岸の段差で、数十メートル南側には右岸らしき段差もはっきり残ってました。
この段差はスケールも大きく醍醐味がありますから、ぜひ現地に立って見渡して利根川旧河道「七分川」のスケールを体感してみてください!
段差の見られる所は何箇所もありますが、写真を撮った場所は忠治茶屋前の354号線を南東に直進し、下蓮町の交差点を曲がらないでそのまま直進して400メートル位走ると、道路がゆるやかな右カーブの下り坂になり、道路沿いの民家が途切れ左右の風景が田んぼになった所です。



Re: 利根川の歴史 - 丸男 2013/12/27(Fri) 08:12 No.1163
鳩ぽっぽ さん、おはようございます。
鳩ぽっぽ さんが確認した古利根の段差、明治初期の地図「迅速地図」にしっかりと表現されていました。
現在の韮川がややその位置を流れているんですね。

去年の今頃、その場所付近から韮川堤防上の未舗装道を無理やりサイクリングして島村の「北向」まで行ったことがありましたが、
その日は事前知識がなかったので段差には気付きませんでしたが、
うろ覚えながら、韮川から利根川の堤防にかけての土地は全体的に窪地になっていたように思います。

いつか改めてまたあの辺をぶらりサイクリングしてみます。



Re: 利根川の歴史 - にわかTT 2013/12/28(Sat) 09:34 No.1164
鳩ぽっぽさん、丸男さんこんにちは。
丸男さんの利根川周辺の古地図への書き込みですが、1947年の航空写真で結構分かりますね。
古い利根川の流れはそのまま水田となってプロフィールを保っています。
現在の航空写真と比べても、1947年頃のほうがくっきりしているのではないでしょうか。
それ以外でも河川の暴れていた跡がそのまま田圃になっているのが分かって面白いです。

あちこちのスレに航空写真を貼り逃げして恐縮ですが国土変遷写真ネタはひとまずお終いにします。
お付き合いいただいてありがとうございました。



Re: 利根川の歴史 - 丸男 2013/12/28(Sat) 17:33 No.1165
にわかTT さん、古利根の流れ、ホント、1947年の航空写真には
モロそのままの形で残っているんですね(@_@)/。
今回の右赤城であれこれ調べるまでは、実は古利根が上蓮町のすぐ南まで流れていたこと、知らなかったんです。
半世紀と少し前の地元のことなのに、知らないことが多くて、サイト運営しながら勉強中です。

航空写真ネタ、また何かに絡めて、ドシドシ投稿してください。


Re: 利根川の歴史 - 鳩ぽっぽ 2013/12/29(Sun) 19:39 No.1166
にわかTT さん、丸男さん、1947年の航空写真、またまたナイスですね! 
古地図や治水地形分類図(http://www1.gsi.go.jp/geowww/themap/view/mapview.php?type=lcmfc&dis=kantou1&name=isesaki&size=100&rc=22&xy=10)にある利根川旧河道がそっくりそのまんま、モノクロームの画像に鮮やかに浮き出てますね。
旧河道がこれほど壮大なスケールで痕跡をとどめていたとは、まさに驚きでした!
トクちゃんという地元出身の方がブログで「(僕の住んでいた)集落や畑があるところは利根川の中州や自然堤防、そして集落や畑の周りに帯状に広がる田んぼが、かつて利根川が流れていた跡だそうです。」と、この辺りの地形のことを語られてますが、この航空写真を見れば一目瞭然ですね〜。
航空写真上部、右赤城のある位置より西の辺りに縦に連なる旧河道がありますが、先日そちらも写真に撮ってきましたので投稿させて頂きます。
こちらの旧河道跡は、現在のまゆドームのある子供のもり公園の南から端を発して旧上蓮沼辺りで本流と合流していたようです。
実際は、まゆドーム北を流れる広瀬川から、かつてこちらに流れていたのでしょう。
川幅も広く100メートル以上あります。広瀬川が利根川の本流であった時代もあったようなので、水が流れていたのはその頃かもしれませんね。
場所は、子供のもり公園入口から354号線の道路を渡った先にある第2駐車場の下なので、すぐにわかります。
第2駐車場から南に連なる集落のある所は、水田よりも一段土地が高い微高地になっており、その地形はゆるやかな弧を描いて南東方向に続いています。



Re: 利根川の歴史 - 丸男 2013/12/30(Mon) 10:08 No.1167
鳩ぽっぽ さん、おはようございます(^o^)。
鳩ぽっぽ さんご指摘のこの古い河川、
確か、鳩ぽっぽ さんが以前から話題にしていたと思いますが、
今回改めて気に留めてみたところ、広瀬川本流がこちらに流れていたようにも思えますね。
利根川との標高差も僅かなので、利根川からの逆流も入って来ていたのかとか、
いずれにしろ、改めて興味が湧きました(@_@)。

改めてその部分をクリッピングしてみました。



Re: 利根川の歴史 - 大学生 2015/04/21(Tue) 14:32 No.1242
鳩ぽっぽさん、丸男さん、こんにちは。戸谷塚町出身で現在は東京都に住んでいる
大学2年の者です。
小さな頃からこのあたりが大好きで、小学生のころからずっと歩き回っていました。
第四中学校出身だったこともあり、下蓮や国領町、長沼町のあたりもよくぶらぶらとしていました。
東京に来て戸谷塚を離れたからなのでしょうが、地元への愛着というものを最近強く感じています。
七分川公園についての由来は少し聞いたことがある程度だったのですが、お二人のおかげで理解することができました。
また、祖父から、「八斗島」という地名は八斗兵衛という人から由来しているのだと聞きました。
 大学の図書館でこの地域についての地理について詳しく調べようと思いましたが、もちろん東京にある学校なのでそのようなものはありませんでした(笑)
 もう一つ、昔利根川には荷物を運ぶロープのようなものが(八斗島町〜本庄間を繋いでいた?)あったとも聞きました。
詳しくご存じないでしょうか。



Re: 利根川の歴史 - 丸男 2015/04/22(Wed) 09:02 No.1243
大学生さん、こんにちは(^o^)。戸谷塚町のご出身でしたか。
子供の頃から、あの辺を歩きまわっていたこと、同じDNAを感じます(^^;)。
私は波志江町生まれですが、子供の頃から、自転車に乗って、付近をぶらぶらしてました。
粕川村(現前橋市)や新里村(現みどり市?あれ、桐生市だったかな?)辺りにも足を伸ばしていました。

私の友人の中には、同様な子供時代を過ごした人が数人います。
タモリがNHKで「ブラタモリ」なんて番組をやっていて、タモリとも気が合いそうです(ー_ー)。

八斗島町〜本庄間の利根川を荷物運搬用のロープでつないでいたこと、私も聞いたことがあります。
ちょっと調べてみます。


「八斗島舟橋」 - 丸男 2015/04/22(Wed) 11:30 No.1244
ウェブにこちらのサイト(http://www.texte.co.jp/ch5.pdf)が見つかりました。
「日本近代浮橋」と言う論文です。
その中に「八斗島舟橋」の記述が随所にあり、
明治16年から昭和5年まで、架けられていたようです。
浮体木造船でサイズは9.98m×1.35m。船賃を徴収して運航していたようです。
橋とは言いながらも、舟だったようです。
想像ですが、ロープはそのガイド用だったでしょうか。


Re: 八斗島舟橋 - 大学生 2015/04/22(Wed) 14:40 No.1245
粕川や新里まで行くとは、私とはだいぶレベルが違いますね…
正直言ってすごいです。
 わざわざ論文まで出してくださりありがとうございます。読ませていただきました。
一体どこから見つけてきたのでしょうか(笑)
つまり、ロープにかご等を通して荷物を運ぶのではなく、船賃を徴収して船で運搬していた、ということでしょうか?
話は変わりますが、戸谷塚町(村)は江戸時代、江戸幕府の天領であり、隣の堀口町(当時は村?)
で犯罪を犯した者が伊勢崎藩からの追跡を免れるため、管轄の違いを理由に逃げてきていた、という話も祖父から聞きました。
高校時代に日本史を取っていた私にはその話の真偽はわかりませんが、確か管轄が異なっていても捜査が行える「関東見廻り組」←(正式名称は忘れてしまいました…)というのがあったはずですが…
私のひい爺さんが名和地区について研究をしていてその資料を読んだことがあるのですが忘れてしまいました。丸男さんは何かご存知でしょうか?


Re: 八斗島舟橋 - 鳩ぽっぽ 2015/04/22(Wed) 19:58 No.1246
大学生さん、丸男さん、「舟橋」の画像がありました。
(画像は「群馬風便り」さん http://www.geocities.jp/gunmakaze/column/11bandou_b.htmlからお借りしてます。)
この画像は「八斗島舟橋」の写真なのか?はっきりわかりませんが、坂東大橋の本庄側にある大きな説明板に出ているもののようです。
丸男さんがご紹介の論文によりますと、「八斗島舟橋」の架橋には明治政府の山縣 有朋、大河ドラマで大沢たかおさん演じる群馬県令・楫取 素彦が関わっていたんですね〜。

大学生さんが四中のご出身ということなので、ご存知かと思いますがこちらの素晴らしい!資料もご覧になってください。
http://www.isesaki-school.ed.jp/daiyonchu/h25/tonenokita/tonenokita_03.pdf#search='%E5%88%A9%E6%A0%B9%E5%B7%9D+%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B4%8E%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1'
またまた「関東見廻り組」というのは、もしかして、国定忠治も捕まった泣く子も黙る!「関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)」でしょうか?
時代劇なんかでは「八州廻り」「八州さま」とか、呼ばれるようですね。



Re: 八斗島舟橋 - 大学生 2015/04/24(Fri) 00:38 No.1247
鳩ぽっぽさん、こんばんは。
2つのURL、拝見させていただきました。
1つ目にはかなり詳しく書いてありますね!「舟橋」について想像がうまくできなかったので
大変わかりやすくて良かったです。
 橋を架けるに当たってかつて私が日本史で学んできた偉人が関わったと知って大変驚愕しております。群馬県令の楫取 素彦に関しては先月あたりにlivedoor newsで「群馬県の県庁所在地を高崎にするはずだったのが仮庁舎を前橋に建設し、後に高崎に移転する約束をしたものの最終的には放置したために高崎市民からの評判はあまり良くない」という記事を見ました。

四中の社会科通信に関しては私は2011年度の卒業生(震災の日に卒業式でした)なので存じませんでした。ここまで伊勢崎南部の地区に関して詳しく記述したこの社会科通信は見たことがありませんでした!ありがとうございます。
そうです。それです!大学受験は1年前なのに忘れるなんて恥ずかしい限りです…


Re: 利根川の歴史 - 丸男 2015/04/24(Fri) 11:10 No.1248
鳩ぽっぽ さん、「舟橋」の画像、良く見つけましたね(@_@)。
「八斗島舟橋」架橋に、今話題の群馬県令・楫取素彦や山縣有朋が関わっていたこと、歴史上の人が身近に感じました。
また、大学生さん紹介の高崎市民の楫取素彦に対する評判も興味をそそりました。
そんな裏話の真偽を調べると、また歴史が面白くなりますね(^o^)。


Re: 群馬県令・楫取素彦 - 鳩ぽっぽ 2015/04/25(Sat) 21:54 No.1249
大学生さん、丸男さん、
楫取素彦について、高崎市民からの評判はあまり良くない・・・確かにネットでよく見かけますね〜!
そんな裏話の真偽をまたちょっと調べてみたのですが、それには色々と経緯があったようです。
明治4年の廃藩置県になって群馬県庁がまず高崎に置かれたものの、高崎城は兵部省(ひょうぶしょう、軍の機関)の管轄になったため、県庁は前橋城内に移動。
その後、明治6年に県令の河瀬さんが群馬県と入間県(川越を中心とした埼玉西部)の兼務をしていて大変なので、合併して熊谷県となり県庁は熊谷に。そして前橋は支庁になりましたが、また移動して高崎支庁に。
そして明治9年に熊谷県は群馬県と埼玉県に分割され、県庁は高崎ということになったそうです。その時、鶴の首の部分(東毛地区)も合体し、いよいよ「鶴舞う形の群馬県」が誕生します。
しかし、高崎城は軍の管轄なのでお寺を仮庁としたり分局を置いたりで、群馬県庁は高崎の町にあちこちバラバラだったようです。
またまた、県庁所在地ともなると高崎町民は欲が深いのか?物価や家賃は値上げするし、県庁敷地は時価の倍価格に引き上げたりしてしまったようで、時の県令、楫取素彦が「なんとか協力して頂けないだろうか!」と熱心に高崎町民に訴えても聞く耳がなかったようです。
一方、前橋は生糸生産の中心地。いい人材も揃っているということで・・・そんなこんなで、県庁は前橋に移動することになりました。
もしお時間ありましたら、群馬県での楫取さんの功績がこちらによくまとめられてます。
http://kousyou.cc/archives/8742

上記サイトで注目すべき点は、「行政の側から様々なインフラを整備して富岡製糸場を中心とした群馬県の蚕糸業を軌道に乗せることが楫取に課せられたミッションである。」とありますように、やはり楫取さんが今となっては世界遺産、富岡製糸場をサポートしていたことでしょう!
西南戦争で政府が財政難に陥り富岡製糸場の存続が困難になった時には、楫取さんの交渉で富岡製糸は閉場を免れることになった!ということも記載されてます。

ところで、楫取素彦は大河ドラマ「花燃ゆ」でもわかる通り、最初は小田村伊之助で吉田松陰の盟友で親戚ですね。
先日の「八斗島舟橋」の架橋では中央政府の山縣有朋、山田顕義らとともに、群馬県令として楫取さんが関わっていたわけだし。伊藤博文らが造った官営工場・富岡製糸場では、群馬県令が地元行政からのサポートで縁の下の力持ちといったところでしょうか。
・・・大学生さんも丸男さんもお気づきかと思いますが、ここで名前が上がっている人たちはすべて「松下村塾」関係者で「長州」であることです!!
幕末から情勢不安定であった群馬県も明治の初めは、長州の人々が関東出身の渋沢栄一 、尾高惇忠、宮崎有敬(伊勢崎藩伊与久出身・群馬県議会初代議長で楫取の厚い信任を得ていた)らと共に力合わせてリーダーシップを取って動かしていたのでしょう!
ちなみに、富岡製糸場にも長州出身の工女がけっこう多かったことも話に聞いてます。ただ普通の工女は、地方から歩いて富岡までやってきて下積みの繭の選別から覚えたわけですが、長州出身者はアメリカ郵船と人力車で富岡に到着して、最初から繰糸工女(そうしこうじょ)で特別待遇だったそうです。(ー_ー)
そういえば現在は名県令と言われる、最初の群馬県令・楫取素彦が、上毛かるたになく今までほとんど無名だったのも、長州出身(ある意味でよそ者)だったからでしょうか?


ちりんのオジサンのコロッケ 投稿者:通りすがり 投稿日:2015/03/11(Wed) 22:57 No.1237    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
どうも初めまして。
私は母方の実家(平和町)近くの福島病院で生まれて、すぐに神奈川県の両親自宅に
移ってしまったので群馬県民ではないのですが春夏冬と長期休暇の時は
必ず伊勢崎の祖父母の家に遊びに行ってました。
まっさきに思い出すのは、リアカーでコロッケを売りに来るオジサンです。
昼時にチリンチリンというハンドベルの音が聞こえてくると、コロッケ買ってこい!と
祖父が放り投げる千円札を握りしめ玄関を飛び出し、ノンビリ屋台を曳くオジサンを捕まえて
コロッケといもフライを買ったものです。
あのコロッケは普通のコロッケと違い練り物に食感と独特の香りが好きでした。
先日、仕事で数年ぶりに伊勢崎に立ち寄った時に、コロッケのことをふと思い出し近所の人に
コロッケの事を聞きましたが、とうにオジサンは亡くなったと聞きました。落胆していると
跡を継いだ人が市民病院の前に店を出していると聞き、一つ食べてみましたが柔らかく
随分上品な味で似てはいるものの、固くしまったあのコロッケと明らかに違うものでした。
もう一度あの野暮ったいコロッケを食べたいなと思いますが、市民病院前以外にあのコロッケを
出しているお店は無いのでしょうか。

Re: ちりんのオジサンのコロッケ - 丸男 2015/03/12(Thu) 10:00 No.1238
通りすがり さん、ご質問のコロッケは「伊勢崎神社コロッケ」のことと思います。
ご近所の方が仰ったように、そのおじさんは亡くなられましたが、
味が忘れられないファンが多く、いくつかの店で跡を引き継いでいるようです。

現在、伊勢崎商工会議所が尽力していて、
現在の協力店は「ふらっと」さんと「むらさき庵」さんがあるようです。

「JAからか〜ぜ」と焼きそば「ほその」さんなども同様な味のコロッケを提供しているようです。

偶然ですが、先週は神社コロッケに縁があって、火曜(水曜だったかな?)には夕食で「焼きそばほその」さんで神社コロッケを食べて、
週末の「いせさき銘仙の日」には、ふらっとさんの神社コロッケをいただきました。


Re: ちりんのオジサンのコロッケ - 丸男 2015/03/12(Thu) 10:08 No.1239
各お店の位置です。
ふらっとさん・・・(グーグルストリートビューです)
https://www.google.co.jp/maps/@36.312956,139.169786,3a,75y,148.95h,88.64t/data=!3m4!1e1!3m2!1sWeJ1qLb3VxJ-9J_7ra_tag!2e0

むらさき庵さん・・・
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%82%80%E3%82%89%E3%81%95%E3%81%8D%E5%BA%B5/@36.3242097,139.2043087,19z/data=!4m2!3m1!1s0x0000000000000000:0x45112a1bc98afd7f

焼きそば・ほそのさん(旧・伊勢崎福島病院の東)

JAからか〜ぜ(伊勢崎市田中町)
http://www.go-isesaki.com/str_JA.htm

JAからか〜ぜ(伊勢崎市境百々の交差点南西角地)
http://www.go-isesaki.com/str_JA2.htm


Re: ちりんのオジサンのコロッケ - 丸男 2015/03/12(Thu) 10:21 No.1240
JAからか〜ぜは「神社コロッケ」の名前じゃなくて、「おやつコロッケ」かも知れません。

Re: ちりんのオジサンのコロッケ - 通りすがり 2015/03/13(Fri) 00:11 No.1241
ご丁寧にありがとうございます。
神社コロッケという名称がついたんですね。
確かに私が中学生に上がる頃は伊勢崎神社まで買いに行ってました。
また立ち寄った時に行ってみたいと思います。
見た目だけだとむらさき庵さんコロッケが当時の物に近い気がします。

そういえば福島病院も移転したようですね。
旧院は私が生まれ、祖母が亡くなった場所でもあるので非常に思い出深い病院です。


明治の桐生新町道 投稿者:鳩ぽっぽ 投稿日:2015/02/11(Wed) 18:36 No.1230    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
丸男さん、新桐生県道・平和町区間の開通、おめでとうございます!
では、江戸〜明治かけての桐生道はどうだったのか?といった興味が湧いて考えてみた次第です。いつも時代を逆行する投稿ばかりですみません。
画像はおなじみ明治初期の迅速側図をもとにして、かつての「桐生新町道」を辿ってみました。
おもしろいのは、現在も市街地の広い道路の中に紛れて変にカーブしている細い道が残ってますが、それが江戸〜明治にかけての道だったりするところです!
次の投稿でA〜Iまでの各地点を辿って、グーグルマップの写真とともに説明させて頂きます。


Re: 明治の桐生新町道 - 鳩ぽっぽ 2015/02/11(Wed) 19:22 No.1231
前の投稿に添付させて頂きました古地図の画像に、赤で記したA〜Iの各地点について説明させて頂きます。

A:スタート地点のAは、洋風お城の結婚式場(旧田原屋)の角、信用金庫前交差点を東に50メートルちょっと向かった交差点です。
ここはかつての城下町の東端にあたる地点で、明治になっても交差点から東は民家は少なくほとんどは水田と畑でした。
江戸時代初期は南北に総構えの土塁と堀があって道を真っ直ぐ進むことができず、いったん200メートル先の現在の井下時計店の辺りにあった木戸まで下り囲いをくぐって、また戻ってこなければならなかった不便さだったようです。

B:A地点から約25メートル先に、現在も画像右の神社の敷地内に庚申塔が残っています。庚申塔はかつて集落、村の入口や辻に魔除けとしてよく建てられたそうです。

C:こちらは、元福島病院(画像右奥)の北辺りに残る古い道です。現在も市街地の新しい道路の中に紛れて、このような変にカーブしている細い道が残ってます。区画整理が更に進めばやがて消えてゆくのでしょう。

D:こちらは旧桐生県道が六間道路と交差する平和町交差点角にある、ガソリンスタンドの裏(東)を通る道です。



Re: 明治の桐生新町道 - 鳩ぽっぽ 2015/02/11(Wed) 21:07 No.1232
E:ガソリンスタンド裏を通って、ここは旧桐生県道に出た地点です。旧桐生県道を横断して進んでいる道が明治の「桐生新町道」と思われます。

F:旧桐生県道から50メートルほど進むとあった踏切手前の、おかぜり薬局(画像奥の茂み)辺りです。
この写真では工事中のためここで古い道は行き止まりになってますが、最近の新桐生県道の開通でこの辺りもかなり変わったことでしょう。
この後、桐生新町道は恐らく新しくできた「平和町東」の交差点辺りを通って、現在の天増寺橋と同じ辺りで粕川を渡っていたようです。赤城神社の北、天増寺参道にあった子育て地蔵尊の前を通ってしばらく現在の道と同じルートを辿り、

G:Gの地点、現在の昭和町セブンイレブンの所で急に左に折れていたようです。道を北に進むとゆるやかにカーブし、

H:Hの地点で国道462号線を横切ります。そのまま直進すると道はわずかに蛇行する静かな住宅街になります。

I:住宅街を抜けると奥はJR両毛線、右側に結婚式場プリオパレスの素敵なチャーチが見えます。

I以降の桐生新町道はまず殖蓮小学校東付近に出て、その先は両毛線の北を東北に進む現在の293号線とほぼ同じルートを辿り、その道は上田字六道辻に向かってました。



Re: 明治の桐生新町道 - 丸男 2015/02/12(Thu) 11:55 No.1233
鳩ぽっぽ さん、なかなか面白い着眼点です(^o^)。
■中心市街地整備部や教会の南側の斜めの道、
■旧「平和町」交差点南東角地のガソリンスタンドの東の斜めの道、
■桐生県道を北へ渡り、斜めに入った道(現在、東武線側道工事でバリケードで交通止め。自転車歩行者OK)、
■昭和町のマルエドラッグ西側の斜めの道、
■その延長線上のプリオパレスの結婚式用教会の方へ向かう斜めの道

まさに私のぶらりサイクリングコースで、今ではあまり車が通らない道路ですが、
これが昔の桐生への道でしたか(@_@)。
まだ昔の道が残っていること、ちょっと嬉しいです(^o^)。

現在の地図と重ねると面白そうです。


Re: 明治の桐生新町道 - 丸男 2015/02/12(Thu) 11:59 No.1234
話が変わりますが、Googleマップ、こんな狭い道まで撮影しているんですね。
それも驚きです(@_@)。
どんな車で、誰が撮影しているんですかね。


Re: 明治の桐生新町道 - しょうちゃん 2015/02/12(Thu) 22:38 No.1235
丸男さん
Googleマップ 撮影 車 とかでググるといっぱい情報が出て来ますよ。
当たり前ですけど(^_^;)
情報の画像を見ると一目で解る感じですね。
自分の家の周りのビューを見た時も驚きましたよ。
こんな所も通ってるんだって、でも私有地(私有道路)と思われる脇道には入っていませんね。
神沢川の前橋側の土手もビューは有った様な?


Re: 明治の桐生新町道 - 丸男 2015/02/13(Fri) 08:38 No.1236
しょうちゃん、Googleストリートビューの撮影車両、
こんなに堂々とした整備で走っているんですね(ー_ー)。
伊勢崎辺りは何となく2年くらい前のような?
その車両の前後を走ってしまうと、ずっと映像に写っちゃいますね(^^;)。

明治時代にストリートビューがあれば、
鳩ぽっぽさんが投げかけた昔の「桐生道」も簡単に見れましたね。
未来の人は、現在の映像を簡単に見ることができるでしょうから、
歴史や考古学のあり方も、きっと変わって来ますね。


富岡製糸場周辺の店めぐり 投稿者:ふるさとの歌 投稿日:2015/01/20(Tue) 20:58 No.1226    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
丸男さん
動画で紹介する富岡製糸場周辺の店めぐり(その1)、(その2)、十分楽しませていただきました。
どこかのチンドン動画とは大違い。(笑)
映像の途中に流れるテロップやキャプションがこれまた凝っていて、観ていて飽きません。
写真とは違った動画の持つ圧倒的な情報量、臨場感がひしひしと伝わってきます。
動画を公開するまでの編集作業が大変だと思いますが、これからも珠玉の映像の公開、楽しみにしています。

Re: 富岡製糸場周辺の店めぐり - 丸男 2015/01/20(Tue) 23:22 No.1227
お〜、ふるさとさん、こんばんは。
この間は、富岡製糸場ルーツ探し・雪国信州ツアー、ありがとうございました。
有意義だけじゃなく、最高に楽しかったです。

富岡製糸場の店めぐりの動画、ご覧いただき、ありがとうございます。
最近、まち歩きやスポーツなど、動きのあるイベントは動画でアップすることが増えました。
頑張ります。

ところで、島村ミニバンドの太田呑龍様ライブは、動画撮影OKですか?
キャプションは観る前から溢れるほどに湧いてるので、後は本番だけです(^^;)。


Re: 富岡製糸場周辺の店めぐり - ふるさとの歌 2015/01/24(Sat) 23:02 No.1228
丸男さん、こんばんは。
生皮芋と比須(キビソとビス)の解説、ありがとうございました。
「キビソとビス」って、知らない人が初めて聞くと、温泉に入ってビール飲んでいるように聞こえるかもしれませんね。
「湯桧曽で恵比寿ビール」???。そんなことはないって?、失礼いたしました。

ところで、先日ご質問をいただきました、しまむらミニバンドのライブコンサートでの動画撮影の件ですが、昨日ミニバンドの総会において撮影OKの許可が出ましたのでお知らせいたします。
なお、当日の動画撮影については総会で撮影許可の審査をさせていただいております。動画撮影を希望する場合は事前に連絡をお願いいたします。


Re: 富岡製糸場周辺の店めぐり - 丸男 2015/01/25(Sun) 10:15 No.1229
ぶっ(^^;)
ふるさとさんが「湯桧曽で恵比寿ビール」なんて言うものだから
私も「キビソとビス」が「ユビソでエビス」になっちゃいました(ー_ー;)。
でも、こちらの方が覚え易い。


トウカエデ 投稿者:あおば 投稿日:2014/12/04(Thu) 09:51 No.1224    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
「Go・いせさき」で、赤城見台公園のトウカエデの並木、葉っぱの先端が滲んだようにピンク色で、
きれいなので、他の所のも見たいと思い見つけたのが「旧境高校」のトウカエデ。
樹齢約100年で、群馬県の天然記念物だけあって、存在感に圧倒されました。
行った日は、ちょうど紅葉が美しく大木なので見上げる感じです。
この学校は現在「群馬県立前橋高等養護学校・伊勢崎分校」で、今回は校長先生(女性)が案内して
くれました。 行った日は11月28日です。
 

Re: トウカエデ - 丸男 2014/12/04(Thu) 19:55 No.1225
「旧境高校」のトウカエデ、私は知りませんでした。
樹齢約100年、群馬県天然記念物とは、素晴らしいですね。
今年はもう時期が遅くなってしまったでしょうから、来年は気にかけておきたいと思います。
(一年後なので、忘れないようにしないと└(^o^)┐)


丸男さんのお陰です 投稿者:あおば 投稿日:2014/12/03(Wed) 15:02 No.1222    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
今年の紅葉でいちばん感激したのは、三和工業団地の街路樹「ナンキンハゼ」です。
色のグラデーションが何とも素晴らしく、夫と二回も見に行きました。
それと赤城見台公園のイロハモミジ、写真撮りまくりました。
あとは、紅葉ではありませんが、ラブリバー親水公園・うぬきのニワウルシの風散布種子、
白い花が咲いてるようでこれもなかなかでした。

Re: 丸男さんのお陰です - 丸男 2014/12/03(Wed) 21:19 No.1223
お〜、あおばさん、三和工業団地の街路樹「ナンキンハゼ、わざわざ見に行かれたですか。
私の方が感激してしまいました。場所が分かり難かったでしょう。
赤城見台公園のイロハモミジ・・・ここなどは一番奥まった場所で、本当に穴場ですよね。
ラブリバー親水公園・うぬきのニワウルシの風散布種子・・・これなどもまさにこの時期に見せる珍しい姿で、
どこも穴場的な場所に行かれたようで、感激しました。
「Go!いせさき」制作の励みになりました。
また、あちこち探して紹介します。


小さい秋みつけた 投稿者:あおば 投稿日:2014/12/02(Tue) 10:33 No.1220    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
ハゼの紅葉 本当に綺麗ですね〜。サトウハチローの
「ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
 はぜの葉あかくて 入日色の歌詞いいですね。

Re: 小さい秋みつけた - 丸男 2014/12/02(Tue) 12:49 No.1221
あおばさん、こんにちは。
ハゼの紅葉、見ていただいて嬉しいです(^o^)。
年によっては、茶色に変色した後、ポトリと落ちてしまうこともあって、
今年は例年よりも紅葉が綺麗だったようですね。寒暖の差が激しかったせいですかね?


NHK効果 投稿者:丸男 投稿日:2014/10/29(Wed) 21:29 No.1219    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
昨日の夕方、6時38分頃、NHKテレビであかぼり「小菊の里」を放映しました。
私もたまたま見たのですが、案の定、当サイトも訪問者が増えて、NHK効果を再び実感したところです。

ところが、な、な、何と、それをはるかに超える驚きが今日起こりました。
今日のお昼頃、我が家に車に乗ったシニア世代のご夫婦が寄って、
「『小菊の里』への行き方、教えていただけますか?」
「え〜『小菊の里』ですか?・・・。ん〜、どちらからいらっしゃいましたか?」
「東京のK市からです。昨日、NHKテレビで紹介していたので・・・。」

お〜、何と言う偶然!

でも、「小菊の里」は伊勢崎の住人でもなかなかたどり着けない場所。
東京の人に口頭では説明し切らないので、結局、我が家からの地図を描いて渡しました。

「それにしても、よく東京から出かけて来ましたね」
「え〜、定年退職してから毎日暇なので、テレビで放映された場所に出かけているんです」
何と言う行動派。
それじゃぁ・・・と、「小菊の里」のパンフレットや自分で集めた群馬の観光案内パンフレットなどを差し上げ、
にわか群馬観光大使の役を演じました。

でも、何で我が家で尋ねたのか・・・と問うと、
「この辺、道を尋ねようとしても、道路を人が歩いていないので・・・」
ん〜〜、確かに。車社会の群馬県、昼間、住宅街の歩道を歩く人はほとんどいません。
たまたまカミさんが通り沿いの庭木に水をあげている姿が目に入ったためとのことでした。

それにしても、この偶然、今年のビックリ事件のベスト10入り、間違いなしです。

噴石の恐ろしさ 投稿者:鳩ぽっぽ観光 投稿日:2014/10/01(Wed) 19:50 No.1216    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
丸男さん、浅間山の1983年4月の噴火はまったく前兆なしに起こり、火口から3Km離れた湯の平(外輪山、黒班山の内側)では直系1メートル程度の噴石が多数、着弾したようですね。
今回の御嶽山噴火の報道を見て、草津白根、日光白根にももう一生近付く気はなくなりました。

Re: 噴石の恐ろしさ - しょうちゃん 2014/10/02(Thu) 01:11 No.1217
40年位前でしょうか、浅間か白根が噴火か何か、爆発が有り、この辺(伊勢崎)でも火山灰が降ったのを思い出したのですが、山好きなみなさんにとっては辛い出来事ですね。早く被害者全員の帰宅を祈ってます。

Re: 噴石の恐ろしさ - 丸男 2014/10/02(Thu) 11:05 No.1218
鳩ぽっぽ観光さん、私が小学校の頃、浅間山噴火の火山灰が、小学校までの通学路を灰色に覆ったことを今でも覚えています。
近隣では、草津白根、浅間山、那須の茶臼岳など、暫くの間、登山者が減るかも知れませんね。
マグマの爆発に比較して、水蒸気爆発は地震観測などでは掴み難いとのこと、
今回の事故で知りました。


また来て欲しいです! 投稿者:着物エプロン娘 投稿日:2014/09/11(Thu) 22:24 No.1214    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
こんにちは!私は参加した生徒です!私は講習会をきっかけに銘仙に興味を持ち、明治館に行ってきました!今まで知らなかった伊勢崎銘仙ならではの良さ、とても強く感じました!また、昔は普段着として着られていた物が、今では着て外出すると珍しく見られてしまうことに、すこし寂しさも感じました。伊勢崎の良い物を、いつまでも守って行きたいものですね。次回の講習会にも、是非来て欲しいです!GO伊勢崎、応援しています!

ありがとうございます - 丸男 2014/09/11(Thu) 23:49 No.1215
お〜〜、着物エプロン娘さん、こんばんは〜(^o^)。
記事を読んでいただき、またコメントいただき、ありがとうございます。
そして明治館にも行かれたこと、素晴らしいです。
伊勢崎銘仙は知れば知るほど深い味わいがあり、私もまだまだ勉強中ですが、
この文化遺産を持っている郷土に住んでいることも大きな自信に繋がっています。
着物エプロン娘さんのような若い世代の方がその魅力に接してくれることも、とても嬉しく思います。
次回16日もお邪魔したいと思います。└(^o^)┐


迷惑電話 投稿者:しょうちゃん 投稿日:2014/08/30(Sat) 21:16 No.1213    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
丸男さん
自分の家は十数年前(もっと前かな?)からナンバーディスプレイ機能を使ってます。
丸男さんが言う様に、03ナンバー0120ナンバーや身に覚えの無い市外局番には出ません。
最近買い換えた電話機はナンバーと名前を登録すると呼び出し音の代わりに掛けて来た方の名前で
「***さんから電話です」と言ってくれますよ。
登録してない近所の方や学校関係者でもナンバーから迷惑かどうかは一目で解りますしね。
あと親父は、常に留守電にしてます。
たとえば、0120のナンバーでも必要な電話かどうかは留守電にメッセージを入れてる最中に
受話器を取って対応できますしね。
もし電話に出損なっても、着信への返信ダイヤルで即話は出来ますしね。
こんな使い方をすれば、振り込め等の詐欺も撃退出来そうな気がしますが????

27日の突然の嵐 投稿者:しょうちゃん 投稿日:2014/07/28(Mon) 22:36 No.1210    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
27日の嵐には驚きましたね。
昨日の三郷地区住民納涼祭の本部の片付けを早朝に行い、午後は地元のトラック屋台の解体の間のうたた寝を吹き飛ばしました。
伊勢崎市?からの竜巻警報が早いか現実が早いかの12時19分頃でしたね。
トラック屋台の解体の後は慰労会ですっかりいい気分になってきましたよ。
伊勢崎では、目立った被害が無かった様なのでほっとしてます。

それから、このHPを復活したタブレットで見た時、先週は左側がほんのわずか切れていたのが現在は綺麗に見られてます。


Re: 27日の突然の嵐 - しょうちゃん 2014/07/28(Mon) 22:40 No.1211
嵐の去った?直後ですが、この時は被害が有ったかどうか解ら無し
トラック屋台の解体の予定時間が迫っている等で書き込みが出来ませんでした。



Re: 27日の突然の嵐 - 丸男 2014/07/29(Tue) 08:20 No.1212
しょうちゃん、27日の嵐、突然にやって来ましたね(@_@)。
雨の前に突風が吹きまくって、「一体、何なんだ〜!」と驚きました(><)。
ちょうど家に一人でいた時で、布団や洗濯物がいっぱい干してあったので、大慌てで取り込みました。

タブレットでの表示、確認していただいて、ありがとうございます。
画面を縮小したり、小さな画面で表示する時、左側を固定するように変更しました。


前橋VS高崎 投稿者:こんがり 投稿日:2014/06/24(Tue) 00:09 No.1206    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
 こんばんわ
最近思うところで、良くいわれる前橋VS高崎の論争。
他県の方からもライバルだと思われているのでしょうか?
「しょぼい県庁所在地」とか「駅前が寂しい県庁」で検索すると必ず前橋市の名前があがるが
似たような県が山口県ですね。県庁は山口市で鉄道はローカルな山口線というところも
(前橋市が全国的な幹線上にない)という点で似ていると思う。
経済規模では下関のほうが大きく新幹線の駅もある。
県都=大都市、というのはいかにも日本的な考え?で、他国のことで恐縮ですが
アメリカ合衆国の場合、州都は必ずしもその州の最大の都市ではないということです。
これは州政府からの過大な介入を嫌うとか、リスクを分散するとかの
いかにもアメリカ的な(合理的な)理由があるようですが、その発想からすると
群馬県はアメリカ的?なのかな。
確かに先日新潟市へ所用で行きましたが駅前の賑わいは「東京?」というくらいにぎやかでしたし
長野市もにぎやかなところですね。
それらに比してわが伊勢崎は〜。20万都市の玄関とは思えないさびしい駅前ですね。
というかある種の秘境駅だ。駅前にあるのは交番とクリーニング店とお寺?位。
小海線の小海駅のほうがよっぽどにぎやかであります。
↓↓のように懐かしい景観も失って、街中の賑わいもなくなって
空き地だけが増えてしまった。

Re: 前橋VS高崎 - 丸男 2014/06/24(Tue) 14:09 No.1207
こんがりさん、前橋と高崎間の競争・・・歴史が古いみたいで、前橋市のWikipediaにも詳しく、
”前橋VS高崎”なんてウェブページにもまとめられていますね。
http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E9%AB%98%E5%B4%8Evs%E5%89%8D%E6%A9%8B

ところで、伊勢崎駅と周辺ですが、
日々観光客が利用する駅でもなく、通勤通学の利用が大半で、
遠来のビジネス客は本庄早稲田駅や本庄駅から来市するケースが多いようで、
いつ訪れても閑散としています。
たまの土日に高校生たちで混雑している時には、
華蔵寺公園スポーツ施設で何かのスポーツイベントがあった時などで、
仰る通り、寂しい感じがします。

でも、遠からずベイシアや美原診療所も完成し、
3,4年後には大方の道路整備も一段落するでしょうから、
もう少し賑わいが戻って来るんじゃないかと期待しています。


Re: 前橋VS高崎 - こんがり 2014/06/25(Wed) 08:23 No.1208
 丸男さん
いつもありがとうございます。
寂しい駅前が解消するのに
あと3,4年ですか〜
待ち遠しいですね。
ベイシアも単なるスーパーマーケット
というより伊勢崎ガーデンのような感じになればいいのに
と思ってしまいます。


Re: 前橋VS高崎 - 丸男 2014/06/25(Wed) 12:24 No.1209
こんがりさん、私も駅前のベイシアは、他のベイシアと一味も二味も異なった雰囲気の店にして欲しいと期待しています。
スーパーの機能ももちろん重要な要件とは思いますが、
20万都市の玄関口にふさわしい、ちょっとお洒落で、ちょっと贅沢で、
そこにいるだけで楽しいような、そんな感じの店にして欲しいです。
サロンのような、オープンカフェのようなフリースペースとか、
ちょっとしたイベントホールなどもあったり、期待が膨らんでいます。

ベイシアの幹部の人がこの掲示板を見ていてくれればいいのですが。└(^o^)┐


変わりつつあるこの周辺 投稿者:しょうちゃん 投稿日:2014/06/07(Sat) 16:14 No.1197    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
丸男さん
懐かしい景色を思い出しますね。
本屋さんは「文左衛門」支店で波志江町(第三中学北)にも有りましたね。
水門の所は一時「かっぱ寿司」、本屋さんの北には、小林文具店?あっ今も少し動いて(移転)して営業してたかな?
巨木の古民家も、チョット探検したくなる様家だった様な・・・
30年前学校(伊工高)への行き帰りで通っていたので懐かしく思い出してます。

Re: 変わりつつあるこの周辺 - 丸男 2014/06/07(Sat) 20:53 No.1198
しょうちゃん 、通学路だったんですね。
そうそう、「文左衛門」と小林文具店です。

あの巨木の古民家はミステリーゾーンでした。
誰かが住んでいたようですが、一体どこから出入りしてたのでしょう?
歩道側の生垣に、ギリギリ出入りできる隙間がありましたが。
駅周辺が謎めいていて、面白い時代でした。

今も、その南側の小さな住宅が軒を寄せ合った場所の路地に入って、
ミステリーゾーンを楽しんだりしてます(^^;)。


Re: 変わりつつあるこの周辺 - こんがり 2014/06/20(Fri) 23:06 No.1199
しょうちゃん、丸男さんこんばんわ
文左衛門書店、懐かしいですね
電子スイッチが嫌いだ…なんて言ってる場合じゃないですな。
懐かしいと言えば駅前の銭湯、第2えびす湯や川島ストアー
踏切近くの焼き鳥屋なんかも懐かしいです。
もっと古いところでは駅北のタンク貨車の引き込み線、
(旧)福島病院近くの銭湯、本町の幸越百貨店等々、
ああ、そういえば本町と大手町の辺にももう一つ銭湯があったな。
お二方がおっしゃる巨木の民家はちょっと記憶にないのですが。
父と歩いて行った駅前の銭湯が懐かしい。
今思うと昔の街並みをもっと写真に残しておけばよかったと
思います。


Re: 変わりつつあるこの周辺 - 丸男 2014/06/21(Sat) 09:30 No.1200
こんがりさん、
(旧)福島病院近くや本町と大手町の辺にも銭湯があったんですね、全く知りませんでした(@_@;)。
駅前の銭湯、第2えびす湯は閉じる少し前に、記念に入ったことがあります(^^)。
解体中の写真も何枚か撮っておきました。当サイトに1,2枚は紹介した記憶があります。

本町の幸越百貨店・・・これまた懐かしいですね。
道路側にエスカレーターがあって、それがすごく画期的に映りました。


Re: 変わりつつあるこの周辺 - しょうちゃん 2014/06/21(Sat) 22:19 No.1201
丸男さん
「幸越百貨店」は自分も名前は憶えてるんですが何処だったかと言われると・・・
ベイシア北側駐車場の西端(出入り口付近)に再建された「幸越百貨店?」が有った様な??
それと「道路側にエスカレーター」は、「旧西友」現三河屋さん管理地に在ったのは覚えてます
2階のバルコニー(乗る電動遊具を設置)と1階を繋いだ物だったと・・
エスカレーター撤去後は、「登利平」さんの店舗に成ったと・・・
あっ時代が違うのかな?


Re: 変わりつつあるこの周辺 - しょうちゃん 2014/06/21(Sat) 22:35 No.1203
こんがりさん
「巨木の民家」は位置とすると幼児向け本のキンダーブック(群馬フレーベル)や旧かっぱ寿司の反対側(東)で、以前はヤマハか何処かのピアノ教室?長谷川医院?の南付近です。
今は、駅前開発の関係で、皆移動?して丁度新しい道路の所かな?


Re: 変わりつつあるこの周辺 - こんがり 2014/06/22(Sun) 19:13 No.1204
 しょうちゃん、
「道路側にエスカレータ」のことは比較的時代が新しいです。
昔の幸越百貨店は今の駅からまっすぐに南へ下がったところが
丁字路でその突き当りだったように覚えています。
(古いですな〜、歳がばれる)
「巨木の民家」についてはなかなか思い出せません。
それから本町のスカラ座なども懐かしいですね。
近くに中華料理屋があってそれなりに街中の賑わいがあった時代でした。


Re: 変わりつつあるこの周辺 - しょうちゃん 2014/06/22(Sun) 21:40 No.1205
こんがりさん
スカラ座は懐かしいですね。
日吉劇場も・・・・
高校1年生(伊工高)時代に映画鑑賞でスカラ座と日吉劇場の2組に分かれて見た時がありましたね。
2・3年は文化会館?っだた様な・・
中華料理では無いですが、ベイシアの直近くのラーメン屋さん・・・・・名前が・・・
あと、ほその焼きそばさんのライバルだった田村さんや、ほそのさんの西の精肉店の2階の「とんき」とか・・・
わ〜、あの時代に戻りたい。


電子スイッチ嫌いです 投稿者:こんがり 投稿日:2014/04/20(Sun) 06:53 No.1190    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
 突然ですが私…
電子スイッチが嫌いです。
電子スイッチ?なんていうのかよくわかりませんが
すべての電子スイッチではないのですが。
身の回りにあるスイッチ、たとえば今操作しているキーボードの
NumLockやテレビのリモコンもこれらに該当するでしょうし
電子レンジのスイッチや無線機のキーなども該当するのかな。
身の回りにあるものほとんどが電子スイッチ?になってしまった。
最近はオーディオまでが電子式になってしまい
たとえばスピーカーのA⇔Bの切り替えも
一つのボタンを押すと切り替わってA,BのLEDが点灯したり
ボリュームも右へ回しても左に回しても
ぐるぐるとまわり続けて止まることがなく
ディスプレイに”-15db"などと表示されます。
コスト削減のために仕方がない面もあるのでしょうが、
たとえば視覚にハンディキャップのある方などには
ダイレクトに手の感覚でボリュームの”位置”が 
”9時”などといえばすぐわかると思います。
表示を見てもメーカーにより”-デシベル”
であったり単純に1から10までであったり
まちまちのように思われます。
要するにスイッチの操作に優先性がない
まあ、慣れればいいのでしょうが
あの、オーディオ機器の電子式のスイッチと
ボリュームは馴染めませんね〜
機械式のスイッチの利点に
電源を切った状態でも
スイッチの位置がわかるというのがあります。
ってこんなこと考えるのは
私くらいかな?
やっぱりアンプは
ラックスマンが一番!
あのトグルスイッチの感覚が素晴らしい



Re: 電子スイッチ嫌いです - しょうちゃん 2014/04/21(Mon) 00:01 No.1191
こんがりさん
懐かしいネーミングの<トグルスイッチ>
スイッチが入ったかどうか耳で解るパチンと言う音!
目で見て解るスイッチの向き!
今はスマートな本体が売りに成っていますから、突起部分に成るトグルスイッチは
敬遠されちゃうんですよね。
現代のリグ(無線機)にトグルスイッチは皆無?
昔のリグが懐かしい。


Re: 電子スイッチ嫌いです - こんがり 2014/04/24(Thu) 23:24 No.1192
しょうちゃん
こんばんわ、
リグ(無線機)の話が出たのでつい懐かしくなりました。
そういえば無線機って皆電子スイッチですね。
一つのキーを短押しと長押しで機能を切り替えるのや
”F”キーを押して機能を切り替えるのやら、
様々ですね。
ところで私のリグにミズホ通信のピコ6があります。
トグルスイッチはありませんが底面に
SSB⇔CWの切り替えとアッテネータのON⇔OFF
があります。スライドスイッチですね。
このリグで市民の森公園あたりから北海道まで交信したことがあります。
すごいぞ!Eスポの威力
今では入手することは困難な
大切なリグです。


Re: 電子スイッチ嫌いです - しょうちゃん 2014/04/25(Fri) 21:43 No.1193
こんがりさん
<ピコ6>懐かしいですね。確かキットでも作れた様な?
ピコシリーズで21も有りましたよね。
ピコ6を使ってたって事は・・大腿の年齢と無線歴が想像付きますね。
トグルスイッチは平型ですが・・TS−520とか(高校生の時クラブ<部活>で使ってました)
あっあの頃は回すツマミもカツカツ音を聞きながら切り替えてましたね。
自宅に在る(休眠中)のTS120の送信切り替えのスイッチ
昔の記憶にアイコムのリグでV・U系でトグルスイッチが3つ4つあったものが在った様な?


Re: 電子スイッチ嫌いです - こんがり 2014/04/29(Tue) 09:18 No.1194
 しょうちゃん
スイッチの話からすっかり無線の話になってしまいましたね
ピコ6も今は休眠中ですが、いつか復活する日が来ることを
願っています。
ところでピコ144というのが昔はあったようですが
中々オークッションで探してもないようです。
一時はピコ144+マキ電機のトランスバータで
1200MhzSSBにQRVするのが夢だったのですが
結局FT-817にしました。
C-601の1200Mhz(100ミリワット!!)
も山頂からだとすごい飛びました。
素晴らしい無線の世界!!


Re: 電子スイッチ嫌いです - しょうちゃん 2014/04/29(Tue) 22:07 No.1195
こんがりさん
自分のせいで、話が反れちゃいましたね。
それも二人しか話に乗れなくって・・・・
丸男さん、みなさんごめんなさい。


Re: 電子スイッチ嫌いです - こんがり 2014/04/30(Wed) 10:02 No.1196
 しょうちゃん
フォローありがとうございます
無線の話は趣味の板へ行ってしましょう。
でも、どれくらいのハムの方がいるのかな?


コンビニの思い出 投稿者:こんがり 投稿日:2014/02/11(Tue) 20:44 No.1178    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
 こんばんわ〜
最近自宅近くにコンビニが新規開店しました。
記事にもありましたが、ローソンさんですね。
その他、近くにはミニストップ、ファミリーマート、セーブオン
少し離れてセブンイレブンがあります。
コンビニエンスストアがこれほど多くなかった25年くらい前のことです。
当時はコンビニエンスストアが普及しはじめたころで、新聞かテレビのニュースでの話題
の中でコンビニの利便性とともにそこから出るゴミの問題をやっていた。
当時私は(結構社会派?気取りで)そんなニュースを見ながら
「あまりコンビニが増えると困るな〜」なんて言ったら
父から「コンビニができてものすごく助かっている人もいるんだ!!そんなこと言うな」
と、諭されたものです。
当時、父は専門的な機械を修理する仕事に就いていてものすごく時間に不規則で
ものすごく広域的な出張(たとえば気仙沼とか塩山市とか)へ行ってその際に若い社員を
数人連れてゆくのにコンビニのお弁当が本当に助かる。という話をしていました。
その後父は亡くなりましたが、私はコンビニを見る度に父の言葉を思い出します。
今では大のコンビニファンです。

Re: コンビニの思い出 - 丸男 2014/02/12(Wed) 20:06 No.1179
こんがりさん、そうですね、コンビニは既に現代人には欠かせない存在のようです。
思い付くままに列挙すると
●トイレ・・・外出時にコンビニの存在は貴重。
●弁当や淹れ立てコーヒー・・・レストランや食堂がなくても、食事ができる。こんがりさんのお父さんも便利しました。
●イートインコーナー・・・・買った弁当やカップめんを店内で食べれる。レストランや食堂代わり。
●ATMや振り込み・・・わざわざ銀行や郵便局まで行かなくても、近場のコンビニで間に合う。
●フードデリバリーサービス・・・高齢者や交通弱者に対して食事配達はありがたい。
●避難所・・・大雨時の自転車や歩行者の退避所。女性や子どもたちが不審者に追い駆けられた時などの避難所。
●多品種の品揃え・・・ミニスーパーマーケット+百均のような便利さ
●写真現像、FAX、コピーサービス・・・ちょっとした事務用品屋さんや現像ラボ代わり。

・・・と、取り敢えずこんな感じですかね。


Re: コンビニの思い出 - こんがり 2014/03/24(Mon) 23:06 No.1188
丸男さん、こんばんわ
最近はコンビニのお惣菜をよく利用しています。
コンビニのフライドポテトは結構店によって個性があり、
ビールの良きお供になっています。
生野菜なども置いてあり、わずかに高くても
わざわざ遠くへ行くよりも燃料が節約できるから
利用の仕方によっては本当にお得ですね。


Re: コンビニの思い出 - 丸男 2014/03/25(Tue) 09:14 No.1189
こんがりさん、コンビニの商品や業態の様化、驚くばかりです(@_@)。
コンビニの総菜やミックス生野菜の量は、一回分として、ちょうどいいし、
高齢者や独身者だけじゃなく、一般家庭でも重宝している気がします。

一昨日、セーブオン前橋力丸店に行ってみたのですが、
入り口前のオープンカフェコーナーでは焼き饅頭を食べたり、
淹れ立てコーヒーを飲んだりと自由なので、これもまた便利です。
http://www.go-isesaki.com/convenience.htm#c_saveon

セーブオン前橋みなみモール店じゃ、カレーライスなんかも食べられるし(^o^)。


女堀、淵名氏のルーツ 投稿者:鳩ぽっぽ 投稿日:2014/03/07(Fri) 00:48 No.1182    ▲ページTopへ ▼次の記事の先頭へ
丸男さん、先月の「国指定史跡・女堀シンポジウム」にご出席されていかがでしたか? これは!といった収穫はありましたか?
中世の上野国佐位郡(現在の伊勢崎市)には、中学の歴史の教科書にも出てくる「荘園」があって、平安時代末期1130年代に成立した「淵名荘(ふちなのしょう)」は或いは「佐位荘(さいのしょう)」とも呼ばれたようですね。
ちなみに隣の太田市には「新田荘(にったのしょう)」があったのが有名ですね。
1108年の浅間山大噴火で埋没した田畑の再開発を巡って、これらの荘園は成立していったわけですが・・・
赤堀花しょうぶ園の説明板にもありますように「女堀は淵名荘の水田再開発のために藤原系淵名氏により開削されたと考えられる。」といった説が有力なようですね。
その「藤原系淵名氏」の中心人物は淵名大夫兼行(ふちなたゆう かねゆき)で、兼行とその子孫の藤原姓足利氏を中軸とした豪族連合が、女堀を開削したということですね。
「淵名」なんて地名を聞いただけで若い頃は「田舎くせ〜」なんて思ってましたが、淵名大夫兼行のルーツを遡ると、平安時代に中央政府から派遣された軍事貴族、中央有力者の藤原氏で当時の東国における最大の軍事的公権力を持っていました。
兼行から5代遡ると、藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)という重要人物なのですが、秀郷は人呼んで「田原藤太(たわらの とうた)」という名を持ち、かつての大河ドラマ「風と雲と虹と」でも脚光を浴びた平将門(たいらの まさかど)の乱を鎮圧した英雄ですね!
平将門は加藤剛さん、藤原秀郷は露口茂さんというより「太陽にほえろ!」の「山さん」が演じたようです。
秀郷は、将門のファンから見れば宿敵なわけですが、将門自身も少年時代は秀郷がヒーローであったようです。
秀郷は冷静沈着、武勇の誉れ高い人物で、将門を征した後は、武蔵守・従四位下、鎮守府将軍に任じられ、源氏、平氏と並ぶ武家の棟梁(とうりょう)、藤原氏は第三の武家の名門として多くの家系を輩出したそうです。
またまた、その藤原秀郷の墓所がなんと!伊勢崎市内にあるというのがスゴいです!!
私も訪れたのは高校生の時以来なのですが、今でも藤原秀郷の墓所は旧赤堀町の今井町にある宝珠寺に残っているはずです。
検索してみたら、なんと!「Go!伊勢崎」さんの神社仏閣のコーナーですでに紹介されてました。本堂は新しく再建されたんですね〜。
歴史好きな人のブログで、藤原秀郷の墓とされる伊勢崎市指定文化財の五輪塔の写真が出てましたので、紹介させて頂きます。ぜひご覧になってください!
http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage645.html

Re: 女堀、淵名氏のルーツ - 丸男 2014/03/07(Fri) 18:43 No.1183
鳩ぽっぽ さん、こんばんは。
女堀の事業者が淵名氏であろうと言う説は、
女堀の恩恵を受けるのが淵名荘であることから、最も有力の推論のようですね。
女堀の様々な興味深い謎、今後順次解明されることと思います。

当日、私が事前の質問用紙で質問した土木施工技術的な側面は
討論の場で取り上げられたものの、残念ながら回答は得られませんでした。
歴史学者、考古学者の皆さんだったので、
土木や測量などの技術的な側面からの研究は専門者がいないようで、今後の課題のようです。

赤堀町の宝珠寺、随分前に掲載しました。
その後、住職さんから電話をいただき、読み方を修正した記憶があります。

あの辺、赤堀城の土塁なども残っていて、
磯沼へサイクリングする時のコースとして通ります(^o^)。


Re: 女堀、淵名氏のルーツ - 丸男 2014/03/07(Fri) 18:46 No.1184
忘れてしまいました(^^;)
今日、こちら(↓)に女堀シンポジウムでの講師の皆さんの話を掲載しました。
http://www.go-isesaki.com/onnabori_symposium.html


赤堀地区の石山谷地(やち)との... - 鳩ぽっぽ 2014/03/12(Wed) 21:49 No.1185
丸男さん、
記事の航空写真でB1地点、花しょうぶ園の西側あたりは昔から堀が二重構造になっており、おもしろい地形だと思ってました。
そこだけ女堀が二重に造られたのかと勝手に想像してましたが、今回のGo!伊勢崎さんの記事を通して女堀と鮮やかにクロスする「石山谷地」というのがあったのを初めて知りました!
しかも、C4付近では「今も湧水が流れ出ている」ということで、丸男さんの大発見ですね!!証拠写真もバッチリ掲載され、さすが説得力ありますね!
「石山谷地」の下流部は波志江沼上沼、下沼と連なり、この湧水は波志江沼の水源でもあったのでしょうかね〜?
女堀のこのエリアについて取り上げられている、アーバンクボタさんのPDFファイルは御覧になりましたか?
http://www.kubota.co.jp/siryou/pr/urban/pdf/19/pdf/19_5_3.pdf#search='%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E8%B0%B7%E5%9C%B0+%E6%B9%A7%E6%B0%B4'
飯土井地区上空から花しょうぶ園、波志江沼辺りにかけての、かつての女堀の綺麗な航空写真が出てました。
手前に見える建物は忠治食堂さんでしょうか、その辺りから現在、保全されている「飯土井地区」と「前工団地区」が、工業団地や道路で分断される以前の撮影と思われるものですね。「東大室地区〜花しょうぶ園」までも、ずっとつながっているように見えます。
1980年代頃の画像でしょうか? このエリアで女堀は緑の綺麗な田園地帯の中を颯爽と横断し、蛇行していた神沢川と交差して旧東山道も隣にパラレルに走っていたようですね。
記事には「石山丘陵付近では丘陵西側に沿って小規模な谷地があり、現在、表流水は女堀内北側の渋沢と、土橋で南側に流されている。調査の結果では、工事中に流入した谷地の流水は小溝を設けて神沢川へ処理していたことが判明している。」等々書かれてました。よかったら参考にしてください。
考えてみると、花しょうぶ園のあの豊かな水もどこから流れてくるのですか? すみません、そんな基本的なことも解っていません。


Re: 女堀、淵名氏のルーツ - 丸男 2014/03/13(Thu) 08:39 No.1186
鳩ぽっぽさん、私も石山谷地と女堀(赤堀)とのX字交差部については、
2月23日の赤堀公民館のシンプジウムをきっかけに改めて認識した次第です(ー_ー)。
北東流入部の湧水も、伊勢崎市教育委員会もシッカリと確認していました。

でも現在、しかも渇水期に水流を確認できて、ちょっと感激でした(^o^)。

鳩ぽっぽさんが紹介してくれたクボタのサイト、素晴らしい写真ですね〜。
蛇行する神沢川、国道50号から波志江沼まで一本通っている女堀の痕跡、
まだ前橋の工業団地も造成前で、旧東山道も分かるし。

でもあのkubotaが何でこのような論文を掲載しているのでしょうかね。
地域歴史文化への貢献なんでしょうか。筆者は峰岸さんと能登さんでしたね。


Re: 女堀、淵名氏のルーツ - 丸男 2014/03/13(Thu) 08:49 No.1187
鳩ぽっぽさん、
>花しょうぶ園のあの豊かな水もどこから流れてくるのですか?
赤堀花しょうぶ園の北部では園の東側を流れ、途中の木道ヶ所で西側の谷地に流れる水のことですか?
その水ならば、今回写真を掲載した石山谷地上流の湧水を始め、あの谷地で集水した水が流れているのだと思います。
12世紀当時と現在は別の形状とは思いますが、
現在でも、東側から入って、女堀を横断して、西側の谷地に流れて行ってますね。


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